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「恭也ー!」
李が叫んだ。
すると、ビルの出入口付近で対峙していた二匹獣人の内、手前で背を向けていた方が李へとゆっくり振り向いた。
「グルルルル……」
恭也が喉を鳴らす。
「恭也……、お前か……?」
李は呻く様に漏らした。
最早、恭也の面影は何処にも無い。
髪は獅子の鬣の様に背中まで伸び、全身を長い獣毛がびっしりと覆っている。
あまり獣毛の生えていない顔でさえ、前に迫り出した上下の顎や耳元まで裂けた口が、獣人のそれを彷彿とさせた。
更に先の尖った耳や長く伸びた爪は確かに獣人そのものだが、獣毛の色は李の知る獣人とは少し違っていた。
しかもこの獣人には、吸血鬼と同じ牙が二本だけ長く伸びている。
やはり佐々木の言った事は本当だったのだ。
だが更に李を驚愕させたのは、恭也の他にもう一匹獣人が存在していた事だ。
佐々木との会話の中でも話した様に、十八年前獣人族は皆絶滅した筈であった。
しかし今恭也の後ろに見えるのは、紛う事なく獣人である。
李は戸惑った。
電話での陽子の話から想像するに、恭也はショウと言うヴァンパイアを捜しに来た筈だ。
しかし肝心のショウの姿は無く、何故か絶滅した筈の獣人と対峙している。
もう何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。
だが恭也から禍々しい妖気が放たれ、今も李を獰猛な眼差しで睨め付けている事だけは紛れも無い事実だ。
「こいつはマズイのう……」
李は、他人事の様に呟いた。
今朝仕合った時の恭也とは、比べ物にならぬ程の妖気だ。
しかも今朝は未だ『貴族』としての覚醒が済んでいない状態であったが、今は『貴族』だけでなく、『人狼』としても殆ど完全に覚醒してしまっている。
いや、最早『貴族』だの『人狼』だのと言う別々の括りでは無く、二種類の魔族の因子を融合させた新種の『魔獣』としてそこに存在しているのだ。
しかも今夜は満月である。
見た目からして人狼の特徴を色濃く残している恭也の魔力は、今や最高潮に達しているに違いない。
これでは、幾ら伝説の武神・最強の仙道士と謳われる李であっても些か手に余る。
その時、ふと恭也の後ろにいる獣人が、李に視線を投げ掛けている事に気が付いた。
李の視線が一瞬獣吾に流れる。
だが恭也は、その一瞬を見逃さなかった。
恭也が凄まじいスピードで、李に向かって襲い掛かって来る。
李は、懐から針を数本抜き出すと、防御の態勢を取るのではなく、自らも恭也に向かって駆け出した。
彼我の距離が一気に縮まる。
李が、恭也の顔を目掛け、取り出した針を投げ付けた。
だが恭也は、左腕をひと振りする事で飛来する針を全て薙ぎ払った。
何と言う動態視力と反射神経であろうか!
そして両腕を伸ばし、鋭い爪と耳元まで裂けた大きな口で、李の喉笛目掛けて襲い掛かった。
だが恭也の爪は空を切り、噛み合わされた牙は空を噛んでいた。
何と李は、恭也の爪と牙が届く瞬間を見切り、高くジャンプする事で恭也の攻撃を躱すと同時に、恭也の頭に“トン”と手を着いて、まるで跳び箱でも跳ぶかの様に恭也の後方へと難無く降り立ったのだ。
今朝の闘いからも、覚醒を始めた恭也のスピードは、遥かに自分を凌駕している事を承知していた李は、フェイントで針を投げる事で恭也が躱す零コンマ何秒と言う時間を稼ぎ出し、その隙を突いて恭也の攻撃を躱し切ったのである。
やはりこの老人も化け物であった。
更に李は、その足で獣吾の元へ駆け寄った。
「コリャそこの人狼、お前もちょこっと力を貸せい!」
何と李は、事もあろうか、大胆にも初対面の、しかも獣人である獣吾に悪びれる事無く助力を請うたのである。
これには流石に獣吾も呆気に取られた。
獣人に姿を変えている自分を恐れる所か、逆に加勢しろとこの老人は言っているのだ。
しかもどうやらこの老人とあの化け物は知り合いらしい。
獣吾は、少し戸惑った。
「何じゃ? お前さん日本語が分からぬのか?」
李は、獣吾を見上げて言った。
李と獣吾では身長差が五十センチ以上ある。
まるで大人と子供だ。
「オデハ、ニッボンジンダ……」
獣吾が答えた。
だが耳元まで裂けた獣の口では、横から息が漏れる為上手く話す事が出来ない。
「そうか、この国の獣人族は絶滅したと聞かされておったが、まだ生き残りがおったようじゃの! 儂は何としてでもあ奴を止めねばならぬ。お前さんの力を貸してくれぬか?」
李は、まるで昔からの知己に話掛ける様に言った。
だが、視線は油断無く恭也へ向けたままだ。
ーーいったい何者だ?
ーー先程の技や身のこなしから見てタダ者でない事は一目瞭然だ。
ーーしかも獣人族の事情にも通じているようだし、全く得体が知れない。
ーーだが実際あの化け物は、今の自分の手に余るのも事実だ。
ーーいっそ今は、この老人にあの化け物の相手をさせておき、その間に先程の部屋へ『降魔の斧』を取りに戻るか。
ー瞬獣吾は迷ったが、この老人の如何にも好々爺然とした顔を見ていると、そんな姑息な考えも吹き飛んでしまう。
「ワガッダ、ギョウリョグジヨウ……」
獣吾は話し難そうに、李の申し出を受諾した。
李は獣吾の顔を一瞬見上げると、堪らない笑みを見せた。
獣吾も釣られて破顔したが、何せ獣人の顔ではあまり表情が伝わらない。
「では行くぞ! 儂は奴に符術を掛ける。お前さんはその間の時間を稼いでくれ」
そう言うと、李は懐から漆塗りの小さな筆入れを取り出し、中から先が朱墨で紅くなった筆を一本取り出した。
獣吾は黙って頷いた。
ーーあの化け物をどの位抑えて置けるのか自信は無いが、今はこの不思議な老人に賭けるしかない。
獣吾は再び気を高めた。
内功を練り身体の隅々まで気を巡らす。
李が、獣吾を見上げ“ホウ……”と感嘆を漏らした。
恭也が、目標を獣吾に変更した様だ。
獣吾と同じ様に、恭也も“魔気”を練り始める。
「ガオォォォン!」
「グウォォォン!」
恭也と獣吾は、殆ど同時に地面を蹴った。
彼我の距離が一気に詰まる。
恭也が爪を振るった。
だが獣吾は、構う事無く右肩を前に思い切り恭也へと突っ込んだ。
恭也の爪が獣吾の右肩の肉を深く抉る。
鋭い痛みが肩に走るが、獣吾の勢いは止まらない。
獣吾はそのままの勢いで正面から恭也に突っ込んだ。
“ドガッ!”
肉と肉がぶつかり合う鈍い音が響いた!
獣吾の渾身の体当たりで、恭也が後ろへ吹っ飛ぶ。
だが、恭也は両足を踏ん張る事で、何とか転倒する事だけは避けた。
恭也の破れかけたスニーカーの裏が、アスファルトとの摩擦で白い煙りを上げる。
身長で約二十センチ、体重で三十キロもの体格差は、格闘に於いて物理的にも絶対的な差だ。
ましてや獣人である獣吾の体当たりは、トラックと正面衝突した程の衝撃があるに違いない。
本来なら骨がバラバラになり立ってなどいられる筈が無かった。
だが少し後ろへ下がっただけで堪え切るとは、恭也のパワーも凄まじい物がある。
少しフラつく恭也に、更に獣吾が襲い掛かった。
両腕を伸ばし、恭也の両肩を掴もうとするが、獣吾の爪は虚しく空を掴んだ。
恭也は上体を屈め、身体を横に振る事で獣吾の爪を躱すと、下から伸び上がる様に獣吾の首筋へ鋭い牙で噛み付いた。
「グァァァァッ!」
獣吾が絶叫する。
獣吾の首から鮮血が迸った。
たがその瞬間、いつの間に懐へ入り込んでいたのか、李が恭也の腹部に手を当てた。
瞬時に恭也も気が付いたが、先に仕掛けた李の方が断然早い。
“ズン!”
李は激しく震脚を鳴らすと、手に気を集中させた。
「吩!」
李の口から激しい呼気が洩れる!
“発勁だ”
思わず牙を獣吾の首筋から離し、恭也は身体を“くの字”に折り曲げた。
その期を逃さず、獣吾が恭也の背中へ肘を打ち下ろす。
背中に肘を喰らった恭也は、そのまま地面に突っ伏した。
俯せに倒れた恭也の横腹を、獣吾が下から蹴り上げる。
恭也はそのひと蹴りで一瞬宙に浮くと、今度は仰向けにひっくり返された。
更に獣吾は攻撃を止める事なく、舒に恭也の上へ馬乗りに跨がると、今度は自分の牙を恭也の首筋に突き立てた。
「ガァ−ッ!」
夜気を裂く恭也の絶叫が轟き、激痛に手足をバタバタと動かすが、グレイシー柔術さながらの寝技で獣吾は恭也の自由を奪って行く。
恭也の首筋から激しく血が迸った。
だが先程の怪我で、獣吾も首筋から激しく出血している。
二匹の獣が、互いの血で紅く染まって行った。
その隙に、李は懐から取り出した針を、恭也の左右の肩や太腿に一本づつ刺して行く。
すると、あれ程激しくもがいていた恭也の手足が、まるで金縛りにでもあったかの様に“ぴくり”とも動かなくなった。
李は、恭也のツボに針を刺す事で、恭也の動きを封じたのである。
更に李は、持っていた筆を吹き出す恭也の血に浸した。
そして新たに取り出した黄色い呪符へ、恭也の血を朱墨代わりに何やら呪を書き始めたのだ。
しかもその咒符は、何と人の形をしていた。
呪を書き終えた李は、更に懐から何枚かの咒符を取り出して必要な物だけを選ぶと、口から血の泡を吹きもがく恭也の額にぴたりと貼り付けた。
「良いぞ、離れておれ」
李が獣吾に声を掛けた。
それを聞いた獣吾が恭也から離れる。
恭也は、手足が麻痺して動く事が出来ず、首だけを左右に激しく振っていた。
李は人型の咒符を手に持つと、もう片方の手で印を結び、目を閉じて呪を唱え始めた。
恭也が苦しそうに首を振ってもがく。
李も玉の様な汗をびっしりと掻いていた。
獣吾は黙って見守るしかなかった。
李が更に念を凝らす。
次の瞬間、李が握っていた咒符と恭也の額に貼り付けた咒符に変化が起こった。
それら二枚の咒符に黒い靄が掛かり、次第にその靄が大きさを増して行く。
いや、咒符だけでは無い。
黒い靄は恭也の全身から立ち上っていた。
呪を唱える李の声が更に大きくなる。
李自身もかなりの精神力と体力を使っている様だ。
その時、李が“カッ”と目を開いた。
それと同時に、恭也や咒符を取り巻いていた黒い靄が一瞬にして霧散した。
見ると、人型の咒符がまるで燃えカスの様に黒く変色し、李の手の中でボロボロと崩れて行く。
恭也の額に貼られた咒符も同様に黒く変色し、燃えカスの様に脆く崩れた。
すると、あれ程禍々しかった『魔気』が、跡形も無く消え去っていた。
と同時に、恭也の全身にびっしりと生えていた獣毛がずるりと抜け落ち、地面に小山を作った。
迫り出していた上下の顎も、徐々に元の形へと戻っていった。
しばらくすると、恭也は元の人間の姿に戻っていた。
「ふう、今度は上手く行った様じゃの」
李は、吹き出した玉の様な汗を拭いながら言った。
端で事の成り行きを見ていた獣吾は、驚きに目を丸くしていた。
「お前さんのお陰で本当に助かったわい。礼を言うぞ」
李はぺこりと頭を下げた。
それを見た獣吾は、大きく息を吸い込み気と共に体内に巡らすと、ゆっくりと大きく息を吐き出した。
すると恭也と同じ様に生えていた獣毛がずるりと抜け落ち、獣吾の足元に蟠った。
迫り出した顎も徐々に戻り、元の獣吾の顔に戻って行く。
ただ最初から迫り出していた厳つい下顎はそのままである。
一瞬、頭髪や眉も獣毛と共に抜け落ちた為、かなり不気味な顔になったが、すぐにも生え始め多少短くはあるが適度な長さに生え揃った。
全身に負った夥しい傷痕も、既に治り初めている。
ただボロ切れとなったTシャツやジーンズは元に戻る筈もなく、惨めな姿と化していた。
「おい爺さん、あんた何者だ? それに何がどうなったんだ?」
やっとまともに話せる様になった獣吾が、慌てて口を聞いた。
「儂はしがない仙道士じゃよ」
「せ、仙道士って爺さん……」
「本当の事じゃ。それに今のはあの阿呆を獣化から解く為に、奴の妖気をこの咒符に吸い取らせたのよ」
そう言って、李は手の中で燃えカスとなった咒符を見せた。
最も今ではそれも灰の様になってしまい、手を広げた瞬間にハラハラと吹き飛んで行った。
「じゃが儂一人ではこうも上手くは行かなんだじゃろう。お前さんとの闘いで、体力や魔力をかなり消費しておった上、お前さんが奴を押さえ込んでくれたお陰で呪を掛ける事が出来たのじゃ。本当に礼を言うぞ」
「いや、俺の方こそ爺さんが居なかったらあの化け物に殺されていたトコロだ。礼を言うのはコッチの方さ」
「なんのなんの。そんな事礼には及ばぬよ」
李は、そう言って首を横に振った。
「それよりよ、爺さんはあの化け物を知ってるみたいだったが、いったいアリャ何なんだ?」
獣吾は、倒れている恭也へ目をやった。
「ありゃ儂の孫じゃ」
「ま、孫だって! じゃあ爺さんもあの化け物と同類なのか?」
獣吾は大声を上げた。
「いや儂は人間じゃよ。孫とは言うたが、アレは儂の養子じゃ」
その時、気を失っていた恭也が目を覚ました。
「オイ爺、身体が動かねえぞ! 早く針を抜きやがれ!」
恭也は動かぬ身体で、首だけ横を向き叫んだ。
「ほう、気が付いた様じゃの。まったく世話の焼ける阿呆じゃて。しばらくそこで反省でもしておれ!」
李が毒突いた。
「悪い、俺が悪かった! 頼むから何とかしてくれ!」
恭也は懇願した。
「仕方ないのう……」
そう言って、李は恭也の肩や脚に刺さった針を抜き取った。
手足が自由になった恭也は、すかさず起き上がった。
「爺、また迷惑掛ちまったみたいで、悪かったな……」
恭也は素直に謝った。
恭也の肩が落ちている。
「もう済んだ事じゃ。それよりお前、いったい何でこうなったのじゃ?」
李が尋ねた。
「陽子から、学校の近所で最近行方不明になってる奴が大勢いるって聞いて、間違いなくショウの奴の仕業だと思ったから、この近辺を回ってたんだ。そしたらこのビルからスゲエ気を感じて、ビルの中に入ったらアイツと片目の男が闘ってたんだ……」
恭也は、獣吾へ目を遣って言った。
獣吾は黙ったままこちらを見ている。
「それでどうなったのじゃ?」
「片目の方が逃げ出して、その後部屋の中を見たらシゲとショウが死んでいたんだ。それを見たらつい“カッ”となっちまって……、後の事は多少覚えちゃいるんだが、何かこの凶暴なモンが自分でも押さえられなくて、何か殺り合うのが楽しいって言うか、アイツを八つ裂きにしたいって言うか、とにかくシゲやショウの事とかも関係なくなっちまってよ……」
そこまで言って、恭也は言葉を詰まらせた。
黙って話しを聞いていた李は、いきなり恭也の頬を平手で殴った。
“パァン!”
乾いた音が夜の駐車場に響き渡り、恭也の顔が弾けた。
「あれ程ショウとか言う吸血鬼には手を出すなと言うてあったろうが! 何故お前は儂の言う事を聞かぬ! 今はあの人狼が手伝うてくれたから良かったものの、儂一人ではどうなっておったか分からぬのじゃぞ!」
李は激しく怒鳴った。
恭也は頬を押さえたまま、李の話しを黙って聞いていた。
「とにかくあの人狼に礼を言い、今までの事を全て詫びるのじゃ!」
李はぴしゃりと言った。
恭也は、うなだれたままとぼとぼと獣吾に歩み寄ると、獣吾に頭を下げた。
「悪かったな。何か“カアッ”となっちまって、アンタにヒドイ事しちまった。本当に悪かったな」
恭也は、珍しい事に男に対して素直に謝った。
「まあ良いって事よ。それに俺があの部屋に着いた時には既にああなってたんだ。だから奴らを殺ったのは俺じゃねえ。恐らくは十兵衛が殺ったんだ」
「十兵……?」
恭也がそう言いかけた瞬間、駐車場の出入り口に殺到する大勢の人間の気配があった。
「そこまでだ! 全員そのまま手を上げてこちらを向け!」
やっと静寂を取り戻した夜気を裂き、低いバリトンが駐車場に響き渡った。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。