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音も無く、まるで物質化した様に部屋全体を覆った緊張は、これ以上無いまでに膨れ上がり、僅かな空気の揺らぎでも、まるで薄い氷の様に粉々に砕けてしまいそうであった。
恭也と久保が、一触即発の緊張の中で、互いの目を睨み合っている。
その時、何故か恭也は“すうっ”と両の目を閉じた。
“ふうっ”
それを見た久保は、大きな溜息を付いた。
「試す様なマネをしてすまなかった。いや、その歳で大した物だ」
そう言って久保は、グロッグ18Cをゆっくりと下ろした。
佐々木達は、安堵の息を吐いた。
部屋全体に張り詰めた空気が暖気を伴って緩み、各人の全身を縛っていた緊張が急速に弛緩して行く。
佐々木は、久保が撃つ筈が無いと分かってはいても、不安と緊張に刈られるだけの殺気を久保は放っていた。
李も久保を信じてはいたが、寧ろ逆に恭也がどう出るのかが恐かった。
もしも恭也が抵抗した場合、最悪はこの場で恭也を殺さねばならない事態に発展していたかも知れないのだ。
「どうして抵抗しなかったのだ?」
久保は、平然とした態度を装い、少し興奮を押し殺す様に尋ねた。
「アンタが本気で俺を殺す気が無いと分かったからさ……」
恭也も平然と言った。
「ほう……。しかし私が一瞬殺意に刈られたのも事実だぞ」
「ああ、途中でアンタの“気”が変わったからな。だがそれならそれで良いとも思ったんだ……」
恭也の表情が僅かに沈んだ。
「それはどうしてかね?」
「俺のせいで……、俺の仲間が死んじまった……」
「それは殺された宮内茂の事かね……?」
「ああ、それに高木晶子もだ……。村田だって俺と喧嘩しなければ……、奴だってヴァンパイアに成らずに済んだのかも知れねえし、そうすりゃシゲだって殺されずに済んだんだ。それに俺が、もしもアンタの言うようなとんでもねえ化け物なら、この先他の人間を襲うようになっちまうかも知れねえ……。それを思うとよ、ここでアンタに殺されるのもアリかな? って思ったんだ……」
恭也の表情が曇った。
先程までのふてぶてしさが嘘の様である。
ーー幾ら強がってふざけておる様に見えても、結局こ奴は死んだ仲間への自責の念から逃れてはおらぬのじゃな……。まあそれも当然な事ではあるが……。
李は思った。
「恭也君、今君を撃とうとした私が言うのもおかしいがそれは違うぞ。宮内茂、高木晶子、村田浩平の三人の死と君が無関係だとは言わないが、全てが君の責任と言う訳けでも無い。彼らは飯沼彰二と言う一人のヴァンパイア……、いや犯罪者の犠牲者なのだ。しかも飯沼彰二は、奴らの仲間の手に掛かり死亡した。この世には、君が今まで映画やドラマの中でしか存在しないと思っていたヴァンパイアや獣人が現実に存在し、また彼らに対抗する為に我々のような組織も現に存在している。それに例えヴァンパイアが絡んでいなくとも、世間では殺人、窃盗、汚職、暴行、詐欺、そしてテロリズム……と、人間が犯す様々な犯罪や事件が連日のように起こっており、それらひとつひとつの事件にも犠牲者が必ず存在する。一見理不尽と思える事がこの世の中には数多くあり、非情な言い方ではあるが、それが現実であり正しい物の見方なのだ」
「……」
「良いかね。我々はたまたま人間として生まれ、当麻君はたまたま獣人として生まれた。ならば君はたまたまヴァンパイアと獣人の間に生まれただけであり、これからどう生きるかは出生の問題では無く、君自身が決める事なのだ。飯沼彰二は犯罪を犯した。だがそれは彼がヴァンパイアだからでは無く、彼自身の弱さやモラルの低さが犯罪を犯させたのだ。先程も言ったが、人間でも犯罪を犯す者は犯すし、また君の実父である恭介氏のように、例えヴァンパイアであっても常に自らを厳しく戒め、人間を襲う事無く正しく生きた者もいる。そうではないかね?……」
先程までとは打って変わって、久保はひどく優しい口調で恭也に話し掛けた。
「もしも君が、先程の私の理不尽な行動に我を忘れ、後先の事も考えず私を殺そうとしたなら、例え私が殺されたとしても、君がこの建物から生きて出る事は出来なかっただろう。君を試した事は謝るが、本当の君を知りたかったのだ。許してくれ……」
そう言って久保は深々と頭を下げた。
「構わねえよ。アンタの言った事……良く分かったぜ。でも次はどうなるか知らねえけどな!」
恭也が笑った。
李が、久しぶりに東京に出て来て、今回初めて見る恭也の笑顔だったかも知れなかった。
その意味で、李は少し安堵に胸を撫で下ろした。
「あと君に知らせておく事がある」
久保が再び口を開いた。
「何だ?」
恭也が尋ねる。
「先程、君達がここへ来る少し前に『C・V・U』の科学検査班から報告があった……」
恭也達三人は、黙って久保の話しを聴き入っている。
佐々木にとっても、この『C・V・U』からの報告は初耳であった。
「先日君が残した血痕を更に詳しく検査した結果、遺伝子的に君は間違い無くヴァンパイアと獣人の混血だが、やはり極めて特殊な遺伝子を持っているらしい。その為ヴァンパイアの遺伝子を有しているに関わらず、血液中の赤血球及び白血球、それにヘモグロビン等の数値は生物として正常で、要するにヴァンパイアのように他の生き物の血液を摂取しなくとも、“渇き”が起こらないのではないかと言う結論が出たのだ。だから先程クドイくらいに“渇き”は出ていないかと質問したのだが、どうやら科学検査班の報告は正しかったようだな」
「だ、だがよう、今朝爺と殺り合った時、俺は爺の血を吸おうとしたんだぜ?」
「私は現場に居なかったし、科学検査班でもないから詳しくは分からないが、それは恐らく君が、父親の恭介さんから受け継いだヴァンパイアとしての本能が君にその様な行動を取らせただけで、ヴァンパイア本来の“渇き”として血を吸おうとした訳じゃない筈だ。だからその後も、君は血液を摂取していないに関わらず、一度も“渇き”の兆候が現れていないはその為だろう」
「じゃあ血を吸おうとしたのは俺の身体の問題じゃなく、心の問題だと言うのか?」
「心の問題とは少し違うが……、とにかく君は血を飲まなくても生きて行けると言う事だよ」
「そうか……、そう言う事であったのか……。それならば確かに納得が行くわい……」
李が得心して漏らした。
「それに実際の狼は肉食だが、当麻君の例を見ても分かる様に、獣人は人間と同じ雑食だ。最も肉を好む傾向はあるが、これまでの記録からも獣人は決して肉だけを食べる訳では無い。そうだな?」
久保が獣吾に視線を向けた。
「ああ……。さっきも言ったが、獣人族が人肉を食べたのは遥か昔の話だ。それに俺も肉は好きだが別に生肉や内臓を食べる訳けじゃねえし、ちゃんと野菜や魚だって食べる。特に隣りに住んでた婆ちゃんの煮てくれた山菜や肉じゃがは大好物だったし、牛丼もラーメンも大好物だ」
獣吾が言った。
「ならば恭也君にとって一番大切な事は、君の中に眠る魔族としての因子や、凶暴な獣性をどうコントロールし、どう飼い馴らして行くかと言う事だ」
獣吾の言を引き継ぐ様に久保が言った。
「それならば儂に考えがある……」
李が思案に耽っていた顔を舒に上げた。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。