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薄暗い部屋であった。
灯された一本の蝋燭の明かりが、“ぼうっ”とその周りを不気味に照らしている。
部屋の隅まで明かりが届かない為に細部まで見て取る事は出来ないが、何かの事務所である事は間違いない様だ。
たぶん廃墟になったビルの一室だろう。
床には資料や何やらの紙屑が乱雑に散らばり、放置された事務用の机や椅子が不規則に置かれている。
電気は来ていないらしい。
この部屋……と言うより、このビル自体もう何ヶ月も、もしかしたら一年以上使われていないかも知れなかった。
物陰や壁の隅で、何かが動く気配がする。
恐らくはネズミか何かだろう。
そんな中、男は綿の飛び出した事務用の椅子に座り、一人携帯で電話を掛けていた。
何度目かの呼び出し音が、携帯電話の受話用のスピーカーから聞こえてくる。
男は携帯電話を耳に当て、相手が出るのを辛抱強く待った。
今日既に何度も繰り返した行為だ。
こうして今日一日中何度もコールしたのだが、その都度相手が電話に出る事は無かった。
しかもこの携帯に変えてからは、非通知にしてある為に相手からコールして来る事は無い。
だから何度でも自分から掛ける。
非通知にするには理由があった。
今後の事を考えると、電話番号を残して足が付く愚を避けたかったからだ。
なかなか出ない。
ーー非通知を警戒しているのか?
そんな疑念が頭を過ぎり、電話を切ろうとした瞬間、突然相手が電話に出た。
『もしもし……』
電話に出た相手の、探る様な不審に満ちた声が聞こえる。
電話に出た相手は若い男の様だ。
突然相手が電話に出て驚いたのか、また何か含むものがあってわざと黙って様子を伺っているのか、電話を掛けた男は数瞬間を置いた。
『テメエ誰だ!』
電話に出た方の男は、苛立たしげに声を荒げた。
「くくくく……。そうカリカリするな」
電話を掛けた男は、嫌らしく笑いながら、しゃがれた濁声でさも楽しそうに言った。
『何だと!』
電話に出た男は更に声を荒げた。
「俺の声を忘れたか?」
濁声が言う。
『何だと、俺がテメエに聞いてるんだ! くだらねえ事言ってないでさっさと名前を言いやがれ!』
「くくくく……御子神、忘れたのかこの声を……。まあ残念だが仕方がない。それなら教えてやる。俺の名は村田……、一昨日の晩、貴様にやられた成田西の村田だよ!」
電話の向こう側から、電話に出た男=恭也の驚く気配が伝わってきた。
実際、恭也は驚いていた。
夕方親友の鉄二から、村田の失踪とビルに残った血痕の話を聞かされ、つい先程少年課の岩が捜査一課の刑事と共にバイト中のこの店に来て、あの夜の事をあれこれ聞いていったばかりだったのだ。
岩のおかげで、署に引っ張られなかっただけでも幸いだった。
その時、血痕の残ったビルの状況や、村田を目撃したタクシーの運転手の話を詳しく聞いている。
血は、雨に流された為に流れ出た全体の量は不明だが、致死量では無くとも重症の筈だと言う事だった。
その直後、本人の村田から、しかもどうやってこの携帯の番号を知ったのか、恭也の携帯に直接掛かってきたのだ。
恭也は、驚かずに居られなかった。
『て、テメエ、何処に居る? 何の用だ? 何で俺の番号を知ってるんだ?』
恭也は矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「オイオイ、そういっぺんに聞かれても答えられないだろう。それより大事な用があって電話したんだ」
村田はイラつく恭也とは逆に、何所か余裕な素振りで言った。
『テメエ、今自分がどう言う状況になってるか分かってんのか!』
「状況? 何の事だ?」
村田は、今置かれている自分の状況が全く分かってないらしい。
『テメエ、さっき俺のバイト先に刑事がやって来て、あの夜の事やテメエとの事を色々聞いて行きやがったんだぞ!』
「……」
村田は、少し驚き一瞬息を飲んだ。
「刑事が俺を……」
『ああそうだ! テメエの血痕が四菱ビルのシャッターや何かに大量に付いてたらしくてな、それで事件の可能性を考慮して調べていたら、テメエが一昨日の夜から行方不明だって言うじゃないか。だから刑事が必死にお前を探しているんだよ!』
恭也は吐き捨てる様に言った。
「なる程な……。だから家や後藤達からさんざん電話が掛って来てたのか…。くくくく……」
村田は、さも面白そうに含み笑いをした。
『テメエ、何がおかしい!』
受話器の向こう側で恭也が怒鳴る!
「そんな事になってるとは知らなかったが、俺はピンピンしてるよ。むしろ前より調子良いくらいだ」
『テメエいったい何の用だ! 俺はバイト中なんだ、用が無いなら切るぞ!』
「まあそう焦るな。貴様、宮内って言う奴を知っているだろう……」
村田はぞろりと言った。
『宮内だと? なんでテメエがシゲの事を知ってるんだ?』
恭也は少し狼狽した。
悪い予感が頭を過る。
「宮内と言う奴は俺が預かっている」
恭也の予感は的中した。
『何だと! それでシゲは無事なのか?』
「さあな、無事かどうかは自分の目で確かめたらどうだ?」
そう言って、村田は煙草を取り出し咥えると、髑髏の飾りの着いたジッポライターで火を点けた。
そして煙草の煙をわざと携帯の通話口に吹きかける。
恭也の耳に、ライターの着火音と“ゴオォッ”と言う息を吐く音が届いた。
『この前、六人掛かりで俺一人に負けた癖してやけに余裕じゃねえか! 今度はシゲを人質か?』
恭也は、声を荒げ怒鳴った。
「人質? まあそう取るのならそれでも良いさ。俺はあくまで貴様の携帯の番号が知りたかっただけなんだがな」
『そんな事の為にシゲをサラったのか!?』
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるぜ、俺は耳が良いんだ。それにまあ貴様を誘き出す餌も欲しかったんでな」
村田は、そう言うとまだ長いままで火の点いた煙草を、長い舌に押し付け“ジュッ”と消した。
『まさか昼間のシゲからの電話もテメエだったのか?』
「昼間の? ああ、そうだよ。俺がその宮内って奴の携帯から掛けたんだ。だがその携帯も、持ち主同様充電が切れて使い物にならなくなっちまったからな、その後は仕方なく俺の携帯で掛けてたんだよ」
『テメエ、シゲを電話に出せ! 無事かどうか話をさせろ!』
「嫌だね」
『何だと!』
「くくくく……馬鹿か貴様は。俺は別に身代金目当ての誘拐犯じゃないんだぜ。宮内を電話に出すも出さないも俺の勝手だ。貴様が宮内を取り返したいかどうかが問題なだけだ。そうだろ? 御子神……」
村田はあくまで余裕の態度を崩さない。
『シゲが無事かどうかを確認しねぇ事にはテメエの言う事に従うつもりは無え!』
「ならば宮内がどうなっても良いんだな? 俺はどちらでも良いんだぜ。貴様が来ないなら、宮内が無事に朝日を拝む事は金輪際出来なくなるだけだ。そしてまた俺は、次の餌を見付けて来れば良いだけの事だしな」
『……』
電話の向こう側で恭也は押し黙った。
恭也の怒りと悔しさが、携帯電話を通して伝わってくる。
“ギリリ”と歯軋りする音でさえ聞こえて来そうであった。
『……分かった。で、どうすれば良い?』
恭也は搾り出す様に言った。
堪え切れぬ怒りが、一言一言に込められている。
「くくくく、それで良い。時間は今夜二時、場所は先日貴様と殺りあった場所だ」
『陸橋の下だな?』
「そうだ。この前と同じ場所に深夜二時までに来い。必ず一人で来るんだぞ。あとこの事は誰にも知らせるんじゃねぇ!」
『分かってる。テメエらぶっ殺すぐらい俺独りで十分だ』
「くくく、相変わらず威勢が良いな。じゃあ待ってるぜ」
『テメエ、シゲを無事に連れ……』
恭也が電話の向こうで叫ぶのを最後まで聞かず、村田は早々と電話を切ってしまった。
村田は、携帯を折り畳みズボンのポケットに仕舞った。
短くなった蝋燭の最後の瞬きが、村田や周りの机や椅子の影を不気味に揺らしている。
その瞬間、蝋燭の火が出し抜けに消えた。
辺りは一瞬にして闇に閉ざされた。
一片の明かりも無い。
“……”
その時、村田のすぐ後ろで急に人の気配がした。
闇が人の形に凝り固まった様である。
真っ暗な為に姿は全く見えないが、その気配は二つあった。
「上手く行った様だな……」
闇の一つが喋った。
若い男の声だ。
「ああ、それもこれも皆あんた達のおかげだ」
村田は振り向きもせず、今声を掛けた闇に答えた。
「感謝するのはまだ早い。その御子神とか言う奴を始末してからの話だ」
闇が言った。
「……」
もう一つの闇が、“御子神”の名を聞いた瞬間、押黙ったまま息を呑んだ。
村田も、今御子神の名を口にした闇も、その事に気付いたがあえて何も言わなかった。
静寂が、闇を一層重くしている。
その無明の闇の中で、村田は密かに笑った。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。