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「……それで人払いをされた訳ですか……」
光牙は、何か含む言い方で、目を“すうっ”と細めた。
「全く、何なんだい? たかが『生成り』のクセに!」
夜叉姫は、憤りを露に毒気を吐いた。
ただでさえ切れ長で吊り上がった目を、怒りで更に吊り上げている。
長くアップに結わえた髪が解れ、白いうなじにはらりと掛かっていた。
“ぞっ”とする程艶かしい。
青く見える程白く透き通ったきめ細やかな肌は魔性そのものである。
話す度に蠢く赤い舌が何ともエロチックである。
男ならば、直視すれば高ぶる理性を押さえ切れず、思わずむしゃぶり付いてしまうに違いない。
勃起しなくなって久しい老人のモノでさえ、天を向いて反り返る事は間違いなかった。
だが光牙は、冷静さを保ったまま涼しい顔で夜叉姫と向き合っている。
姉弟ならば当然とも言えるが、それでは済まさぬ魔性をこの夜叉姫は持っていた。
そう言った意味では、この光牙と言う男の胆力はなかなかの物と言えた。
「仕方ありませんよ姉上、十兵衛は父上のお気に入りなのですから……」
「全く気に入らないねえ……。そう言えば光牙、父上にも聞いたのだけど、あの方のお姿が見えないのはどうしてだい?」
夜叉姫が訊ねた。
「……」
光牙は答えるのを躊躇う様に、口を閉ざし目を背けた。
夜叉姫が腰を浮かす。
「何だい? 先程の父上の様子もおかしかったけど、あの方がどうかしたのかい?」
夜叉姫が、不安気に再び問い掛ける。
「姉上、お心を確かに聞かれませ」
光牙は正座したまま、下から睨む様に夜叉姫の顔を見詰めた。
「何だい? あの方に何があったと言うんだい? ああ、じれったい! はっきりお言い!」
夜叉姫は、焦れる様に大声を上げた。
「姉上、御子神恭介は死にました……」
光牙は、氷の表情で冷徹な事実を伝えた。
「な……、何と……。今何と言った?」
「姉上、御子神恭介は死んだのです」
光牙はきっぱりと言った。
「う、嘘じゃ! 嘘じゃ嘘じゃ嘘じゃ。お前は私を謀っておるのじゃ! そうであろう!」
夜叉姫は立ち上がり、狼狽し狂った様に叫んだ。
「姉上、お心をお鎮め下さい!」
「オオォーッ」
夜叉姫はあまりのショックにうろたえ、その美しい顔に爪を立てた。
爪が、白く透き通る肌の肉を抉る。
あの美しくも妖艶な顔に左右八本の醜い爪痕が刻まれ、夥しい量の血が流れ出た。
流れ落ちる血がか細い顎を伝い、高価な黒留袖に赤黒い染みを作って行く。
床の高価なペルシャ絨毯にも、赤い血が血溜まりを作っていた。
「光牙、光牙! いつじゃ、いつあの方は亡くなられたのじゃ!」
「十八年前です……」
「じゅ、十八年前とな……。して、して何故じゃ。何故亡くなられたのじゃ!」
「私が……、私が手の者と共に」
「オォォゥ! 光牙、己があの方を殺めたのか! 私があの方にどれ程恋慕の情を抱いておったか知っていながら、弟の己があの方を殺めたのか! 何故……何故じゃあ!」
夜叉姫は烈火の如く怒り、嘆き、炎の怒気を吐き出した。
髪を振り乱し、羽織った黒留袖も完全に開け、全裸の肢体を隠す事無く光牙を睨め付けている。
凄まじい形相である。
鬼相と言って良かった。
「お鎮まり下さい姉上! 私の話をお聞きなさい!」
光牙が大声で叫ぶ!
狂い悶える夜叉姫の動きが、ぴたりと止まった。
乱れた黒髪が、溢れる涙と爪痕から流れ出る血で顔にべったりと張り付き、その張り付いた髪の間から光牙を睨め付ける目には、地獄の鬼火が宿っている。
まさしく鬼の様であった。
「言うてみよ……。言うてみよ光牙……。じゃが言葉には気を付けよ…。その言い訳けが腹に入らぬ時は、如何に我が弟でも我が嘆き、そなたの血で償うて貰うぞ……」
夜叉姫は禍々しい妖気をその身に纏い、光牙を睨め付けたまま“ぞろり”と言った。
「その前にお座り下さい……」
光牙がそう言うと、夜叉姫は鬼の形相のままその場にゆっくりと腰を下ろした。
「では……聞かせて貰おうか……」
夜叉姫はそろりと口火を切った。
「御子神恭介は、我が眷属を裏切ったのです……」
光牙は、少し間を空けてゆっくりと語り出した。
「裏切ったじゃと……、あの方が我が眷属を裏切ったと申すのか……?」
「そうです。今から十八年前……、奴は我々を裏切り、我が眷属の仇敵たる獣人族に内通していたのです……」
「何と! 獣人族とな!……」
「そうです。奴は人間共と交わした約定を遵守する為の“管理者”と言うお役目を賜りながらも人間に肩入れし、そればかりか獣人族と内通までしていたのです……」
「私が眠りに着いている間に、まさかあの方がその様な裏切りを……」
夜叉姫は、あまりの驚愕に出せなかった声をなんとか搾り出した。
「だから私が奴を処分しました……」
「それを、それを父上はお認めになられたのか?」
「無論です。これは父上の命令でした事です」
「じゃが、いったいどうしてその様な事になったのじゃ?」
「奴は、父上が進めておいでになる計画を阻害せんと企てたのです」
「計画……? 計画とは何んぞや? もしや先程の“目覚めの儀”で父上が言うておられた、この国を支配すると言うアレか?」
「そうです。この国を支配する為の計画です。その為に必要な三種の神器の内の一つ、真の八尺瓊勾玉を手に入れるのを阻もうと、御子神恭介が邪魔立てをしたのです」
「光牙、いったい父上は何故今頃になってこの国を支配なさろうとしておられるのじゃ? しかも真の三種の神器などと……」
夜叉姫の涙は既に止まっていた。
それと同じ様に、顔の両頬から溢れ出ていた血も既に止まっている。
「姉上はまだ“語り部”から“写し”を受けておられなかったのですね……。では私から全てを言葉にてお伝えするのは差し控えますが、簡単に説明だけしておきましょう。今からちょうど十八年前、我々は真の三種の神器の内の一つ、真の八尺瓊勾玉が岩手県の遠野、つまり獣人族の隠れ里に宝として密に奉られている事を突き止めました。しかし、その時“管理者”を務めていた御子神恭介が父上を裏切り、獣人族の里へこの事を知らせに行ったのです。そして我々の計画に抗うよう、獣人共を嗾けたのです」
「何と……。それでどうなったのじゃ?」
夜叉姫は先を焦って聞いた。
いつの間にか光牙の話に引き込まれている。
「私が策を練り、人間の政治家共を使って、昔からの仇敵であった獣人族を滅ぼしました。そして真の八尺瓊勾玉を手に入れた後、獣人の里から一人逃亡した御子神恭介を捜し出し、私が子飼いの部下と共に処分したのです……」
「何と……、私が眠っている間にあの獣人族までが滅んでいたとは……」
夜叉姫は漏らした。
「そうです。無論表向きには、獣人族がその昔、時の朝廷と交わした掟を破り、“防人”の者を喰い殺した為の処置と言う事になっています。一方御子神恭介も、人間共と交わしていた約定を破り、“管理者”と言う立場でありながら人間の生き血を吸った為の処分と言う事にしてあります」
光牙の冷徹な目が暗い影を写した。
「オォォォ。光牙、そなたの言うのが真に真実であるのならば、闇御前の娘としては幾ら苦しくとも受け入れねばならぬ……。じゃが……、じゃがこの胸に渦巻くあの方への想いは、いったいどうすれば良いのじゃ……」
夜叉姫はその場に崩れ落ちた。
再び涙が止めどなく溢れ、身体が小刻みに震えている。
「今は泣かれませ。涙枯れ果てるまで思う存分泣かれませ……」
光牙は、泣き崩れる姉に優しく声を掛けた。
しかしその瞳には、暗く青い氷の炎が映っていた。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。