第三章1:宿命
第三章
『宿命』
1
薄暗い部屋だった。
和室である。
明かり取りの窓一つ無い部屋には二つの燭台が置かれ、その燈明のみが室内を薄暗く揺らめき照らし出していた。
変わった部屋ではあるが、見れば茶室の赴きがある。
今はもう深夜では無く、外は既に夜が明け始めている筈だ。
しかし窓の無いこの部屋には、時間さえも止まっているかの様な静寂に満ち、ただ湯の沸く音のみが聞こえていた。
部屋のほぼ中央には小さな囲炉裏が設けられており、囲炉裏の上には小振りの南部鉄瓶が火に炙られていた。
鉄瓶の中の湯は既に沸いている様で、白い湯気がゆらゆらと立ち上ぼっている。
床の間の壁には、高価な水墨画の掛け軸が掛けられ、床には見事な一輪挿しが飾られていた。
その床の間の両側に燭台が置かれている。
部屋には二つの人影があった。
一人は床の間に背を向けて座っており、その人影と囲炉裏を挟む形で もう一つの人影が対峙して座っている。
二人とも正座をしていた。
床の間を背にしているのは老人の様だ。
座っている為かかなり小さく見える。
実際立ち上がっても、一五十センチあるか無いかであろう。
しかしピンと伸びた背筋は、とても老人とは思えない。
背中に針金でも入っているかの様だ。
漆黒の着物を着ている。
顔は深い皺に覆われ、目や口も皺と見分けが付かなかった。
顔で判る部分は鼻だけだ。
しかしその鼻でさえ低く潰れ、顔の模様の一つと化していた。
頭には髪の毛が一本も生えておらず、頭皮にまで深い皺が刻まれていた。
かなりの高齢であるには違いないが、見ただけではいったい何歳なのか推察する事は不可能だ。
正座する老人の前には高価な茶器が置かれていた。
その老人とは逆に、対峙している男はまだ若く、二十代後半か三十代前半であろう。
この男も背筋をピンと伸ばし、姿勢良く正座していた。
男は、黒のダブルのスーツに身を包んでいた。
濃いグレーのシャツに黒のネクタイを締め、靴下までも黒かった。
一見細身に見えなくも無いが、実際はかなり引き締まって鍛え上げられた肉体を有しているのが分かる。
細面の顔は色白で、皮膚の血管までうっすら見えそうな程だ。
黒く少し長めの髪はきっちり櫛が入り、整髪料でオールバックにぴっしりと纏められていた。
綺麗にカットされた細い眉毛の下に、切れる様な目が見て取れる。
まるで薄い剃刀の様な目だ。
高い鼻の下には血の色をした薄い唇があり、何処か冷酷な印象を受ける顔立ちであった。
この男の前にも見事な茶碗が置かれ、中には立てたばかりの抹茶が、こんもりとした肌理の細かい泡を見せている。
目の前の老人が立てたお茶だ。
この老人、かなりの腕前であるらしい。
ただ、男はまだお茶に手を付けていない。
「冷めない内に飲みなさい」
老人がそろりと言った。
歳の割にははっきりとした話し方だ。
撥音にも濁りが無い。
「はい……」
男はそう言うと、茶碗を両手で持ち、手のひらの上で三回回してからきっちり三口半で飲み干した。
その後、懐から取り出した和紙で飲んだ部分を拭き取ると、今度は二回半回して畳の上にそっと置いた。
「結構なお手前でした……」
男は、そう言うと畳に置いた茶碗をすっと前に差し出した。
「フォッ、フォッ、フォッ。世辞は良い」
老人は、昔の特撮ヒーロー物に登場する悪役の宇宙人の様な笑い声で笑った。
顔も笑ってはいるのだろうが、見た目には皺の模様が少し変化しただけにしか見えない。
「昨日の昼間、『内閣情報調査室』の久保から電話がありました……」
老人が言った。
「はい」
男が答える。
目は真っ直ぐ老人を見据えていた。
視線に振れが無い。
「最近、成り上がりの者達が色々と悪さをしている様ですね……」
「……」
「この大切な時期に、下の者への統制が甘いのでは無いですか?」
老人の目が、皺の中から“ギロリ”と男を睨んだ。
「申し訳ありません。キツくは言ってはいるのですが、例の物の探索に主だった者を割いている上、更に例のハンターの捜索にも人員を割いておりますれば、どうしても下の者への監視が緩くなりまして……」
「言い訳は結構です。今は僅かな綻びも許されません。政府や坊主共の介入を許さぬ為にも、例え小さな口実も作ってはならないのです」
老人はぴしゃりと言い放った。
「はい……」
しかし、男は動じる事無く、真っ直ぐに老人を見据えている。
「それでハンター方の捜索はどうなりました?」
「はい、以前捜索は続けておりますが、何しろ得体の知れぬ相手なので、何処の何者なのか皆目……」
男が言った。
「久保の方でも見当が付かないと言っていましたが、嘘を言っているとも思えません。恐らくそのハンターは人間ではありませんよ」
「はい、私もそう思います。たかが人間に我々夜の眷属を、あの様な殺し方が出来る筈もありません」
「では、いったいどの様な者であれば、我が眷属をあの様に殺せるのだと思いますか?」
老人は、男の瞳の奥を覗く様に言った。
「分かりません。殺された者の死骸から判断するに、以前であれば獣人共を真っ先に疑うところですが、既に獣人族は絶滅しています。となれば下の者の中に裏切り者がいるか、又はあちらからの刺客かと……」
男も老人の表情を伺う様に、老人の皺の様な瞳を覗き込んだ。
老人は皺の様な瞳を閉じ、胸の前で腕組みをして思案を巡らせた。
しばし沈黙が流れた。
数瞬の後、老人は考えが纏まったのかふと目を開いた。
「光牙、今は眠りに付いている貴族は何名いますか?」
老人は唐突に男へ質問を投げ掛けた。
「はい、十二名です」
男=光牙は逡巡する間もなく即座に答えた。
「では半数を起こしなさい」
「は、半数も目覚めさせるのですか?」
この時初めて光牙の顔に動揺の色が走った。
「構いません。人選はお前に任せます」
「しかし半数も起こすとなりますと、共に眠りに着いている下僕共も起こさねばなりません。そうなると保存用の血液が足らなくなる恐れがありますが……」
「仕方ありません。それは厚労省の戸部に私から話しておきましょう。今は何よりも例の物の探索とハンターの始末が急務です」
「畏まりました」
光牙は深々と頭を下げた。
「で、昨今悪さをしていると言う愚か者は如何致しましょう?」
光牙が問うた。
「処分しなさい」
老人はぴしゃりと言い放った。
「畏まりました。では誰か手の者に殺らせましょう」
「いや、始末する者は既に呼んであります。それよりも早くする事です。今は一刻を争います」
「承知しました。しかし残りの二つ、いったい何処にあるのでしょうか。結局世間で言われている場所には形代しか存在しておりませんし、更に全て揃えるとなると……」
光牙は言葉を濁した。
「分かっています。残る二つの内一つはだいたい見当が付いています。しかしどちらにせよ急がねばなりません。あちらに放ってある密偵の話しでは、奴等本気の様ですからね……」
老人は窓の無い土壁を睨み、遠い目で言った。
「『内調』は我々の計画に何か気付いている様なのですか?」
「恐らく奴らは気付き始めていますよ。ただ何が起ころうとしているのかまでは、まだ分からないでしょうが……。しかし政府や高野の愚か者共が、真の目的も知らず邪魔をするようであれば……」
「戦ですね……」
「そうです。この時代、表立った戦はもう無理でしょうからさしずめ暗闘……と言う事になりますか……。まあそれもまた楽しですが……」
老人は小さな身体を揺すり、くくくと低く笑った。
「光牙、長生きはするものです……」
“ブーッ”
その時、この和室にそぐわぬ電子音が鳴った。
老人は、床の間の隅に置かれた電話のスピーカーフォンのスイッチを押した。
「御前様、柳生様がおいでです」
スピーカーフォンから女性の声が流れる。
「分かった。通しなさい」
御前と呼ばれた老人は、スピーカーフォンのスイッチを切った。
「では、私はこれで……」
そう言うと、光牙は立ち上がろうと腰を上げた。
「まあもう少しゆるりとして行きなさい」
老人が制した。
「しかし……、奴と私はあの一件以来……」
光牙が、さも言いにくそうに言った。
「分かっています。ですがあ奴も終わった事だと納得しています。今は大事の前なのですよ。互いの蟠りを無くしておくのも大切な事です……」
老人がそう言うと、光牙はしぶしぶ座り直した。
その時、閉まっている襖の向こう側で人の気配がした。
「御免……。柳生十兵衛三厳、お召しにより参上致しました」
襖の向こう側から、低い男の声が響いた。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。