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老人は、夜の街を走っていた。
ただ闇雲に走っている訳では無い。
老人の行く手上空には、一羽の黒い鳥が飛んでる。
その姿形や羽毛の色から烏である事には違いないが、その大きさはほんの雀程しかない。
その烏は、後を追う老人が呪術により造り出した『式神』なのである。
この式神は、自らの気と同調する宿主の元へ向かって飛んでいるのだ。
つまり老人は、宿主を探す為に式神を放ったのである。
烏はどんどん駅に近付くと、駅の脇を走る国道の陸橋へと転進した。
老人も見失わない様に方向を変える。
老人のスピードは尋常ではない。
この時間、通行人が殆どいないとは言え、このスピードで走るなど老人に出来る事ではない。
しかも追っている相手は、小さいとは言え空を翔ぶ烏なのである。
時々見失いそうになると、老人はその場に止まって呪を唱えた。
するとその烏も電柱に止まるなどして、老人が追い着くのを待っている。
そして老人が追い着くとまた翔び立つのだ。
それを繰り返して、老人はようやく陸橋の下に辿り着いた。
老人は息を切らしていた。
その時、凄まじい妖気を感じた。
妖気は二つあった。
禍々しい妖気が、まるで洪水の様に溢れ出している。
妖気は、老人の位置から少し離れた陸橋下のトンネルから流れ出ていた。
「むう、これ程の妖気は…」
老人はそう呟くと、下げていた袋から何やら道具を取り出した。
それは、鈍く銀色に光る金属の棒であった。
長さニ十センチ程の細い棒で、両端が鋭く尖り真ん中に指を入れる輪っかが付いている。
ーー暗器。
中国武術で使われる隠し武器だ。
突く・切る・投げると様々な用途に使える便利な武器である。
しかし使いこなすにはかなりの熟連度が必要だ。
もう一つの手には、銀色の小さな金属製の玉を幾つか握り込んでいた。
老人は暗器に指を通して握り込むと、暗いトンネルへ向けて慎重に近付いて行った。
トンネルを目の前にした時、二つの膨れ上がった妖気の内、片方の妖気がまるで膨らんだ風船が一気に萎むかの様に出し抜けに小さくなった。
それに呼応するかの様に、もう一つの妖気も次第に小さくなって行く。
「いったい、何が起きておるのじゃ?」
老人は、慎重な面持ちでトンネルの中を覗いた。
トンネルの中は薄暗い為、全てを明確には見て取る事は出来ないが、人影が三つ倒れており、ただ一つ立っていた人影が、俯せに倒れている人影の脇に腰を落として手を振り上げる瞬間であった。
不規則に明滅する灯りで、振り上げた手に伸びる長い爪が映し出された。
「い、イカン!」
老人は、咄嗟にトンネル内へ躍り込むと、握っていた銀色の金属球を親指で弾いた。
弾かれた金属球は、見事に振り上げた男の手に直撃した。
「ギャッ!」
男は短い悲鳴を上げた。
ーー指弾。
今この老人が使った技の名前だ。
中国拳法などで使われる技の一つである。
通常は金属球だが、他にも石等の小さな物を指で弾いて的に命中させる技だ。
これもかなりの熟練度を要し、達人ともなればこの老人の様に銃弾程の威力を発揮する。
どうやらこの老人は、呪術だけでなく中国拳法の達人でもある様だ。
確か自分の事を“武神”……、そう呼んでいた。
男は、金属球が当たった手を痛そうに押さえ呻いた。
「誰だ!」
男が叫んだ。
突風の様な妖気が老人に叩き付ける。
しかし老人は、何も感じないかの様にさらりとそれを受け流した。
「ほう、やはり吸血鬼だったかよ」
老人は言った。
老人の顔には、緊張も気負った様子も全く見られない。
完全な自然体だ。
やはり不思議な老人である。
男=ショウは老人に向かって立ち上がった。
しかしいつもの涼し気な表情とは違い、今は痛みに顔を歪めている。
先程老人の指弾を受けた手には、青黒い血管が幾筋も浮かび上がり、不気味な模様を作っていた。
ショウは、醜く浮き出た血管が手から腕に達する前に、自らの手首をもう一方の長く伸びた爪で大きく、そして深く一気に切り裂いた。
青黒く浮き出た血管の切り口から、夥しい量の血が噴き出している。
そして傷付けた手首をもう一方の手で掴むと、躊躇する間も無く一息に捩じ切った。
「グオォッ!」
ショウの顔が、凄まじい激痛で更に大きく歪む。
噛み締めた犬歯が下唇を突き破り、唇からも幾筋かの血が流れ出た。
「ほほう、やるのう。幾ら吸血鬼でも、自ら手を引き千切るのはなかなか出来るものでは無いて」
ショウは、手首を千切り取った腕から大量の血を迸らせ、青ざめた顔で老人を睨んだ。
血は幾ら手で押さえも次々と溢れ出してくる。
気が狂う程の激痛を堪えてる為か、凄まじいまでの形相だ。
「銀弾を使うとは、貴様ハンターか?」
ショウは、先程恭也にしたのと同じ質問を老人に投げ掛けた。
「ほほほ、わしはハンター等では無いが、まあ似た様なものじゃな」
老人は不敵な笑みを浮かべた。
「それよりお主、これは仲間割れかの?」
老人は辺りの惨状に目を配って言った。
胸や腹に穴を空けて死んでいる男女二人の死体の顔には、吸血鬼の証しである二本の長い犬歯が見て取れる。
この二つの死体がヴァンパイアである事は間違いなかった。
だがその傷を見る限り、とても人間がやったとは思えない。
もう一つの横たわる人影は、俯せに倒れている為に顔を見る事が出来なかった。
ただ緩やかに背中が上下している所を見ると、どうやら生きてはいる様だ。
最も、目の前の男が殺そうとしている所へ指弾を放ったのだ。
生きていて当然だ。
しかし倒れている男が、人間かどうかまでは定かでは無かった。
「お主を殺す前に、ここで何があったのか説明して貰おうか」
老人はぞろりと言った。
有無を言わせぬ口調である。
ショウは何とかこの場から逃げる方法を考えたが、この状況では逃げる術が見当たらない。
しかもこの傷である。
血はその内止まるだろうが、片腕だけでこの不思議な老人に勝てるかどうか分からない。
更にこの出血であれば、間もなく“渇き”が襲って来る筈だ。
最早絶体絶命であった。
老人は、脅すかの様にわざと暗器を構えて見せた。
「ぐうっ……」
ショウは喉を鳴らした。
老人が前に一歩踏み出す。
「んん……」
その時、ショウの後ろで気を失っていた恭也が小さく唸り声を上げた。
僅かに身体が動き、伏せていた顔がこちらを向く。
「きょ、恭也か!?」
恭也の顔が見えた瞬間、それまで冷静だった老人は驚きのあまり大声で叫んだ!
一瞬老人の気が恭也へと流れる。
ーー今だ!
老人の気が流れた虚を突いて、ショウは恭也の身体に飛び付いた。
あまりの驚きと、意表を突いたショウの動きに戸惑い、老人はショウに千載一遇のチャンスを与えてしまった。
「むう!」
老人は声を詰まらせた。
「くくく、まさか知り合いだったとはな。つくづく世間とは狭いものらしい」
そう言ってショウは不敵に笑った。
老人は、再び銀の金属球に親指を当てた。
「動くな!」
ショウは大声で老人の動きを制した。
再び伸びた長い爪が、恭也の首筋にぴたりと当てられている。
「動くなよジジイ。少しでも動けばこの男の首を切り落とす!」
ショウは伸びた爪の尖端を、浅く恭也の首に潜り込ませた。
恭也の首筋から僅かに血が流れ出る。
それを見て老人は動きを止めた。
「そうだ。では持っている武器を捨てろ。おかしなマネはするなよ」
老人は手を上に挙げると、握っていた手を開き持っていた武器を捨てた。
暗器や金属球が甲高い音を立てて地面に零れ落ちる。
「ジジイ、お前にとってこの男は余程大事なようだな。だがこの男はヴァンパイアだ。しかも貴族だぞ。お前はそれを知っているのか?」
ショウが言った。
老人は、答える代わりに息を飲んだ。
ーーついに恐れていた事が起こってしまった。
ーーついにこの日が、こんな形で……。
老人は唇を強く噛んだ。
「ジジイ、この男を殺されたくなければ、両手を上げてゆっくりとこちらへ来い」
ショウは言った。
立場は完全に逆転している。
ショウは勝ち誇った笑みを浮かべていた。
老人は黙ったまま、言われた通り手を上げてゆっくりとショウに近付いた。
「くくく、馬鹿なジジイだ。 っ、な、何だと!」
ショウの身体を衝撃が走った。
ショウの身体が大きく震えだす。
「くっ、こんな時に……」
ショウは呻いた。
声が少し枯れている。
“渇き”が来たのだ。
手首から流れた大量の出血により、“渇き”の速度が早まったのだ。
老人はその隙を逃さず地面を力強く蹴ると、“渇き”に喘ぐショウへと一気に躍りかかっ た。
「チィィィィ!」
ショウは全身のバネでその場から跳び退いた。
ショウは、数メートル離れた場所に片手と両足を使い着地した。
さすがに凄まじい身体能力だ。
つい今までショウが居た場所には、飛び掛かり様に鋭い蹴りを放った老人が立っていた。
老人は次の攻撃に移る為に腰を落とし構えた。
左手を前に差し出して気を練り始める。
「そこまでだジジイ!」
ショウは、残った手を前に開いて老人を制した。
「その男は出血多量で死にかけている。幾ら貴族でも全身の殆どの血が流れ出てしまえば助からないからな。だから取引だ。今俺と闘えば、幾らハンターのお前でも勝負が着くまでには時間が掛る。それでは勝負が着く前にその男は確実に死ぬだろう。だが今すぐ手当をすれば助かる見込みがある。どうだ?」
ショウは襲い来る“渇き”の衝動を堪えつつ、何とか冷静さを装って言った。
「どうかな? “渇き”が始まり、しかも手首を失った吸血鬼一匹……。始末するのに時間が掛かるとも思えぬが……、まあ今夜の所は見逃してやろう。さあ何処へなりと逃げるがよい」
老人が言った。
それを聞いたショウは、老人に顔を向けたままゆっくり後退してトンネルの出入口に近付くと、一気にトンネルの外へと駆け出した。
老人は、ショウの後ろ姿を見送った。
「恭也……、お前……」
老人は未だ俯せに倒れている恭也を見下ろして、ぽつりと呟いた。
そして袋の中から携帯電話を取り出すと、アドレスのマ行を表示して、目的の番号に電話した。
こんな時間である為になかなか相手に繋がらない。
何十回目かのコールで相手がやっと電話に出た。
『もしもし……』
電話に出た相手はさも眠たそうに答えた。
睡眠を妨げられた為に声も掠れ、しかも不機嫌な様子だ。
「もしもし、こんな時間に起こしてすまんのう。儂じゃ、李じゃ……」
老人は言った。
すると、電話の向こう側で驚く様な反応があった。
『どうしました老師、こんな時間に……』
相手の男は、急にしっかりとした口調を取り戻し言った。
どうやら電話を掛けて来たのがこの老人だと知って、一気に目が覚めたらしい。
「本当にすまんのう。実は恭也の事なんじゃが……」
『……恭也君が、どうかしたのですか?』
男は、言葉の上では質問の型を取っているが、心の何処かに思い当たる節がある様な言い方で老人に尋ねた。
「うむ、ついに恐れていた時が来た様じゃ……」
老人は、言葉の語尾を濁らせた。
『ではいよいよ……』
男も悟った様に、同じく語尾を濁らせる。
「うむ、今近くにおるのじゃが、その恭也が大変な事になっておってな、『内調』にも連絡をせねばならんのじゃが恭也を渡す訳にも行かん。じゃからすまぬが車で迎えに来てはくれぬか?」
『分かりました。で、場所は何処なのです?』
「すまぬ。場所は……」
老人はこの場所と状況のあらましを説明した。
『分かりました。そこならすぐ側なので五分もあれば伺えます』
男は言った。
「あとすまぬが、来る時に輸血用のパックを二~三袋持って来て欲しいのじゃ」
男は、輸血用のパックと聞いて“ゴクリ”と息を飲んだ。
『分かりました。急いで早坂に連絡を取り、病院で血液パックを受け取ってから伺いますので少し待っていて下さい』
男はてきぱきと答えると、早々と電話を切った。
「間に合えば良いのじゃが……」
老人は横たわる恭也を見下ろして言った。
トンネルの外へ目を向けると、いつの間にか外は雨が降り出したらしく、雨音がトンネルの中にまで響いていた。
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