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浄玄から見て、小角は五メートル程先に生えた樹木の枝の上に立っていた。
枝の高さは、地上六メートルと言ったところであろうか。
したがって小角と浄玄の距離は、直線で約十五メートルと言う事になる。
浄玄は、膝の間接を柔らかくたわめ、全身に気を巡らした。
一方小角は、樹の幹に突き刺さった浄玄の独鈷杵を革紐で絡め抜き取ると、独鈷杵と革紐を右手に握り、左手には革紐のもう片方の端を握り、“ぴん”と横に張って構えた。
浄玄と同じく腰を落とし、膝を軽く曲げてしなやかなバネの様にたわめている。
その体勢で、ゆっくりと全身に気を巡らせた。
「ふっ、覚悟は出来た様だな。ならば参るぞ!」
浄玄は、手にした戦輪を枝の上の小角目掛けて投げ放った。
戦輪は、湿った空気を切り裂き、滑る様に宙を走る。
小角は、浄玄が戦輪を投げ放った瞬間に、枝を蹴って浄玄に向けて飛んでいた。
小角が、空中で戦輪と交差する。
小角は、浄玄に向かって飛ぶ事で、浄玄の戦輪を躱したのだ。
目標を失った戦輪が、つい今まで小角の立っていた枝を切り落とす。
小角は、戦輪を躱すと同時に空中で持っていた革紐を鞭の様に浄玄の顔目掛けて放った。
“狙いは眼だ!”
浄玄が、左腕で庇う。
小角が放った革紐が、浄玄の腕に巻き付いた。
左腕の自由を奪われた浄玄に、浄玄の独鈷杵を構えた小角が上から落下して来る。
もう躱す余裕は無い。
“ドオォン!”
落下して来る小角を、浄玄が正面から抱き止めた。
見ると小角の独鈷杵が、浄玄の右腕を貫いている。
「うぐっ!」
浄玄の顔が激痛に歪んだ。
だが次の瞬間、浄玄は左腕に巻き付いたままの革紐を、素早く小角の身体に巻き付けた。
しかも独鈷杵が刺さり激痛の走る右腕を、小角の首に回し自由を奪う。
「し、しまっ!?」
小角が短く洩らすが、それ以上言葉にならなかった。
何と、先程小角に向けて放った戦輪が、枝を切り落とした後緩やかな円軌道を描き、まるでブーメランの様に戻ってきたのだ!
浄玄は、最初から小角が戦輪を躱す事を計算に入れ、再び戻って来る様に戦輪を投げ放っていたのである。
小柄な小角は、革紐と腕に自由を奪われて身動きが取れない。
その間にも、戦輪が直ぐ後ろに迫っている。
小角は、僅かに動く手で浄玄の右腕に刺さったままの独鈷杵を、更に深く突き刺した。
「ぐおっ!」
浄玄が、激痛に顔を歪め、短く呻いた。
思わず小角を絞めていた腕の力が弛む。
小角は、小柄な体型を生かし身体を小さく折り畳むと、浄玄の腹部に足を置き思い切り蹴った。
小角は、腹部を蹴った勢いで仰け反る様に反り返ると、その鼻先を戻って来た戦輪が掠めた。
まさに間一髪だ!
浄玄は、咄嗟に頭を振ると同時に、革紐の巻き付いた左腕で首の辺りを庇った。
“!!”
小角の躱した戦輪が、浄玄の左腕を革紐ごと斬り裂く!
左腕を斬り裂いた戦輪が、浄玄の頬を掠めて後方へ飛び去った。
頬に深い裂傷を負い、眉間に皺を寄せながら、浄玄は斬り裂かれた左腕を押さえた。
皮一枚を残しだらりと垂れ下がった手首から、夥しい量の血が迸っている。
浄玄は、襲い来る激痛を堪え、手首を押さえながら小角を睨め付けた。
一方小角は、身体を仰け反らせ間一髪で戦輪を躱した後、そのままの勢いで背中から地面に落ちた。
背中を強打したが、咄嗟に後頭部を庇った為ダメージは無い。
小角は、上半身を起こした状態で浄玄を凝視していた。
千切れ掛けた手首はだらりと垂れ下がり、押さえた右手の隙間からも、未だ夥しい血が迸っている。
しかも左手首を押さえている右腕も、独鈷杵に貫かれたまま血が流れ続けていた。
これでは、得意の革紐や戦輪、独鈷杵すら思う様に操る事は出来ない。
既に勝敗は決したと言えた。
「師匠、お止め下さい。もう勝敗は決しました」
小角は、睨め付ける浄玄に言った。
「小角、流石だ……。だが、儂も元高野山三儀天の意地がある。このままでは……、このままでは終わらぬ!」
そう言い放つと、浄玄は震える右手で懐をまさぐり、五本の長い針を取り出した。
「し、師匠。それだけはお止め下さい!」
浄玄の取り出した針の意味が分かる小角は、大声で叫んだ!
「見ておれ小角、これが我らが流派“飛燕”の奥義にして、我が守護神である“摩支利天”の秘術だ! オン・マリシエイ・ソワカ!」
浄玄は、摩支利天の真言を唱えながら、両肩と両太股に一本づつの計四本と、後頭部の付け根に一本の計五本の針を、次々に打ち込んだ!
浄玄の顔が苦痛に歪む。
針を刺すと言っても、針灸院で治療に使う様な極細の針ではなく、まるで五寸釘を長くした様な極太の針を打ち込むのだ。
痛くない訳が無い。
浄玄の顔に、深い皺と共に幾筋もの血管が浮かび上がる。
しかし最後に、後頭部の付け根に針を打ち込んだ瞬間、激痛に歪んでいた浄玄の顔が落ち着きを取り戻した。
まるで全ての苦痛から解放された様に、大きく息を吐き出す。
すると、浄玄の身体に異変が生じた。
肩や腕、それに太股や脚の筋肉が、別の生き物の様にボコボコと脹らみ始めたのだ。
実際には、僧衣や脚絆に隠れて直に見る事は出来ないが、腕や脚が一回り太くなった様に見える。
全体のバランスから見れば、ひどくバランスを欠いた身体だ。
だが手首から流れ出る血は、極めた裂かれた時に比べれば一時的にその量は減ったものの、今では再び勢い良く流れ出ている。
どうやら、針を打ち込む事で全身を巡る血液の量が増え、吹き出る血の量が増した様だ。
「小角よ、これで最後だ。我が摩利支天の秘術の力、存分に思い知るが良い!」
そう言った瞬間、浄玄の身体が消えた。
無論実際に消えた訳ではない。
だが、見る者にそう錯覚させる程の素早い動きで、場所を移動したのだ。
小角は、必死で浄玄の姿を追った。
その瞬間、小角の背中に“ぞくり”と冷たい物が走った。
小角が弾かれる様に後ろを振り返ると、そこには既に蹴りの体勢を取っている浄玄の姿があった。
小角が、両腕を上げて必死で防御の体勢を取る。
そこへ、浄玄の凄まじい蹴りがヒットした。
思わず小角の顔が歪む。
その蹴りは、 鞭のしなやかさとスピードを有しながら芯に残る重さを持っていた。
浄玄のスピードがあまりに素早い為に、何とか防御するのが精一杯で、飛んでダメージを減らす事が出来ない。
浄玄は、更にスピードを上げ、鞭の様な蹴りを連続で放った。
小角も何とか防御する事で致命打を受けない様にしてはいるが、次第に僧衣は切り裂かれ、また芯に残るダメージも蓄積して行った。
何度も跳んで間合いを外そうと試みるが、浄玄の蹴りのあまりのスピードに防御するだけで手一杯となり、その隙を見出だす事が出来ない。
これが、浄玄の言っていた“摩利支天”の秘術なのだ。
この秘術は、肩・太股にある秘孔を針等で突き、一時的に腕や脚の筋力を通常時の何倍にも増強する事が出来る。
通常では、身体を守る為にリミッターが掛かっている状態を、針を秘孔に刺す事で強制的にリミッターを解除し、術者のスピードやパワーを人間の限界を超えたものにするのだ。
しかしそれ故に肉体への負担は相当なもので、人間離れをした動きや力と引き換えに筋肉組織が破壊され、良くても筋肉断裂に因る運動機能の阻害と身体的な傷害、悪ければ死に至る可能性すら秘めている。
つまり長時間この状態を維持する事は、自らの寿命を縮める事にもなりかねないのだ。
更には、筋肉を限界以上に酷使する事による激痛と、人間の心肺機能を遥かに超える苦痛が術者を襲い、長時間この状態で居続ける事は不可能なのである。
下手をすれば、襲い来る激痛や苦痛により、通常時より動きが鈍る可能性すらある。
だが、後頭部の付け根に存在する径絡秘孔の一つを突く事で、脳が痛みを感じる神経を完全に遮断し、筋肉断裂や筋肉組織の破壊に因る痛みも、急激な運動に因る苦しみも、果ては身体に負った傷や怪我に因る痛みすら感じなくする事が出来るのである。
つまりは、一種のロボトミー手術と同様の効果が得られるのだ。
浄玄は、今一種の超人と化していた。
恐らくは、手首の痛みも感じてはいまい。
小角は、必死でガードし続けた。
“摩支利天の秘術”の効果が短時間しか持たない事は、小角も経験上分かっている。
しかも手首からの出血に因る貧血で、動いていられる時間も後僅かな筈だ。
いや、失血性の貧血で生命の維持すら危うくなっているに違いない。
最早、浄玄を救う事は出来ないだろう。
小角は、必死でガードしながらも浄玄の残り少ない生命に心を痛めた。
だがこのままでは、浄玄の生命が尽きる前に、自分自身の生命が尽きてしまう。
既に身に纏った僧衣はボロボロになり、ガードしている腕や脚の骨にもヒビが入り力が入らなくなって来ている。
もしガード仕切れず浄玄の蹴りをまともに喰らえば、何処に当たっても骨折は免れないばかりか、腹部に当たれば内臓破裂、頭部に当たれば頭蓋骨骨折と、どちらにしても死に至る事は間違いない。
小角は、必死でガードしながら好機が訪れるのを待った。
止めをさせない事に焦れたのか、動いていられる限界を感じたのか、次第に浄玄の攻撃が大振りな物に変わっていった。
そして遂に、浄玄が大きく回し蹴りを放った。
“今だ!”
小角は、ヒビの入った腕で何とか浄玄の蹴りを防ぐ瞬間、その勢いを生かし後ろへ跳んだ。
まともに喰らえば腕の骨が確実に折れていたに違いないが、わざと後ろに跳んだ事で骨折を免れる事が出来た。
小角は、浄玄との間合いを外した地点に着地する。
しかし浄玄は、跳んだ小角を上回る速さで、小角の後ろに回り込んでいた。
咄嗟に振り向いた小角の顔が、驚愕と絶望で歪んだ。
幾ら修行を積み、スピードや身軽さでは高野山随一と言われた小角でも、“摩支利天の秘術”による浄玄の人間離れした、いや吸血鬼すら凌駕するスピードには、対抗しきれなかったのだ。
後ろを取った浄玄が、脚を高く上げた。
“踵落とし”だ!
小角は死を覚悟した。
だが降り下ろされた浄玄の踵は、小角の頭部を外し濡れた地面を叩いた。
小角は、驚きのあまり状況を疑った。
見ると、浄玄は口から大量の血を吐血した。
激しく咳込み、そのまま地面に倒れ込む。
「師匠ーっ!」
小角は、思わず浄玄を抱き上げた。
既に顔面は蒼白になり、息も絶え絶えの状態だ。
手足も痙攣し、浄玄の生命はまさに尽きようとしていた。
既に殆どの血が流れ出てしまったのか、手首からの出血も少なくなっている。
「し……、小角……。良くぞ……、良くぞ我が奥義を凌いだ……。流石……、流石儂が育てた後継者よ……」
浄玄は、弱々しい口調で、切れ切れに言葉を発した。
「いえ、私ではお師匠様の攻撃を防ぎ切る事は出来ませんでした。決して凌げた訳ではありません」
小角は、涙を流していた。
浄玄の蒼白となった顔に、一粒、また一粒と流れ落ちる。
「その様な事は……無い……。ま……摩支利天の秘術は……、長くは……持たぬ事を……、お前は……知っていた……。こ、……この場合……、儂……が、動けなくなるまで……凌ぐ事こそ……、い、一番の巧手だ……。そ……して……、お前は……、見事……、凌ぎ……切った……」
浄玄が、喘ぐ様に言葉を紡ぐ。
「お師匠様、何故この様な事に?」
小角は、涙ながらに訊ねた。
「わ、儂の命は……、最初……から……、もう……永くは……なかっ……た。ス、スキルス性……の、癌……だ……そうだ……」
「癌!?」
小角の表情が驚きに変わった。
ーー知らなかった……。
ーー自分の恩師が、その様な不治の病に侵されていたとは、つい今まで気付きもしなかった。
ーー言われてみれば、以前はふっくらとしついた浄玄の頬が、肉を削ぎ取った様に痩けていたのは、癌が進行していた為だったのだ。
小角は、泣きじゃくる子供の様に首を激しく振った。
「わ、儂は……、愚か……だった……。迫り来る……死の……恐怖に耐える……事が……出来ず、奴……等の甘言に乗り……、道を……踏み外して……しまった……。ゆ……許せよ……」
「お師匠様ーっ!」
「ま、まだ……儂の……事を……、し、師匠と……呼んで……くれる……のか……。よ、良く聞け……小……角……。しょ、照月が……死んだ……事で……、奴等は……、結界を……破る術を……失った……。だが……、奴等は、自衛隊……の……特殊……部隊や……、きょ、強化人間……を使い……、結……界を……破壊して来るに……違いな……い。か、必ず、し、真の……八咫……鏡と、座主……様、そ、そしてこの……御……山を……、奴等の手から……護る……のだ……。よ、良いな……」
浄玄は、最後の力を振り絞ってそう言うと、そのまま静かに息を引き取った。
「御師匠様ーー!」
小角は、浄玄の亡骸を揺さぶり、声の限りに叫び続けた。
その叫びに応えるかの様に、再び雨が降り始めた。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません。