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     6

 恭也は畳に転がっていた。


 完全に意識を失い、目も白目を剥いている。


 李老人の蹴りをモロ顔面に喰らったのだ。


 通常であれば首の骨が折れる。


 死んでいてもおかしくなかった。


 それ程の蹴りだったのだ。


 だが死んではいない。


 天井を向いている恭也の胸が、緩やかに上下しているのが分かる。


 凄まじく強靭な肉体の持ち主であった。


 李は、何故か次の攻撃を加え様とはせず、恭也から距離を取った。


 そして、先日使った物と同じ黄色い長方形の紙を懐から何枚か取り出した。


 短冊を大きくした様な紙には、既に朱墨で何か書かれている。


 やはり先日と同じ様に漢字と何かの模様の様な物が書かれているのだ。


 符咒に使用する咒符である。


 李は気を失っている恭也を、何か探る様に注意深く見詰めた。


“む!”


 李は何かを感じ取ると、手に持っていた咒符を懐から取り出した針で、均等な間隔を空けて円を描く様に一枚づつ畳に刺し止めて行った。


 咒符は全部で八枚あった。


 見れば円と言うより正八角形の形をしている。


 李は咒符で作った八角形に背を向けた。


 李が静かに目を閉じる。


 目で見るのでは無く、何かを感じ取ろうとしている様だ。


 次の瞬間、恭也から禍々しい気が立ち上ぼって来た。


 これは既に妖気だ!


 膨れ上がった気が、建物を揺らしている様な錯覚さえ起こす程の妖気である。


「むう……。やっと現れおったか……」


 李は“ぼそり”と呟き瞼を開いた。


 李の後ろでは、恭也の妖気に反応した咒符が、バタバタと乾いた音を立てている。


 恭也はゆっくりと起き上がった。


 白目を剥いていた筈の瞳は赤く充血し、口許からは長く伸びた犬歯が二本顔を覗かせていた。


 金髪と言うより、むしろ白色に近い髪が全て逆立っている。


 顔にも幾筋かの血管が浮き出ていた。


“シャーッ!”


 恭也は獣が相手を威嚇する様な呼気を吐いた。


 オドロオドロしい妖気が、恭也の全身から立ち上ぼっている。


 李の目には、恭也の背景が歪んで見える程の凄まじい妖気であった。


 李は懐から数本の針を取り出すと、それらを手に持って身構えた。


「こい、恭也!」


 李も気を整えた。


 全身の気を練り直し、細胞の一つ一つにまで気を充満させる。


 李の身体が一回り大きくなった様に見えた。


「ガアッ!」


 いきなり恭也が飛び掛かった。


 たった一蹴りで、四メートル程もあった間合いを一気に詰めて来る。


 恭也は飛び掛かり様、李の顔目掛けて鋭く伸びた爪を振るった。


「むう!」


 李は後ろに身を引く事で間一髪でこれを躱すと、空かさず手に持っていた針を構えた。


 恭也は、李の目の前で獣の様に手足を使い畳に着地した。


 李が、眼下の恭也目掛けて針を投げる。


“ギィン”


 李が投げた針を、恭也は伸びた爪で払った。


 両手足を使い畳を蹴ると、再び恭也は李に襲い掛かった。


 凄まじい跳躍力で宙を飛んで来る恭也に対し、李は逃げる所か、逆に前へ踏み出した。


 低い姿勢で畳の上を転がると、宙にいる恭也へ再び針を投げ放つ。


「ギャッ!」


 低い悲鳴を上げ、恭也は宙でバランスを崩し畳に激突した。


 恭也が畳の上を転がる。


 李も針を投げた後、そのまま畳を転がり恭也との間を取った。


 恭也が立ち上がる。


 だが身体が思う様に動かないのか、ギクシャクとした動きで立ち上がった。


 見ると、恭也の左脚の太股と左肩の腕の付け根、更には左胸の丁度心臓の辺りに長い針が打ち込まれている。


 李が、先程投げ放った針だ。


 恭也は、三本の針を全て抜き取った。


 その針を李に向かって投げ付ける。


 李は、身体を横に引いて難なく針を躱した。


「ほう、少しは効いておるかよ」


 李は呟いた。


 先程投げた針には、先端に薬が塗られていた。


 李自身が調合した仙薬で、身体を麻痺させる効能を持っている。


 一種の麻酔だ。


 しかも李は、あの体勢で恭也の経絡のツボに打ち込んだのである。


 今の恭也が化け物であるなら、この李も常人ではなかった。


 針は抜いたものの、経絡に針を打ち込まれ、しかも李の仙薬で身体の一部が麻痺した状態の恭也は、未だに少しフラ付いている。


「虎でも三本打たれれば昏倒する仙薬ぞ、良くも立っておられるものだ……」


 李は驚嘆していた。


「だがその効き目も、いったい何時まで続くことやら?」


 李は誰にとも無くそう呟くと、恭也に向けて足早に迫った。


 未だフラ付いている恭也は動きに精彩が無い。

 それでも恭也は、向かって来る李の頭部目掛けて鋭い右の爪を振るった。


 だが、李の踏み込みの方が早い。


 李は振り下ろされる腕を左横へ躱すと、恭也の右足の親指と人差し指の間を踵で踏み抜いた。


「ガァーッ!」


 恭也はけたたましい悲鳴を上げた。


 足の甲の親指と人差し指の間にはツボがあり、そのツボを李は踵で踏み抜いたのだ。


 しかもその一撃で、恭也の右足の骨は蹴り砕かれた。


 恭也はあまりの痛みに激怒し、先程振った右腕を横に払った。


 李が頭を振ってそれを躱す。

 恭也の爪が李の頭部のあった場所を薙いだ。


 李の耳に空気を切り裂く鋭い音が届く。


 空かさず李はガラ空きになった恭也の懐に飛び込むと、“ズン!”と強く震脚を踏み鳴らした。


 それと同時に、恭也の腹部に右の衝捶(拳を縦にした突き)を打ち込み、打った拳を上に上げそのまま突き上げる様に頂心肘(肘打ち)を恭也の水月に“ズドン”と深く突き入れた。


ーー八極拳の猛虎硬爬山である。


恭也の身体が“くの字”に曲がった。


“ゴフッ”


 恭也は口から血を吐き出した。


 しかし恭也は、驚異的な闘争本能で李に掴み掛かる。


李の身体がすっと沈んだ。


恭也の両爪が空を切る。


李の身体が、一瞬畳に吸い込まれたかの様に見えた。


 李は、畳に屈み込む様に両手を着いて右脚を伸ばすと、もう片方の左足を軸にして伸ばした右脚を回転させた。


前掃腿=蟷螂拳などの様々な中国拳法で用いられる足払いの技である。


両足を李に払われた恭也は、そのまま後ろへと吹っ飛んだ!


畳に背中から落ちる。


 見れば李と恭也の位置がは入れ替わっていた。


 今では、倒れている恭也が、先程李が畳に針で止めた咒符に背を向けている。


 恭也は満身創痍の状態で再び立ち上がった。


「ギギギギ……」


 恭也の口から獣の呻き声が漏れる。


 しかし李も満身創痍であった。


 先程の恭也との闘いで、左手首にはヒビが入り、全身には数知れぬ打撲を負っていた。


「ウォォォォン!」


恭也は、獣の雄叫びを上げた。


李は懐から取り出した棒状の暗器を、恭也の左足へと投げ放った。


李に右足の甲を折られ、左足に重心を掛けて立っていた恭也には、投げられた暗器を躱す事が出来ない筈であった。


しかし、恭也は左足一本で後ろに跳ぶ事でそれを躱した。


畳に暗器が深々と突き刺さる。


恭也は、咒符で描かれた八角形のすぐ手前に左足のみで着地した。


だが着地と同時にバランスを崩す。


左脚がまだ痺れているのだ。


恭也はヨロめいた。


その間にも、李は既に恭也との間合いを詰めている。


 恭也は指を揃え、長く伸びた爪で手刀を李の顔目掛けて突き出した。


 李は、頭を下げて手刀を躱す。


 李の白い髪が数本引き千切られた。


 李は低い姿勢から一気に全身のバネを使って伸び上がると、恭也の顎へ鋭い掌底突きを思い切り突き上げた。


 恭也の足が畳から浮き上がる。


 更に李は、間髪をおかず再び強く震脚を鳴らすと、恭也の腹部に鋭い発剄を放った。


 足が畳から浮いていた為に恭也の身体は踏ん張りが利かず、そのまま後ろへ吹き飛んだ。


 再び恭也は背中から畳に激突した。


恭也が落ちた場所は、既に八角形の内側であった。


 李は、恭也が八角形の内側に入った事を確認すると、右手の人差し指と中指を二本立てて口許に持っていった。


李が、口の中で何やら呪文を唱える。


「ウギャーッ!」


恭也は、断末魔の様な叫び声を上げた。


頭を手で覆いもがき苦しんでいる。


口の両端からは泡を吹いていた。


 咒符には邪・妖・魔を禁じる呪が書かれており、それを八角形に配置する事で八卦八門の結界を張り、更に禁呪を唱える事で恭也の内にある吸血鬼としての魔の因子に直接攻撃を仕掛けているのだ。


 李の目的は、最初からこれであった。


 恭也の体内に眠る、封印されていた吸血鬼の因子がどこまで覚醒しているのかを確め、もしそれが本当に覚醒しているのであれば、再びそれを封印する為の術を施す。


 これにより、恭也を再び人間として生きて行ける様にする事こそ、李の養父としての責任であり亡き恭也の父親との約束だったのだ。


 李の唱える呪文が大きくなる。


李も額から凄まじい量の汗をかいていた。


「ギャーッ」


 恭也が更にもがき苦しんだ。


しかし次の瞬間、禁呪により小さく萎む筈であった恭也の妖気が、急激に膨れ上がった。


「何と!」


李は驚愕に目を剥くと、膨れ上がる妖気を力ずくで押さえ込むべく更に大きく呪を唱え出した。


 こうなると、恭也の妖気と李の呪力との力比べである。


だが恭也の妖気はどんどん膨れ上がって行った。


 八角形の結界の中は恭也の妖気で満ち溢れ、今にも結界が破られそうな勢いだ。


 しかも禁呪で苦しんでいた筈の恭也が、逆に苦しむ所か余裕の笑みさえ浮かべている。


 畳に刺してあった咒符が、まるで陸に上げられた魚の如く激しくのた打った。


“ボウッ”


二つの巨大な気の摩擦で、咒符に書かれていた朱墨の文字が急に炎を上げる。


八枚とも同時に燃え上がった。


 その瞬間、張られていた結界も霧の様に消失した。


 「何と……」


 李は茫然とした。


 今まで何匹もの吸血鬼と闘ったが、この結界を破られたのも初めてなら、禁呪を破られたのも初めてだった。


 しかもあれ程のダメージを受けておきながら、結界を破る程の力をまだ残していたとはとても信じられない。


「化け物……」


 李は恐怖した。


 こんな恐怖を感じたのは、初めて吸血鬼と闘った時以来だった。


恭也は、唇の端を吊り上げてニヤリと笑った。


どうやら李が負わせた傷や骨折した骨も、その殆どが治ってしまったらしい。


 何度も発剄を食らい、深いダメージを負った筈の内臓も、恐らくはかなり回復している事だろう。


貴族ならではの復元力だ。


 しかし血を飲む事も無く、気の力のみでこれ程の再生・復元を果すとは、例え貴族と言えど驚愕に値した。


 しかも禁呪の結界の中でである。


 恭也は、今まで李が闘った全ての吸血鬼の中でも、最強クラスの吸血鬼であった。


恭也は不気味な笑みを浮かべたまま、ジリジリと李に歩み寄る。


李は死を覚悟した。


ーー儂の命と引換にしてでも恭也を人間に戻す。


李は心の中で固く誓った。


李は再び腰を落として構えると、全身にありったけの気を巡らした。


 恭也との間合いが詰まる。


恭也は、爪を使って凄まじい連撃を仕掛けて来た。


李は、顔や頭部を腕で庇い、腰を落としてその場に踏ん張った。


恭也の鋭く伸びた爪は、浅く李の表面を傷付けただけだった。


李は再び硬気功を使っていた。


 身体を鉄の様に固くして、恭也に隙が出来るのを伺っているのだ。


 しかし恭也の攻撃は治まる所か、更に激しさを増して行く。


 今の李の状態では、吸血鬼と化した恭也のスピードに付いて行ける筈が無い。


そう判断しての硬気功であった。


 だが李の目論みは外れた。


 李の着ていた甚平は脆くも切り裂かれ、皮膚の傷も既に表面だけでは無く、肉までも抉られ、削ぎ取られて行った。


気が揺らぎ、硬気功の力が弱まっているのだ。


 李の全身が血で覆われた。


白かった髪や髭も血で真っ赤に染まっている。


 その時、恭也が李の血に反応した。


 恭也の喉が“ゴクリ”と音を立てる。


 恭也は李に噛み付こうと、大きな口を開けて首筋に顔を寄せた。


ーー今だ!


 李は、ボロボロになった甚平の懐から咒符を一枚抜き取ると、恭也の開いた口へ手刀と共に突き入れた。


恭也の犬歯で手の甲が裂ける。


 李は手の痛みを堪え、咒符を喉まで押し込んだ。


 恭也は激しくもがいた。


 李に喉まで手を突っ込まれて呼吸が出来ないのだ。


 しかも顎が外れている。


 激痛と激しい嘔吐反応で、恭也の赤く染まった瞳に涙が溢れた。


 李は咒符を恭也の喉深く押し込むと、突き入れた手刀をさっと引き抜いた。


 李の手は、恭也の血と唾液に塗れていた。

恭也が堪らず口を押さえる。


しかし、押さえた手の隙間から夥しい量の血が溢れ出た。


李は血塗れの手で最後の咒符を抜き取ると、自らの血を糊替わりにして、苦しむ恭也の額へと張り付けた。


 空かさず李が呪文を唱える。


恭也が再び身悶え始めた。


 顎が外れ、大きく開いた口からダラダラと血の混じった涎を垂らし、苦痛に満ちた表情で畳の上を転げ回る。


 何度も額に手をやり咒符を剥そうとするが、呪の掛かった咒符はどうしても剥れないらしい。


 しかも一枚は恭也が体内に飲み込んでしまっているのだ。


恭也の動きが次第に緩慢になって行った。


 全身をひくひくと痙攣させている。


 目の充血も治まり掛けていた。


あれ程禍々しかった妖気も、今ではかなり萎んで来ている。


 その時、李が激しく嘔吐した。


 長時間の緊張と闘いによる極度の疲労、更には無数に受けた打撲や傷による激しい苦痛で、身体に限界が来ていたのだ。


 だが何よりも、恭也の口に手刀を突き入れた際に受けた、手の甲の傷口から入った恭也のヴァンパイアウィルスが、李の身体を徐々に侵蝕し始めたのである。


 李がただの人間だったならば、これ程の苦痛を味わう事無くゾンビと化していたであろう。


 しかし李は、以前より吸血鬼と闘う為に毎日仙薬と共に咒符を丸め丸薬にした物を飲み、ヴァンパイアウィルスに対して強い抵抗力を付けていたのだ。


その為身体が強い拒否反応を起こし、ゾンビ化しない変わりに激しい苦痛となって現れたのである。


李はもがき苦しんだ。


 心臓が不整脈を起こし締め付けられる様に激しく痛む。


 激痛に苦しむ李とは反対に、恭也は苦しむのを止めていた。


 額に張られた咒符が剥れ落ちている。


 ゆっくり起き上がる恭也の目は、再び血の色に充血していた。


 自分で嵌めたのか、外された顎は元に戻り、口許には長い犬歯が伸びている。


 再び、恭也の全身に禍々しい妖気が戻った。


 恭也は憎悪の目を李に向けると、鋭く伸びた爪で襲い掛かった。


 恭也は、李の両肩を両手で押さえ付けた。


 伸びた爪が李の肩に食い込む。


 李は激しい痛みにのけ反った。


 李の首が露わになる。


 恭也は、李の首に長い牙を突き立て様と顔を近付けた。


 肩を爪で押さえられ、しかも全身を犯す激しい苦痛の為に、李はもう指一本動かす事も出来なかった。


 李の顔に血生臭い息が掛かる。


 李は、顔を背けると同時に自らの死を覚悟した。


「すまぬ、恭介……」


 李はそう呟いて目を閉じた。


 李の首に今にも鋭い牙を立てようとした瞬間、恭也に異変が起きた。


「だ……め……だ……。お……俺は、……何……を……」


 恭也の目に正気が戻った。


 禍々しい妖気が、嘘の様に消失して行く。


 震える手を李の肩から放した。


 その時、道場の扉が音を立てて開いた。


「老師! 恭也くん! 大丈夫か?」


 扉を開いた男が、二人に向かって大声で叫んだ。


 長かった死闘は、ようやく終わりを迎えた。

この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。

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