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「くっそー! 御子神の野郎、次は絶対にぶっ殺してやる……」


 滝の様な土砂降りの雨の中、村田は痛む膝を庇う様にふらつきながら歩いていた。


 蹴られた膝が激しく痛み、歩く事すらままならない。


 全身が雨ですぶ濡れだ。


 黒いTシャツは肌に張り付き、デニムのパンツは濡れてゴワゴワになっている。


 スニーカーの中にも雨水が入り、重たい足取りを更に重くしていた。


 村田は、さながら幽鬼の様に夜の街を彷徨い歩いていた。


 御子神恭也に倒され、気が付いたら午前二時近くになっていた。


 最初は六人居た筈だが、二人は行方をくらまし目が覚めたら四人だけになっていた。


 村田は意識の無い二人を何とか揺り起こすと、ズボンの尻に赤黒い染みを作ってぐったりとしている茶髪の男=後藤に声を掛け、自分が意識を失った後の顛末を聞いた。


 どうやら浅野と渡辺の二人は、御子神恭也にビビって逃げ出し、御子神自身もそのまま出て行ったらしい。


 三十分以上は気を失っていた様だ。


 村田は痛む膝を堪え何とか起き上がると、意識を取り戻した二人に後藤を抱え上げるように言った。


 後藤はもう自分の力で歩く事すら出来ないらしい。


 肩を貸すよう二人に命じ、村田は激しい雨の降る外へと出た。


 ずぶ濡れになりながら駅前の通りまで出ると、村田は彼等と別れた。


 彼等は村田を心配したが、村田は一人になりたかった。


 村田は、二人に後藤を家まで送るよう命じると一人雨の街を歩いて行った。


 無論タクシーで帰ると言う選択もあったが、今はこの雨の中に身を置きたかったのだ。

 飛礫の様な雨が村田の顔を激しく叩く。


 喧嘩に負けた悔しさ、膝の激しい痛み、二人とは言え仲間に見捨てられた悲しみ、そして初めて喧嘩で不様にも気絶させられた屈辱……。


 これらの痛みを次に復讐する時の糧とする為、今は雨に打たれていたかったのだ。


 あれ程賑っていた駅前の通りは、この雨のせいで人通りも無くなり、道路に溜まった雨水を蹴る様に高い水飛沫を上げ車が走り去るのみであった。


 村田は、ふらつきながら痛めた足を引摺る様にして歩いた。


 本来ならかなり蒸し暑い筈なのに、雨に体温を奪われ身体中の感覚が鈍くなっている。


 どの位歩いただろうか……。


 村田は駅前の繁華街を抜け、いつの間にかオフィスビルの建ち並ぶオフィス街へと差し掛かっていた。


 この時間のオフィス街は、人があまり歩いていないのは当然だが、この雨のせいで犬や猫一匹すら通らない。


 実際、車ももう殆ど通らなくなっていた。


 身体が冷え、思考も徐々に虚ろとなり、足の痛みが既に耐えられなくなってきた頃、家に帰ろうとも思ったが既にタクシー一台見付ける事が出来なかった。


 村田は、近くにあったオフィスビルのシャッターの降りた入口の軒先で雨宿りした。


 こんなにびしょ濡れの状態で今更雨宿りでもないのだが、もう歩く事が出来なかったのだ。


 雨は、以前激しく降り続いている。


 村田は、閉じたシャッターの前に座り込み、熱が出て来たのか凍える身体でしばらく雨宿りをした。


 凍える身体、痛む膝、止む事のない雨……。


 村田は途方に暮れた。


 そうしている内に、村田は溝口がベッドの上で言った言葉を思い出していた。


『……村田……、お前は強い。それはこの俺が一番良く知っている。だが奴は、御子神恭也だけは手を出すな……。奴は化け物だ……』


 そう言った時の、奴の心配そうな顔が頭に浮かんだ。


 溝口の言った事は本当だった。


 奴は……、御子神恭也は、とても自分達の手に負えるような相手では無かった。


 あの獣の様な反射神経とずば抜けた運動神経……。


そして何よりあの速くて的確な重いパンチと蹴り。


 更に異常な程打たれ強い強靭な肉体。 

 

 どれをとっても桁が違う。


 溝口が言うように、奴はまさしく化け物だった。


 また、今までどれ程の修羅場を潜り抜けて来たのか、あの喧嘩慣れした何者も恐れない気概。


そして余裕……。 


 今夜、自分達がこの程度の怪我で済んだのは僥倖だった。


 いや、御子神恭也がこの程度で済ませたのだ。


 更に言えば、自分達は六人掛りで、しかも道具まで使って、御子神恭也を本気にさせる事すら出来なかったのだ。


 実力が違い過ぎる。


 昨日まで御子神恭也の噂は色々と聞いていた。


 でもその全てが嘘では無いにせよ、誇張されたものだと思っていた。


 しかし噂は本当だった。


 いやそれ以上だったのだ。


 だが奴への憎しみはある。


 この屈辱を晴らさない訳には行かない。


 だが、もうどうやっても勝てる見込みが無かった。


 銃でもあれば別だが、それでさえ絶対に勝てるとの自信が持てなかった……。


 瞼が重い……。


 少し睡魔が襲って来た様だ。


「どうかしましたか?」


 その時、ふと横から声が掛かった。


 村田は驚いて跳ね起きた。


 膝の痛みも忘れて中腰になっている。


 驚きと不安を隠せないまま、凍り付いた表情で村田は今しがた声のした方に目をやった。


 声の主は、村田のすぐ横に居た。


 横とは言ってもビルの軒下には入らず、降りしきる雨の中に立っている。


 街灯のみの薄明かりと、激しく降る雨に遮られて顔の細部や表情までは良く見てとる事が出来ないが、人影は全部で二つあった。


 一つは今自分に声を掛けてきた男のものだ。


 背が高く痩せた男の様だ。


 全身ずぶ濡れで、黒いシャツと黒いパンツが身体に張り付いている。


 ブーツまで黒かった。


 全身黒ずくめだ。


 黒く長い髪が顔に張り付き表情は全く読めない。


 ただ血の様に紅い唇が印象的だった。


 もう一つの影は、この男の少し後ろで寄り添う様に立っている。


 小柄で、着ている服装からも女だと判断出来る。


 しかも若い女だ。


 年齢は定かではないが、この女も男同様にこの雨の中傘も刺さず全身がびしょ濡れだった。


「どうかしましたか?」


 ひどく丁寧な物言いで、再び男が言った。


「いや、別に……、放っておいてくれ!」


 村田は、答えるのも面倒臭そうに言い放った。


「ははん、喧嘩をしたんだね。それで負けた……」


 男が言った。


 その瞬間、村田の身体を熱い血が駆け巡った。


 青褪めていた顔が真実を言い当てられた恥辱と怒りで紅く染まる。


「な、なんだって言うんだ? 何故喧嘩したと分かる?」


 村田は声を荒げて言った。


 男は、村田の気迫を涼しげに受け流した。


 村田の気迫が、降りしきる雨に流されて行く様だ。


 その時村田は、自分自身の声が妙にくぐもっている事に気が付いた。


 そっと手で頬を触る。


 御子神恭也に殴られた左頬が、異常な程腫れ上がっていた。


 膝の痛みや怒り、そして降りしきるこの雨に打たれていた為に今まで気が付かなかっただけなのだ。


 雨が気持ち良く感じたのも、殴られた頬がかなりの熱を帯びていたからに違いない。


 これでは、この男で無くても一目で喧嘩したのだと分かってしまうに違いなかった。


 更にこんなボロボロの状態では、嘘でも喧嘩に勝ったとは口に出来ない。


「煩せーよ、怪我しねえ内にとっとと何処かへ行っちまいな」


 村田は、この不思議なカップルを追い払う様に手を前後に振った。


「そうか……、俺ならばお前の力になってやれるかとも思ったのだが残念だな」


 黒ずくめの男はさも残念そうに言った。


「力になんかなって貰わなくて良いんだよ。だいたいオメエは誰なんだよ? それにオメエみたいな奴じゃあの野郎には手も足も出ねえよ。だからさっさと行っちまいな!」


「へぇ、そんなに強い相手なんだ。なら尚更俺の力を借りた方が良いと思うんだけどな……」


黒ずくめの男は、村田の表情をチラッと伺った。


「お前がそんなに強いとでも言うのか? それに何故見ず知らずの俺に力を貸す理由があるんだ?」


 村田は、ほっそりとしたその男を明らかに訝しんだ。


 確かにほっそりとした見掛けのわりに、濡れたシャツが張り付き輪郭の露になった身体付きを見れば、決してひ弱な印象は無い。


 だが体格的には自分の方が明らかに優っているし、そんな自分でさえ、いや各々が得物まで用意したにも拘らず、僅かな時間で六人もの男達が御子神恭也一人にやられたのだ。


 しかもこの男とは初対面の筈だ。


 自分に力を貸す理由が無い。


 村田が訝しむのも当然と言えた。


「疑ってるな? それもまあ当然か……」


 男は、村田が訝しむのがさも当然であるかの様に、村田の疑いの眼差しをさらりと受け流した。


「だが俺が手を貸すと言うのは、俺が直接と言う訳じゃない。俺がお前を強くしてやると言っているんだ」


 村田の表情に更なる疑心暗鬼の色が浮かぶ。


「俺を強くだって? あ、あんた、格闘技か何かのコーチでもしているのか?」


 村田の言い方がいつからか“オマエ”から“あんた”に変わっていた。


「格闘技……? あんな子供の稚技など問題にもならないよ。そんな事じゃない。君と言う人間そのものが強く進化するんだよ」


「お、俺そのもの……が……進化するだと?」

「そうだ。お前の喧嘩相手なんか全く問題にならない。いや、もうお前に勝てる相手なんか何処にも居なくなるんだ! 言わば超人になるんだよ」


「超人……?  俺が?」


 男の言う事はあまりに突拍子も無い話だった。


「そうだ、超人だ。そうなればもう恐い物も何も無い。警察もヤクザも何も恐い物は無くなるんだ。そしてお前は、自分の思う通り、欲望のまま生きれば良い。憎い奴は殺せば良いし、金は好きなだけ盗めば良い。女だって犯せば良いんだ。何でも思うがままだぞ」


 男は、次第に語気を強め酔った様に語った。


 村田もいつの間にか男の紡ぎ出す言葉に酔っていた。


「た、頼む! 俺をその超人にしてくれ!」


 村田は軒下から這い出て、ずぶ濡れの男の足に縋り付き懇願した。


 雨に打たれて自分でも分からないが、涙ぐんでさえいたかも知れない。


「くくく、良いだろう。でもそれには条件……、いや一つ試練があるんだがそれでも良いのか?」


 濡れて張り付いた髪の毛の隙間から、男の目が妖しく光った。


「どんな条件でも、どんな試練でも受ける! だから頼む!」


 村田は何度も頭を下げ、男の皮パンの裾を揺さぶり懇願した。


「で、条件とは何だ? 試練とは何をすれば良い?」


「なあに、簡単な事さ」


「簡単な事……?」


「そうだ。この娘は今喉が乾いている。だからお前の血を少し分けてくれればそれで良いんだ」


 男はさらりと言い放つと、後ろで寄り添う様に立っていた女に前へ出る様促した。


 女が男の横に並んだ。


 この女、意識が朦朧としているのか、まるで死人の様だ。


「血……、俺の血……? お、お前らいったい何者だ?」


 男はニヤリと笑った。


 その紅い上唇の下に長く鋭く伸びた二本の犬歯が覗く。


「きゅ、吸血鬼……」


 村田の顔が恐怖に歪んだ。


 村田は、怯えた表情で男の側から離れると、尻から擦る様に濡れた地面を後ずさった。


「吸血鬼と言う呼び方は気に入らないな。長生種メトセラとか夜の眷属。せめてヴァンパイアぐらいは言って欲しいものだ」 


「ヴァ、ヴァ、ヴァンパイア……」


 村田は震える声を絞り出す様に言った。  

「そう……俺はヴァンパイアだ。そしてこの娘も今しがた我々の眷属に仲間入りした。本来ならお前等人間は、ただの俺達の餌になるところだが、血を吸っただけではゾンビになってしまうし、殺すとなると死体を始末するのも面倒だ。だからお前は特別に我々の眷属に加えてやろうと言っているのだ。さあどうする?」


 男は血の色に紅く目を光らせて言った。


 口許には不気味な笑みを浮かべている。


 長く伸びた犬歯の為、笑った口許が奇妙に歪んでいた。


「ほ、本当に俺の血を吸うだけじゃないんだな? 本当に俺もヴァンパイアにしてくれるんだな?」


「心配するな。俺は嘘は言わん。今しがたこの娘をヴァンパイアにしたばかりなんだが、久しぶりの生き血だったからつい少しばかり余計に血を飲み過ぎてしまってね……。とりあえず俺の血でヴァンパイアには成れたんだが、既に渇きの兆候が出てしまっているんだ。だから今血が必要なんだよ」


 見ると女は、激しく降り続く雨の中濡れた髪が顔に張り付き、男同様表情までは読み取る事が出来ないが、髪の毛の間から覗く瞳は遠くを見て焦点があって無い。


 顔は死人の様に青白く、半開きの口許からは伸び掛けの犬歯が覗き、大量の涎が雨と混ざり糸を引いている。


 村田は、少し逡巡したのちに覚悟を決めた。


 例えそれがヴァンパイアであろうとも、男の言った『超人』と言う言葉に強烈に引かれたのだ。


 金も女も全て自分の思い通りに手に入れる事が出来る存在……。 


 そして警察もヤクザも恐れなくて良い……。


 あの御子神恭也さえも……。


「俺をヴァンパイアに……、夜の眷属にしてくれ! 頼む……」


 村田は頭を下げた。


 男は頷いた。


「分かった。今日からお前は我々の仲間だ。無敵で不死身の存在となるのだ」


 そう言うと、男は雨の中地面に平伏している村田に近付き、膝を折って屈み込むと村田の肩に両手を掛けた。


 その瞬間、村田は恐怖で身体を“びくん”と震わせた。


「恐がらなくて良い。すぐに済む」


 男は殊更優しい声で言った。


 村田が必死に頷く。


「なあに、痛いのは最初だけだ。ただこの娘は先程ヴァンパイアに成ったばかりでDNA

の変化が安定していないうえ血を飲むのも初めてだ。だから俺が最初にお前の首筋に牙を立て導いてやらねばならん」


 そう言うと、男は村田の肩に添えていた手で、震えながら平伏す村田の身体を起こした。


 しゃがんだ姿勢で正面から村田の身体を抱くと、その太い首に腕を回した。


 村田の震えは一向に止まらない。


 歯がガチガチと音を立てる。


 男は首に巻き付けた指で村田の動脈の位置を探った。


 そして目的の物を探り当てると、そのまま抱き締める様に身体を被せて行った。


 再び村田の身体が“びくん”と震えた。


 それを押さえ込む様に男が腕に力を込める。


 薄れゆく意識の中で、村田は男の肩越しに立ちすくむ女を見た。


 女は、飢えた獣の目で村田達二人を見下ろしている。


 女の青白く細い喉が“ぐびり”と動くのが見えた。


 そして雨は、更に激しさを増していった。

この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。

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