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「馬鹿な女だ……」
ショウは独り呟いた。
ショウの足下には、もう息絶えて動かぬ晶子の遺体が仰向けに転がっている。
涙に濡れた顔は、死してなおも悲しみを讃え、生きていた時とはまた違う美しさだった。
晶子の胸にはぽっかりと大きな穴が空き、大量の血が地面を濡らしている。
ショウは、相変わらずの涼し気な顔で、無表情のまま晶子の遺体を見下ろしていた。
一方村田は、ショウに背中を向ける形で、恐らくもう死んでいるであろう恭也の遺体の前に立っていた。
村田は、恭也や晶子の返り血と自らの血で、全身を赤黒く“ぐっしょり”と濡らしていた。
恭也に潰された右目からも、大量の出血の跡が残っている。
口の周りを覆う髭も、血がべっとりと付着して固まっていた。
ヴァンパイアの能力で出血はすぐにも止まり、痛みももう感じないが、さすがのヴァンパイアも潰された眼球までは簡単に再生はしない様だ。
村田は、あの『金色の悪魔』と誰もが……、ヤクザさえ恐れたあの御子神恭也を自らの手で殺したと言う満足感に酔っていた。
最強の生物へと転身した優越感。
これからはヤクザも警察も恐れる事なく、金も女も、人の生死すら全て自由に出来る事への喜びと期待。
そして人を殺す事への快感が、村田の心に酩酊感をもたらしていた。
「終わったな……。どうだ? 今の気分は……」
ショウはぼそりと言った。
「満足だよ。こんな能力が自分の物だなんて、今でも信じられないぐらいだ……」
そう言うと、村田はショウへと振り返った。
そこには、晶子の遺体の前で無表情に立つショウの姿があった。
村田は、少し息を飲んだ。
「しょ、ショウ……。お、俺……」
村田は、ショウの表情を見て声を詰まらせた。
「気にするな。晶子は自分から飛び出して死んだんだ。お前のせいじゃない」
「す、すまない……。ほ、ホントいきなりだったから……」
「気にするなと言っているだろう。この女は我々の眷属の一員となれたのに、人間であった頃を忘れられなかった愚かな女だ。最初から我々の眷属となる資格が無かったのだ」
ショウは冷たく言い放った。
「……でも、あんたはこの女の事を……」
「好きだったとでも言いたいのか? この俺が餌である人間を……? ふん、笑わせるな。以前俺が獲物をハントした時、たまたま見掛けて少し気に入っただけの事。良いか村田、我々に取って人間は餌だ。くだらん感傷を持つ必要は無い。そして気に入った女がいたら犯せ! そして血を飲め! ただそれだけの事だ。我らの眷属に加えるのは気が向いた時だけで良いのだ。俺にとってこの女も気が向いただけの存在だった。だから気にするな」
「……分かったよ……」
村田は頷いた。
「おい、それより今の内にその男の血を飲んでおけ。その後すぐ死体を始末しないと厄介な事になるからな」
「ああ。じゃああんたが先に……」
「俺は良い、男の血は口に合わん。お前は目に怪我を負って大量の血を失っている。“渇き”が出る前に血を補給しておくのだ」
ショウが言うと、村田は頷いて再び恭也の方へ振り返った。
その時、村田の表情が固まった。
何と、既に死んでいる筈の恭也の身体が小刻みに震えているのだ。
つい先程まではぴくりとも動いていなかった筈なのに、いったいこれはどうした事なのか?
それに恭也は、村田の攻撃で内蔵は破裂し、他の臓器にも折れた肋骨が刺さり、頭蓋骨も割れている筈だ。
そして何より出血量が多い。
普通であれば、絶対に死んでる筈である。
「どうした?」
その場で凍り付いた様に固まっている村田を見て、不審に思ったショウが背後から声を掛けた。
「しよ、ショウ……。み、見てくれ!」
村田は、ショウにもこの状況が見える様に横へ少し身体を動かし、声を震わせて言った。
幾らヴァンパイアになったとは言え、つい先日まで人間だった村田は、人間がこの様な状況で死ぬ様を見た事が無い。
村田は、この理解不能な状況に驚きを隠せなかった。
ショウは、村田の足下に横たわる恭也へと目をやった。
見れば確かに小刻みに震えている。
死ぬ直前の痙攣に見えなくも無いが、完全に動きを停止した後痙攣するなど未だかって見た事が無かった。
それに恭也が受けた打撃は、どれ一つ取っても通常であれば確実に死に至る程のダメージだった筈だ。
人間は脆い。
身体に受けたダメージだけで簡単にショック死する。
その意味では、今夜この男は何度死んだか分からない程だ。
あれだけの村田の攻撃を受け、死際の晶子と僅かでも会話をした恭也の生命力は驚愕に値した。
ショウは、人間がどれ程のダメージや痛みを感じれば死ぬか、またどれだけの血液を失えば死ぬかを今迄の経験上良く知っている。
だがこの恭也の生命力は、ショウの知識や経験の範疇を超えていた。
「村田、奴が生きているなら早く血を吸ってトドメを刺せ」
ショウは村田に命じた。
見る見る内に恭也の痙攣が激しくなる。
しかも凄まじい勢いで恭也の気の内圧が高まり、彼の肉体から溢れ出していた。
いや、気と言うには禍々し過ぎる。
これは既に妖気だ。
村田も何か感じてはいるみたいだが、気の質や量までは分からない。
多少気を見分ける能力を持っているショウは、この不可解な現象に戸惑い後ず去った。
「まだ生きてるとはしぶとい野郎だ!」
そう言うと、村田は地面で震える恭也へと手を伸ばした。
その瞬間、恭也の目が“カッ”と開いた。
真っ赤に充血した目が村田を“ギロリ”と睨む。
次の瞬間、恭也の手が村田の手を握った。
村田は驚愕した。
咄嗟に手を振りほどこうとしたが、恭也の握力は村田のそれを超えていた。
しかもこの手は先程村田のパンチで折れた方の腕だ。
村田は、必死で恭也の手を振りほどこうと暴れ、恭也の顔や身体をもう一方の手で殴った。
しかし手が離れるどころか、幾ら殴ってもビクともしない。
無言のまま、瞬きもせぬ目が村田を睨み続けている。
真っ直ぐ村田を見てはいるのだが、何処と無く焦点が合って無い。
視線に魂が籠っていないのだ。
睨むと言うよりは、禍々しい瞳で見詰める、と言う表現の方が正しいかも知れない。
すると、恭也はゆっくりと身体を起こし始めた。
依然村田の手は握ったままだ。
もう村田は殴る事を止めていた。
あまりの不気味さに凍り付いている。
凍り付く村田を他所に、恭也はゆらりと立ち上がった。
状況を目の当たりにしているショウは、完全に困惑していた。
今の恭也は、ヴァンパイアの血を得た人間が転身する時の状態そのものだ。
しかし恭也はヴァンパイアの血を飲んでいない。
傷口から村田や晶子の血が入ったとも考えられなくもないが、その程度の量であれば転身する事などまずあり得ない。
人間がヴァンパイアに転身する時には必ず死が先に訪れる。
人間は、ヴァンパイアに血を吸われた後、まだ息のある内にヴァンパイアの血を飲む。
その後死と言う過程を経て、人間はヴァンパイアに転身するのだ。
それが転身へのプロセスである。
しかしこの恭也はそのプロセスを全く経ていない。
そして何より奇妙なのは、恭也は村田の執拗な攻撃により肉体を完全に破壊されていた筈だ。
それなのに、今の恭也は見る限り全身に負った傷や怪我が治っている。
全身に張り付いた血はあくまで付着しているだけで、今では何処からも出血していない。
頭蓋骨が割れた箇所もここからでは見て取る事が出来ないが、恐らくもう出血してはいないだろう。
いや、既に傷口が塞がりかけているのかも知れない。
ヴァンパイアに転身して十年を越えるショウでさえ、血も飲まずにこれ程の再生を果たす事は不可能に近い。
いや、ショウに限らず、転身した全てのヴァンパイアにはこれ程の能力は備わっていないのだ。
「き、貴族……」
ショウは、呻く様に声を絞り出した。
その時!
「グォォーッ!」
恭也が凄まじい雄叫びを上げた。
大きく開いた口には、長く伸びた二本の犬歯が見て取れる。
全身から吹き出る禍々しい妖気が、肉眼でも見える様だ。
村田はパニックを起こしていた。
恭也の髪の毛が全て逆立っている。
村田は、恐怖のあまり空いている方の手でパンチを繰り出した。
だが、その拳が恭也の顔面に触れる事は無かった。
村田のパンチは、恭也の手によって掴み捕られていたのだ。
これにより、村田の両手は完全に封じられた。
“グシャ!”
“グシャ!”
「ギャーッ!」
村田は大きな悲鳴を上げた。
見ると村田の両手が、恭也の手により握り潰されているのだ!
村田の両手は、恭也の手の中で血を噴き出し、肉は潰され、折れた骨が皮フや肉を破って飛び出している。
まさしく文字通り潰されていた。
「ギャァァーッ!」
村田は狂った様に叫びながら、右脚で恭也の股間を下から蹴り上げた。
“!!”
しかし、村田の蹴りが恭也の股間を捉える事は無かった。
何と恭也は、蹴り上がる寸前の村田の右脚を、左足の裏で上から押さえる様に止めてしまっているのだ。
何と言う反射神経、そして脚力であろうか?
村田の蹴りは、潰された手の痛みに耐え兼ねて目茶苦茶に放ったものではあるが、それ故に恭也の注意が上に向いている今、タイミング的にも視角的にも完全に意表を突いていた筈だ。
しかし恭也は、村田の僅かな動きの変化を見逃さず、村田の動きに完全に反応したのだ。
脅威の反射神経と呼ぶ他は無い。
更には、下から蹴り上げる脚を寸時で上から押さえ込むには、倍以上の脚力が要求される。
しかし恭也はそれを難なくこなしたのだ。
完全に村田の身体能力を凌駕している。
村田はあまりの恐怖に声を失った。
黒い顔が恐怖に青ざめ、醜く歪んでいる。
逆に恭也の表情に変化は無かった。
無表情のまま、血の色をした瞳で村田を見詰めるだけである。
丁度ボクサー等の格闘家が、意識が飛んでいるに拘らず、その闘争本能のみで闘い続ける時の顔に良く似ていた。
いや原因は違えど、確かに今の恭也は意識を無くしていた。
恭也は握り潰した村田の手を放すと、村田が晶子にした様に、鋭い手刀を村田の腹部へ突き入れた。
“グボッ!”
村田は夥しい量の血を口から吐き出した。
恭也の腕は、村田の腹部を貫通し、血肉を絡めながら背中から飛び出している。
村田は目茶苦茶にもがいた。
ヴァンパイアである村田は、その強い生命力故にこれ程の怪我を負っても一瞬では死ぬ事が出来ない。
幾ら激痛にのたうち、死ぬ程の苦痛を感じようと、身体中の血が流れ切ってしまわない内は容易に死ぬ事が出来ないのだ。
先程晶子が死んだのは、運悪く村田の手刀が晶子の心臓を突き破ったからである。
心臓はヴァンパイアに取っても最大の急所の一つだ。
心臓を破壊されると身体中に血液を循環させる事が出来なくなり、幾ら再生力の強いヴァンパイアでも心臓が再生する前に死に至ってしまう。
だが幸か不幸か、今村田が突き破られたのは腹部だ。
死ねない村田は、血へどをまき散らしながら未だ悶え苦しんでいる。
既に恭也の顔は、村田の吐き出した血に塗れ紅く染まっていた。
凄まじい形相だ。
悪鬼としか見えない。
恭也はもがき暴れる村田の髪をもう一方の手で掴むと、首を支点に回転させる様に勢い良く横から下へと引き下ろした。
“ゴキッ!”
乾いた音を立てて、村田の首の骨が一気にへし折られた。
首の骨を折られた村田の頭部は、皮だけでくっついているかの様に、顎を上にして不気味な角度に垂れ下がっている。
目は完全に裏返り、開いた口からは長い舌が飛び出していた。
村田の身体が激しく痙攣する。
その痙攣が止まるのを最後に、村田は全ての動きを停止した。
村田は完全に死んでいた。
恭也が腕を引き抜くと、村田の身体は湿った音を立てて地面に崩れ落ちた。
後には、血に塗れた恭也が幽鬼の様に立ち尽くしている。
ショウは、恭也を凝視した。
“シャーッ!”
恭也は、ショウを睨み付け獣の唸り声を上げた。
その悪鬼の形相に、ショウは“ビクッ”と身震いした。
ヴァンパイアのショウでさえ、今の恭也は悍ましい悪鬼にしか見えない。
恭也は、今にも飛び掛かろうとする獣の様に身体を低く身構えた。
通常の意識が飛び、殺戮の権化と化している。
ショウも覚悟を決め、腰を落として身構えた。
ショウの爪が“ニュ~ッ”と伸びる。
閉じた口からは、二本の犬歯がその尖端を覗かせていた。
“シャーッ!”
ショウも、獣の如く荒々しい呼気を吐き出した。
二匹の獣は対峙した。
しかし次の瞬間、恭也の目が“ぐるん”と裏返った。
急激に妖気が萎んで行く。
一瞬“グラッ”と身体が揺れ、その直後電池が切れた様にその場にどうっと倒れ込んだ。
ショウは、一瞬何が起こったのか理解出来なかった。
今にも開始のゴングが鳴ろうとしたその時、いきなり対戦相手がダウンしてしまったのだ。
地面に倒れ痙攣を続ける恭也を見て、ショウは何が起こったのかやっと理解した。
恭也が何故ヴァンパイアに転身したかの理由は分からないが、少なくとも身体の血液を失い過ぎたのだ。
通常であれば先に“渇き”の症状となって現れる筈が、“渇き”で済む以上の血液を一気に失ってしてまったのだ。
最も“渇き”の症状が現れたとしても、ここには餌となる人間が居ない。
恐らく先程は、丁度意識の無い状態で転身を果たし、ただその憎悪と闘争本能のみで闘っていたらしい。
何故意識を失ったままあの様に的確で凄まじい攻防が出来たのかは疑問だが、とにかく必要以上の失血が今の状態を招いている事には違いなかった。
「ふ、驚かせてくれる……」
そう呟くと、ショウは慎重な足取りで倒れている恭也に歩み寄った。
俯せに倒れている恭也の背中は、緩やかに上下している。
やはり生きてはいる様だ。
後頭部から頭頂部へ掛けて見ると、やはり壁にぶつけて割れた部分の出血は止まり、既に傷は癒着を始めていた。
「これ程の能力……。やはり貴族なのか……? しかし、どうして貴族が人間として生活しているのだ?」
ショウは、腑に落ちぬ顔で首を傾げた。
その時、ふと何かが頭を過った。
ーーんん? この男の名は確か御子神恭也。
ショウはその名前に聞き覚えがあった。
以前仲間から、裏切り者の貴族の話を聞いた事がある……。
その名が確か“御子神”だった様な……。
ショウは思いを巡らせた。
しかしどちらにしても結論は一つだ!
ーーこの男は危険だ。殺すなら今をおいて他には無い。
ショウは決心すると、恭也にトドメを刺すべく再び手に気を込めた。
手の爪が長く伸びる。
ーー幾ら貴族とは言え、頭を粉砕して心臓を抉り出せば確実に死ぬ。
ーーそしてこの男の血を飲めば、俺は更なる能力を手にする事が出来る。
ショウは下卑た笑みを浮かべ、ベロリと舌なめずりをした。
ショウは、横たわる恭也の脇に膝立ちの姿勢で腰を落とすと、長く爪の伸びた手を揃え恭也の頭部目掛けて突き立てようとした。
“ビシッ”
その瞬間、ショウの腕に鋭い痛みが走った。
「ギャッ!」
ショウは、驚いて短い悲鳴を上げた。
今まさに恭也に突き立てようと振り上げた手の甲に、まるで銃弾を撃ち込まれた様な穴が空き微かな煙を上げている。
「誰だ!?」
ショウは痛む手を押さえながら、今攻撃を受けた方へと視線を走らせた!
見ると、恭也が入って来たトンネルの入口を背にして、小柄な人影がぽつりと立っていた。
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