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目が覚めた……。
覚めてしまった。
このまま、ずっと眠ったままなら良かった。
いや、この数日間の出来事が、全て夢であったならたとえ目が覚めても良かった。
だが、身体に巻かれた包帯が夢で無い事を如実に物語っていた。
辺りを見渡すと、見慣れた天井……見慣れた壁……乱雑に散らかった物々……。
そう、また俺の部屋だ。
今朝目覚めた時と全く変わっていない。
ただ一つだけ違う所があった。
今朝は閉め切られていた筈のカーテンが、全て開け放たれ太陽の光を部屋の中いっぱいに招き入れている。
俺は、ベッドから身体を起こし、無造作に散らかったテーブルの上から、残り僅かとなって“クシャッ”と潰れたセブンスターの箱を手に取った。
一本取り出して口に咥え、STデュポンのライターで火を点ける。
寝起きで“ボ~”とした頭をスッキリさせる為に、俺は煙を思い切り吸い込んだ。
煙が喉や肺を刺激して少し噎せる。
嫌な思いを吐き出す様に、俺は大きく煙を吐き出した。
そしてまた、再び大きく吸い込む。
今度は煙を肺に溜め、ゆっくりと吐き出した。
ボ~とした頭が次第にクリアーになって行く。
俺は、散らかったテーブルの上からエアコンのリモコンを拾い上げると、徐にスイッチを入れた。
“ゴオォッ”とエアコンから吹き出る風の音が部屋中に響く。
しばらく我慢すると、あの噎返る様な熱気が少し緩んだ気がした。
時刻は既に午後の四時を回っている。
俺は、まだ長いままの煙草をクシャクシャに揉み消し、身体や頭に巻かれた包帯を毟り取った。
先程までの暑さで、包帯はぐっしょりと汗で濡れている。
包帯を取り去った身体は、傷も打撲に因る痣も綺麗さっぱり消え去っていた。
これもヴァンパイアの再生復元能力ってヤツなのか!
普通であれば、望んでも得る事の出来ない素晴らしい能力の筈なのに、今はこの能力が忌々しく感じられた。
この能力が、再び嫌な現実を思い起こさせるからだ。
顔も知らなかった実の父親が、本当はヴァンパイアだった現実。
恐らく母親もヴァンパイアだったのだろう。
そしてまた、この俺もヴァンパイアだったと言う逃げ場の無い現実……。
爺の話によると、今はまだ完全に覚醒していないらしいが、いつかは俺も、あのショウや村田達の様に人を襲い、血を啜る化物になってしまうらしい。
シゲや晶子の顔が浮かんだ。
俺がヴァンパイアとして完全に覚醒してしまったら、爺や友達、それに陽子や陽子の家族ですら襲ってしまうのだろうか……?
俺は思い切り頭りを振った。
ーー熱いシャワーでこの嫌な思いを洗い流そう。
俺はベッドから立ち上がり、熱いシャワーを浴びる為風呂場へと向かった。
浴室に入り、シャワーの蛇口を目一杯捻る。
最初に、外気で温まった温い湯が全身を濡らす。
しかし湯はすぐにも熱くなった。
俺は温度の目盛を上げて、熱いシャワーを痛い程の水圧で頭から思い切り浴びた。
だが幾らシャワーを浴びても、心に重く澱んだしこりまでは流れて落ちてはくれなかった。
俺は、虚しい思いを引き摺りながら浴室を出ると、部屋の中はかなり涼しくなっていた。
濡れた身体をバスタオルで拭き、洗って干したままだった下着とTシャツを身に着ける。
今朝履いていたジーンズは、俺や爺の血で汚れボロボロになっていた為、部屋の壁に掛けてあった別のジーンズを引き摺り下ろし脚に通した。
喉が酷く渇いている。
俺はその足で廊下にある台所へと向かった。
ーー確かミネラルウォーターの買い置きが残っていた筈だ。
俺は冷蔵庫の扉を徐に開いた。
その瞬間、冷蔵室の中に見覚えの無い物が入っている事に気付いた。
それは赤黒い液体の詰まったビニールパックだった。
パックは、全部で二袋入っている。
俺はその内の一袋を取り出し手に取った。
俺の心臓が“ギリリ”と音を立てる。
その透明なパックは、輸血用の血液パックだったのだ。
誰が入れたのか……まあ恐らくは爺だろうが、ヴァンパイアとして覚醒を始めた俺の為に、ご丁寧にも“餌”を用意しておいてくれたらしい。
だがそう思った瞬間、再び凄まじい程の苛立ちと嫌悪感が沸き起こった。
“血”
ヴァンパイアがヴァンパイアである為の象徴であり、またその永遠の命の源である血。
それは、俺自身がヴァンパイアである事の証でもあった。
そう、あのショウや村田と同じ様に……。
そう思った瞬間、やり場の無い怒りに頭の中がカァと熱くなった俺は、力任せに輸血パックを引き裂きステンレス製のシンクに中身を思い切りぶち巻けた。
更にもう一つの輸血パックも取り出し、同様に中身をぶち巻ける。
銀色のシンクを赤黒く染めた血液が、ゴボゴボと湿った音を立てながら排水口に流れ落ちていった。
シンクから生臭さと錆びた鉄の様な饐えた異臭が立ち昇る。
勢い良く引き裂いた為に、手や今着替えたばかりのTシャツにも血が飛び散っていた。
その時、いきなり玄関の扉が開いた。
見ると、そこには爺が立っていた。
爺は頭に白い包帯を幾重にも巻いている。
またいつもの様に甚平を纏ってはいるが、その下にも白い包帯が見て取れた。
「なんじゃ起きておったのか?」
呑気な声を掛けた瞬間、立ち込める血臭に気が付いたのか、爺の表情がたちまち険しくなった。
「恭也、お前何をしておる!」
爺は履いていた草履を脱ぐのももどかし気に、そのまま足速に駆け寄って来た。
“!”
俺は忌ま忌ましい自分への怒りをそのままに、爺を“ギリリッ”と睨んだ。
爺は、今だシンクの底を赤く染める血溜まりに目をやり、俺の顔を真っ直ぐに見上げた。
「恭也……これは……」
爺は呻く様に呟いた。
「な、何なんだコレは! 俺がヴァンパイアだか血でも飲んでろとでも言いたいのか! こ、このクソ爺!」
俺は何と言って良いか分からず、咄嗟に怒鳴り散らした。
この輸血パックの血液は、ヴァンパイアとして覚醒を始めた俺が他人の血を吸わなくても良い様にと、爺が気を効かせてくれた物に違いないのだ。
分かってはいるのだが、今の俺にはその爺の厚意を素直に受け入れるだけの余裕が無かった。
ましてや爺に怒鳴るなど、ただの八つ当たりでしかない事も分かっている。
だが爺は、そんな俺の気持ちを察してか、何も言わずシンクの底で流れ切らず澱み溜まった、赤黒い液体をただ見詰めていた。
「爺……すまねぇ……」
怒るわけでもなく、力無くただシンクの血を見詰める爺に対し、俺は声を搾り出すのが精一杯だった。
「いや、お前の気持ちは分かっておる。何も言わずこんな物を入れておいた儂も悪かったのじゃ。許せよ……」
爺が言った。
その言葉に、俺の胸は締め付けられた。
「それよりお前、“渇き”の症状は出ておらぬのか?」
爺は、俺の眼を探る様に言った。
「ああ、渇いてるよ。だから冷蔵庫に冷やしてあった水を飲もうとしたんだ。そうしたらコレが……」
そう言って、俺もシンクの中へと目をやった。
「違う。儂の言うておるのはその渇きではない。その……、ええい! 血が飲みたくなってはおらぬのか? と聞いておるのじや!!」
爺は、溜まったしこりを吐き出す様に言った。
「いや、別に……。俺はただ喉が渇いて水が飲みたかっただけだ」
俺は頭を振った。
言った後で少し不安に刈られた俺は、今一度自分の気持ちを反芻した。
だがやはり本当に水が飲みたいだけだ。
間違っても血を飲みたいなど思ってはいない。
「ああ、やっぱ水が飲みたいだけだ。血を飲みたいなんてコレっぽっちも思っちゃいねえ」
俺は自分に確認するように言った。
「ふむ……。やはりまだ完全に覚醒してはおらぬと言う事か……? じゃが……」
そう言って爺は腕を組むと、思案を巡らす様に眼を閉じた。
「じゃが……、何だよ! 納得いかねえ面しやがって! 俺がヴァンパイアだから水を飲むのは変だとでも言うのかよ!」
「いやそうではない。いくら吸血鬼でも水ぐらいは飲む。確かに『屍鬼』は血液以外あまり口にしないらしいが、『貴族』であれば血を飲む事を除けば、殆ど人間と変わらぬよ。実際お前の父親とは良く酒を酌み交わしたものじゃ。儂が不思議に思ったのは、お前があれ程の傷を負い、あれ程の復元・再生を果たしておきながら、吸血鬼としての“渇き”が全く出ておらぬ事じゃ」
「それは、俺がまだヴァンパイアとして完全じゃないからだろう」
「いや、今朝お前と仕合った時、確かにお前には“渇き”の症状が顕れておった。あの時お前が正気に戻っておらねば今頃儂は死ぬか餓鬼に成っておった事じゃろう……」
「餓鬼……、餓鬼って何だよっ?」
「餓鬼とは死してなお人の肉を喰らう屍の事よ」
「それってゾンビの事か?」
「うむ。世間ではそう呼んでおるようじゃな。吸血鬼に生き血を吸われ、死ぬ前に吸血鬼の血を飲まなんだ者は吸血鬼と成る事が出来ず、餓鬼と化してしまうのじゃ」
ーーそう言えば、ショウの奴がそんな事を言っていたな……。
俺は、あの時ショウが言っていた言葉を思い出した。
「じゃがお前は、儂と仕合った後も一切血を摂取しておらぬ。幾ら完全に覚醒しておらぬとは言え、一度“渇き”を覚えたらとても耐えられるものでも、その“渇き”が消えるものでもない。それがあれ以降未だ“渇き”を感じておらぬのが不思議でならんのじゃ」
爺は未だ腕を組みながら、首を傾げながら呟く様に言った。
「そう言われてもなあ……。確かに冷蔵庫にあった輸血パックを見てつい“カッ”としちまったのは本当だが、実際に今も血を飲みたいなんて思わねぇんだ。そりゃ爺の心遣いには悪い事したと思ってるけどよ……。」
「ならば本当に“渇き”は出ておらぬのじゃな? 自分が吸血鬼だったと言う事で、自暴自棄になったり、怒りに任せて言うておるのではないのじゃな?」
「ったく煩ぇなあ! 血なんか飲みてぇと思わないって言ってるだろ! そりゃ確かに俺が奴らと同じヴァンパイアだったって事はショックだったし、今でもどうしようもなくムカついてるよ。だから爺の厚意を無駄にしちまったんだろうが……。だが俺が今飲みたいのはコレなんだよ、コレ!」
そう言うと、俺は冷蔵庫の中から冷やしてあったペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、そのままキャップを外すと、冷えたミネラルウォーターを“ゴクゴク”と喉を鳴らしながら飲んだ。
渇いた喉と身体に冷たい水が染み渡って行く。
余程喉が渇いていたのか、一口でペットボトルの中身は半分以下になっていた。
爺は、俺の飲みっぷりをただア然として見詰めていた。
「何故かは分からぬが、どうやら本当に“渇き”は出ておらぬ様じゃな。じゃがだからと言ってまだ安心は出来ぬ……。もしも“渇き”の兆候が現れたらすぐにでも儂に言うのじゃぞ」
「何だと!じゃあもしその“渇き”って奴が来たら、俺が他人を襲うとでも言いてえのか!」
俺は、思わず怒鳴ってしまった。
「そうじゃ。吸血鬼の“渇き”とはそれ程凄まじいものなのじゃ。一度“渇き”が襲って来れば、最早理性だ何だとは言うてはおられぬ。もしそうなれば、お前は自分の意志とは関係なく人を襲うじゃろう……。さすれば儂は、お前を殺さねばならぬ。また儂が殺さなくとも、お前は死ぬ迄追われる身よ……」
「だからそうなる前に輸血パックの血を飲めって事かよ」
俺は吐き捨てる様に言った。
「そうじゃ……」
爺は、俺には無論、自分にも言い聞かせるかの様に神妙な面持ちで答えた。
「分かったよ、その時はパックの血を飲む事にするよ。せっかく用意しておいてくれたのに、無駄にして悪かったな」
「いや良い。今のお前の精神状態ならば仕方の無い事じゃて。また後で新しいのを用意しておくから、いざと言う時は躊躇せずそれを飲むのじゃぞ!」
「ああ、そうするよ」
俺は、そう答えざるを得なかった。
こうなっては爺の言う事を聞くしかねえ。
幾ら俺にヴァンパイアだと言う自覚が無いとしても、また幾らこの理不尽な現実に憤りを感じていたとしても、それが事実なら受け入れる他無えんだ。
そしてそれが現実なんだ……。
「で、本当は用件は何だったんだ?」
俺は尋ねた。
「いやお前の様子を見に来ただけじゃ。それに儂はこれからちと出掛けねばならん」
「出掛ける? 何処へだよ」
「昔からの知り合いと待ち合わせじゃ。先程電話があって今から会う事になったんじゃよ。輸血パックの方は、知り合いに会う前に調達しておくから心配はせずとも良いぞ」
「そんな事心配なんかしてねえよ。それより俺に黙ってショウの奴を殺りに行くんじゃねえだろうな! 奴は俺がこの手でキッチリとカタ付けてやるんだからな!」
“ドンッ!”
俺がそう怒鳴った瞬間、爺がいきなり廊下の壁を叩いた。
「バカ者! あれ程言ってもまだ分からぬのか!! 今お前が生きておるのは、儂が偶然にもあの場に居合わせたからじゃと今朝も言うたであろうが。そうでなければお前は当に死んでおったわ! ちいとばかり喧嘩が強いくらいで良い気になるでない! それに幾らお前が吸血鬼の『貴族』じゃったとしても、血も飲めぬ半端者なぞ奴にとれば赤子も同然よ! せっかく拾った命ならもっと大切にせい!」
爺は声を荒げ、鬼の様な形相で怒鳴った。
「煩せえ! 奴は晶子や村田をヴァンパイアに変え、しかもシゲを殺したんだぞ! 全ての元凶は奴なんだ。奴さえ居なきゃ晶子もシゲも……村田だって死なずに済んだんだ! 奴は……奴だけはこの手で殺らなきゃ気が済まねえ! そうだろうが、爺!!」
俺は全ての怒りや思いを吐き出す様に怒鳴った。
興奮して涙ぐんでさえいたかも知れねえ。
爺は、悲痛な表情で黙って聞いていた。
「お前の気持ちは良く分かる。じゃがあの夜お前が居た事は、儂と勇三殿のみが知るだけで『内調』も『C・V・U』にもお前の事は伏せてある。もしもお前がそのショウとか言う吸血鬼と殺り合うて、例えお前が勝てたとしても勝ったら勝ったで誰が殺ったと言う事になり、必ず捜査の手が入る。そうなれば、いつかはお前の存在もその正体も明らかにされる事じゃろう。それにショウとやらが殺されれば、吸血鬼どもも黙ってはおらぬ。また『内調』に知られれば吸血鬼どもにも確認の為お前の事を報告する。その時お前があの恭介の息子だと判れば、奴らは必ずお前を殺そうとするじゃろう。そうなればショウとやらに勝とうが負けようが、その先にあるのは死のみぞ。ショウとやらもいずれは『C・V・U』か奴らに捕まり、犯した罪に相応しい裁きを受ける。貴様が悔しいのは分かるが、今回の一件は我慢するのじゃ」
爺の言葉には、有無を言わせぬ響きが込められていた。
ーー納得が行かねえ。
ーー行く訳けがねえ。
だが今は黙るしかなかった。
「納得しておらぬ様じゃな……」
爺は、黙っている俺の心を見透かしたかの様に言った。
「……分かったよ……」
俺は力無く頷いた。
今はそう言うしかない。
「良いな、馬鹿な事を考えるんじゃないぞ!」
“ぴしゃり”と言い放つと、爺は踵を返して部屋を出て行った。
部屋には、血が出る程唇を噛み締め、屈辱と怒りに身悶える俺が、一人ぽつんと取り残されていた。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。