姿を現す黒衣の二人
生まれたのはいつだったか。
その時から外の世界を見たことがなくて、母から聞いた世界が全てだった。
自身は第二王女であるため、常に責務は姉に課せられていた。姉はいつも世界と関わり、要務をこなす。そんな姉を尊敬し、そして羨ましくも思った。
自身はただ剣を振り続けるだけ。それが母と姉の命に答える手段。
国を治める二人を守る騎士。国と国民を守る剣と盾。それで良いと思った。自身に役割があるのなら、それをこなす。それが自身に課せられた要務。姉とは違うけれど、自身にもやるべきことがあるのは嬉しかった。
そして、新しく母から外の世界を聞いた。それは国民が苦しい思いをしているという事実/虚実だった。
自身は民を守る剣と盾。ならば何とかせねばと思うが、命を出すのは母と姉。自身の意志では動けない。しかし、初めて母から責務を課せられた。その責務が虚実であると知るのは割に早く、何故という思いよりも、民は苦しんでいないという事実の安堵が勝った。そして同時に、自身の役割が消えてしまったことに不安を抱く。逃げた先が、騎士として命を守ること。虚実であろうと騎士であるなら従う。
役割が欲しかったのだ。自身の存在意義を保ちたかったのだ。それは確かに自身の意志だが、それは間違っていると知っている。
どうすべきなのか。まだ知らないことが多すぎる。自身の目で見た世界が小さすぎる。
目の前の少年はそんな自身を欲してくれた。何も知らないただの少女を。
差し伸べられた手を掴むべきなのか。掴んで良いのか。わからない。どうすればいいのか。
――――――でも、私のしたいことは彼が持っている。それならば……
少女は手を伸ばした。いつしか心の中にあった思いを持つその先へ。
黒い風が二人の間を吹き抜けた。それに弾き飛ばされるように、月海は空を舞う。
「……ッ!」
あまりに突然の出来事に成す術もなく宙を舞ったが、なんとか体勢を立て直した月海は黒い影を見た。その影はファルスコールを見つめ、そして見つめられた彼女も影を見つめ返していた。
「あ、姉上……」
姉上とファルスコールに呼ばれた影、もとい黒衣に包まれた少女。話に何度か出てきていたが、月海がその姿を見るのは初めてだった。
ファルスコールが表でドディックジュエリを捜索している中、月海やアレスたちの知らない裏で動いていた少女。その少女は一体どの様な人物なのか月海は顔を覗いてみたが、その顔は仮面で隠れており伺う事は出来なかった。あくまで裏の動きに徹するつもりなのか。今までルースやフレッドにすら顔を知られずに生きてきたのだ。これからもその顔を隠し続けていくのだろう。
「なんでここにいるのか、わかってるよねぇ?」
静かに、威圧的に、まるでファルスコールを突き放すかのように彼女は言った。
「……」
ファルスコールは黙って頷き返す。
「はっ、随分物分りがいいじゃねぇか。騎士の生き様とやらはどうしたんだ?」
彼女は嘲笑うようにファルスコールに言い放った。
「私は、騎士としてよりも、私自身の思いで動くことにしました。自分の目で確かめて、自分でそれを決めます」
「ふん、一丁前のことを言いやがるようになったもんだ」
相変わらず放つ言い方をする彼女だが、口の両側が僅かに上がっているのが見えた。
「だがなぁファル、これは命令なんだよ」
「わかっています。ですから、私はもう王族を名乗ることはありません」
「わかってねぇなぁ、んなことはどうでもいいんだよ。ファル、あんたが今からしようとしてることは、私たちに逆らうってことだ。いいか? もう一回だけ言う。これは命令だ。二度とその面を見せるな。――――――それとも、その身体に教えてやらねぇとわかんねぇってかッ!」
彼女は拳を引くと、目に見えない速さでそれを打ち出した。
鈍い金属音が辺りに響く。
「……ど、どうなってるんだ?」
月海の目に飛び込んだのは、ファルスコールが刃で彼女の拳を止めた姿だった。もちろん彼女の拳は素手である。
普通では起こりえない現象。素手で刃を殴れば拳が斬れるのが道理。だが、その拳には傷一つなかった。
『魔力の硬質化ですね。拳の周りに魔力を纏い、それを硬質化する。先程ツキミさんがやった防壁と同じようなものです』
「そんな使い方もあるのか……って、感心してる場合じゃないって。あの子を止めないと」
月海は空を蹴り二人の間に割って入ろうとしたが、
「……っ!」
その前に結晶の鎖が彼女に巻き付き、その動きを封じた。
「はじめまして、でいいのかな。メイ=ルナ・ユニバーサレ」
いつの間にか現れた軍服を着た少女。彼女は目の前の少女をメイと呼んだ。それがルーナの第一王女、ファルスコールの姉の名。
「随分なご挨拶だねぇ、マリーノ・S・フレッド。書類上でのやり取りは何度かあったが、実際に会うのは初めてか」
メイは身体に巻きついた鎖を気にも留めず、眼前の少女を睨みつけた。
「僕はその相手がエリザベッタ女王の娘としか知らなかったけどね」
フレッドがメイの名を知ったのはつい最近の出来事だ。しかも、それは調べても簡単にわかるようなものではなかった。
「何故そいつを庇う」
「別に庇っているわけじゃないさ。ただ、彼女はもう戦いをやめた。それなら僕が守るのは当然だろう?」
「軍人の義務ってやつか? 仕事熱心なこった」
と、メイは鼻で笑い飛ばした。
「それよりも、君に聞きたいことがあってね。教えてくれるかい? 君たち姉妹の事を」
「……」
メイはその言葉に一瞬だけ口を噤んだが、すぐにその口を開いた。
「大方の予想は付いてるんだろう? でなきゃそんな聞き方しない」
「それは、僕の推測が事実だと捉えていいんだね?」
メイは答えず、そして、彼女の身体に絡まった鎖をいとも簡単に引き千切った。砕けた結晶の鎖は中空に散らばり無数に舞う。
「おしゃべりはここまでだ。邪魔するって言うなら、あんたも一緒にぶっ潰す!」
メイが再び拳を引き打ち出そうとしたその時、
「――――――!」
辺りに散らばった無数の結晶がメイを囲むように集まり始めた。そして、その結晶は互いにくっつき合い彼女を閉じ込めた。まるで硝子の檻の中に閉じ込めるよう。
「結界……か。また随分と変わったもんを使うねぇ、あんたは」
「まぁ、こうでもしないと魔力の消耗が激しいんでね。所謂リサイクルってやつだよ」
メイの閉じ込められた檻。それは魔力で作られた結界であった。透明で星の光を反射するその結晶の檻は、外から見れば美しいものだった。
「結界の強度は高くないが、仕掛けられた魔法は随分と大掛かりだ」
「それがわかったところでどうしようもないさ。君が少しでも動けば魔法が発動するようになっている」
「ほぉ、そうかい。でも、あんまり油断しない方がいいんじゃないか?」
メイはにやりと笑いを浮かべると、その身体を紅く光らせ始めた。すると、まるで爆発の如く紅い光が結晶の檻の中で輝き、それを溶かすように飲み込んだ。
「……ッ!」
瞬間、光から飛び出たメイが、右回し蹴りをフレッドの首目掛けて放っていた。
「――――――さすが軍人だ。魔法専門とは思えない動きだねぇ」
放たれた脚は、辛うじてフレッドの顔ぎりぎりのところで戦棍に止められていた。
「まぁ、一般人に負けない程度には格闘技をやってるからね」
フレッドが戦棍で脚を弾くと、メイはそのまま一歩下がり間合いをとった。
「それよりも、今の光は火属性魔力の光か。しかも、かなり濃度が高い。アレスでも魔力を放出しただけじゃここまではならない」
魔力には確かに色が存在し、濃度を高めることによってそれを確認することができる。だが、それは自然に起こるものではない。魔力を極限まで濃縮させる必要がある。しかも、混じり気のない純粋な色を出すには、火属性魔力の原初の血を引くアレスでも難しい。
しかし、メイはそれをやった。自然界に存在する火属性の魔力だけを凝縮させ、その魔力だけで結晶の檻を溶かした。魔法ではないただの魔力で。
「精霊サラマンデル。火の魔力を司るとされる精霊か」
精霊。現実には存在しないとされる、単一魔力で構成された存在。しかし、概念は存在しており、それは各属性の単一の大きな塊としてこの世のどこかに在る。世界から一番遠く、そして一番近い場所に。
それは世界を流れ、星に辿り着き、魔力の源として星を回る。
「フォンテを魔力として吸収するのではなく、フォンテそのものとして単一属性を集め凝縮する。それはいずれ精霊の概念と同じものといえる存在になる、か。攻撃としては禁呪と同等の力にもなり得る」
「信じられないか?」
「いや、見るのは初めてだが、確立された事象だ。目の前で起きてもおかしいとは思わないさ」
そう、起きてもおかしくはない事象。それ故にフレッドはそれに対抗する手段を考えあぐねていた。
精霊は地水火風の四つが存在する。その内の一つ、火の精霊を扱うメイに対して、氷の魔法を扱うフレッドは不利な状況に立たされることになるのだ。相性自体はフレッドが優位に立てるのに、氷は火に溶かされ水となる。同じ属性に分類される二つでも、氷と水の魔法は別物だ。フレッドにとって水は氷を生み出すための素材でしかないのだから。
「しかし、手がないわけではない。いかせてもらうよ」
フレッドは言うと突如メイの目の前から消え去った。そして同時にメイの背後に現れ、自身の倍以上はある巨大な氷塊を作り出した。
「っ! 空間転移、厄介な技だ。でも、あんたの魔法は通じない!」
振り返ると同時に放った紅い光。それは簡単に巨大な氷塊を溶かしていった。辺りが蒸気で包まれ、二人の姿が見えなくなる。
「コンジェラツィオーネ」
フレッドが呟いた言葉。同時に辺りの気温が一気に下がり、蒸気は固形化していく。蒸気に包まれていたメイは、固形化するそれに捕まり身動きを封じられる。しかし、
「きかねぇって言ってんだろうがっ!」
再び紅い光がメイを包み、氷を溶かしてゆく。
「――――――!」
しかし、溶けない氷があった。否、それは氷ではなかった。
「残念だが、それが溶ける事はないよ。いや、溶けるという概念がない、と言うべきかな」
再びメイの背後に現れたフレッドは、その手に見えない何かを握っているように見えた。
「風の枷か」
無色透明の見えない拘束具。触れることができず、魔力そのものを縛るもの。力ずくで外すことはもちろん、魔力が縛られるため魔法も使えない。拘束具の中では一番厄介なものだ。
「世の中随分便利な物が増えたなぁ。軍人さん」
「その代わり予算が間に合わなくてね、困っているんだよ」
絶対に逃れることの出来ない鎖。にもかかわらず、メイの顔には焦りどころか余裕さえ感じられた。フレッドは警戒し、念のためいつでも魔法を使える状態にしておいた。
「確かに、風が溶けるなんて聞いたことがない。だが、魔力の相性と自然現象は別物だ。風は火に敵わないんだよ」
すると、メイの周りにあった見えない鎖がボロボロと崩れ落ち、中空に霧散していった。
「っ!」
「自分で言っただろう。私が使っているのは魔法じゃないって」
精霊サラマンデル、それと同等の力。風の魔力をいとも簡単に崩す力。しかもそれは、メイ自身の力ではないため、彼女を縛り上げたところで意味はなかった。
「……はぁ、めんどくせぇ。そろそろ終わりにしようか」
突如、メイの身体が、否、腕に巻きついた四色のリボンチョーカーが輝いた。
「まさか……四つの力全てを……!」
何をするのか、そんなことはフレッドには想像もできないが、少なくとも防ぐことの出来ない何かだとは感じ取れた。四属性全ての攻撃を同時に受け止める手段などない。
空間転移で離脱する。それしか回避の方法はなかった。だが――――――
「ファルスコール……!」
フレッドのすぐ近くには彼女がいた。メイは彼女ごと巻き込むつもりだ。
彼女を連れて転移できるか? いや、無理だ。すでに三回連続で使用した後で、上手くできる保障はない。
「上手く防ぎなよっ」
輝きが一層増してゆく。
魔法ではない魔力の塊。もっと言えば、それは魔力の源。そして、架空の存在である精霊と同等とされる力。四つ全てを同時に放たれれば、全ての魔法が相性の関係で消されてしまう。
「消えなッ!」
放たれた輝き。それは一瞬にして二人を包み込んだ。
「フレッド、ファルスコール!」
その輝きに月海はどうすることも出来なかった。中に飛び込んだところで、飛んで火にいる夏の虫だ。
「くそっ!」
四色の輝きは海上を虹のように照らす。これもまた美しき光。全ての源となる色は、人の心を動かすに十分たり得るものだった。だが、それも人を傷つける光。
やがて輝きは収まり、その中に二人の影があった。しかし、
「――――――ッ」
一つの影は力なく海へ落ちていった。
「空間を歪曲させて防いだか」
空間転移に於ける空間歪曲。こことは別の地点に空間を繋げ、メイの放つ光を防いだのだ。だが、全てを防ぐことは出来なかった。
「フレッド!」
月海は海に落ちていく彼女の元へ飛んでいこうとしたが、
「つきクン、フレッドちゃんは大丈夫だよ」
その前にアレスが彼女を介抱していた。月海は胸を撫で下ろすが、まだもう一人助けないといけない人がいる。
「ファル、まだ抗うつもり? 一緒に落ちていった方が楽だったのに」
もう一つの影ファルスコールは、フレッドの防御のおかげで何とか立っていた。しかし、月海との戦いでの消耗もあり、立っているのがやっとだ。
「私は、母上と姉上の、本当の目的を知りません。ですが、それが危険なことで、間違っていると、私は知っています。ですから……」
息絶え絶えにファルスコールは言葉を続けた。だが、メイはそんなものお構いなしに彼女の言葉を切り捨てた。
「間違っていようが何だろうがそんなことは関係ないのさ。私は目的を遂げる。だからファル、あんたはもう要らないんだよ」
「――――――」
切り捨てるその言葉に、ファルスコールの硝子の瞳が僅かに揺れているのが見えた。そして、静かに目を閉じた彼女は、メイの言葉を受け入れるように彼女の放つ光に包まれ、暗い海へと落ちていった。
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夜空に残ったのは二つの影。対峙する二人は言葉を発することはなく、ただ互いの姿を見ているだけだった。
とても静かで、つい先程まで激しい戦いが繰り広げられていたとは思えないほどである。そして、その静寂を破ったのは少年のほうだった。
「君は、あの子のお姉さんなんだよね」
少女のほうは変わらず黙したままだった。
「どうして、どうしてこんなことができるんだ? 目的のためなら、何でも犠牲にするのか?」
少年の問いに暫く沈黙が流れた。しかし、すぐにそれは破られる。
「犠牲、ね……。そう、どんなことにも犠牲は付き物」
少女は表情一つ変えず言葉を吐いた。
「犠牲を払ってまで、その目的は達成すべきことなのか?」
「……ああ、そうだね。それを望んだ時から覚悟していたことだ」
少女は何を見ているのか。仮面に隠したからではなく、その下の素顔もどこを見ているのかわからなかった。
「覚悟をしていれば、犠牲は払ってもいいものなのか?」
「自身がそれを望むのなら……」
「そうか……」
少年の剣を握る手に力が込められた。
『ツキミさん?』
違和感を感じたのはルースだった。
何がおかしいのか。
辺りの空気が、
不穏な、
なんとも言葉で表現し難い、
そんな感覚をルースは抱いていた。
「……なんだ、それは……?」
言葉を吐いたのはメイだった。それに彼女が気付いたのは、目の前でそれが起きているから。
『――――――!』
ルース自身が気付いたのは、メイの言葉で。自分自身の剣の異変に自分では気付けない何かが起きていたのだ。
剣から溢れる魔力。それは月海の身体から流されたものではなく、ルースの剣にあったもの。
あの時に似ていた。漆黒の魔力を纏い、自我を失ったあの時と。
『ツキミさん、気をしっかりしてください! こんなものに飲み込まれてはいけません!』
ルースは呼びかける。これに飲み込まれて無事だという保障はないのだ。だが、
「ああ、大丈夫だルース。俺はいたって冷静だよ」
『え……?』
ルースの心配が取り越し苦労だったと思えるほど、月海は冷静だった。
「なんだろう、ものすごく冷静でいられる自分が怖いくらいだ」
心が浄化される。否、心の中の高村月海という人格が洗われてゆく。そこにあるのは高村月海ではなく、高村月海の意識を持った別の何か。そんな感覚を月海自身が外側から見ているような感じだった。
「私と戦うつもりかい?」
月海は自分の意思に関係なく剣をメイに向けていた。いや、それは手段の違いであって、今この月海の行動は結果的に月海の意思と同じであった。
「最初から言ってるけど、俺は戦うつもりはないんだ。できれば話し合いでけりをつけたいと思ってる」
「その割には、剣を持つ手に恐怖がないし、斬る迷いがないじゃないか」
「……でも、戦うのは嫌だし、人を斬るのも嫌だ」
その言葉にメイは小さく息を吐き言葉を続けた。
「言ってることとやってることが矛盾してる、って気付いてないのかねぇ」
そして彼女は拳を構えた。
「いいよ、相手になってやる。もう二度と、あんたがその剣を握れないようにな」
二人の間に風が流れる。静寂を流れるそれは引き金を引く合図のよう。
その風を切るようにメイは空を駆けた。その速さは、月海はもちろんファルスコールですら及ばないスピード。否、スピードだけではない。先のフレッドとの戦いで見えたほんの僅かな彼女の力。その全てがファルスコールを上回っていた。到底、月海の敵う相手ではない。そも、ファルスコールに勝てた事さえ上手く歯車が噛み合った偶然だったのだ。まともに打ち合って勝てるような相手ではない。
「――――――」
いや、月海は最初からそんなつもりはなかった。勝負に勝つなんてことは考えてすらいない。
「……っ!」
誰にも、そう、それはここにいる誰もが及ばない速さだった。にもかかわらず、その先に高村月海の姿はなかった。
捉えられなかった? それならばどうやってそこへ辿り着いたというのだ。
メイの頭の中が一瞬だけ混乱する。しかし、それはすぐに自己解決した。
月海の居場所は自身の背後。それが最初に理解できたこと。だが、そこへ辿り着くにはどうあってもメイの視界から外れることは出来ない。どんな速さであっても、そう瞬間移動であっても、その軌跡を残さないわけがないのだ。ならば方法は一つ。
「空間転移……」
フレッドの得意技。空間を歪曲させ、繋いだ二つの地点を同地点とし移動する。それならば軌跡が残ることはない。そもそも移動した事実が残っていないのだからそれは当然である。
しかし、空間転移はそうそう使える魔法ではない。どんなに魔力量が多くとも修練を積まない限り扱えない。そして、それを一人で扱える人間はメイの知る限りで、フレッドとその姉、自身の母の三人だけである。
メイ自身も知識を入れ込み修練を重ねたが、未だ使いこなせていない代物。いや、この先も扱えるかどうかわからない。例え使いこなせても、魔力消費が多すぎて実用するには至らない可能性が高い。
そんな魔法を高村月海は使ったのだ。これまでの彼の戦いで空間転移を使った経緯はなく、そしてそれはそう簡単に扱える魔法ではない。高村月海はこの場で始めてそれを使用し、見事に成功させた。
「ちっ!」
メイはすぐさま背後に回った月海に回し蹴りで応戦した。しかし、またしてもそこに月海はいなかった。
連続での空間転移の使用。いよいよ出鱈目だとかそんなものではなくなってきた。
「ッ!」
三度。再び、今度は先のどの一撃よりも速い一撃を繰り出したはずだった。それでも月海を捉えることはできない。
繰り返すに五度目。すでにフレッドでさえ不可能である連続しての空間転移の回数を超えていた。だが、メイは未だ月海の姿を自身の目で捉えていない。
いたちごっこ。何度振り返っても狙った相手は背後に現れる。
「……仕方ない、か。――――――どうなっても知らねぇぞっ!」
この無意味な追いかけっこに終止符を打つべく、メイは再び四色のリボンチョーカーを輝かせた。全属性の魔力による光。事実上それは防ぐことの出来ない攻撃である。空間転移による回避でそれは凌げるはずだった。だが、その光はメイを中心に急速に広がってゆく。その輝きは眼下の海をも飲み込まんとするほどで、逃げ場などなかった。
空間の歪曲には空間の把握が必要になる。今の月海に、メイの放つ輝きから逃げ切れるだけの距離の空間把握は無理だった。
「――――――そこまでよ、メイ」
「……!」
突如聞こえてきた女性の声。それはメイの放つ光を遮るように現れた。
「お母様……」
メイはその声の主をお母様と呼んだ。ルーナ国女王、エリザベッタ。今回の事件ではまだ一度も姿を現しておらず、その動向は娘のメイ共々まったく不明だった。その人が光を遮った人物だという。
メイは彼女の言葉に従い、次第に光が収まっていった。そして、その光の中から声の主が徐々に姿を現し始める。まだ目が闇に慣れていないせいか、月海にはその姿が黒い影にしか見えない。だが、こちらを向いているということはわかった。
「久しいわね、ルース」
その声に月海は何故だか少しだけ聞き覚えのあるような感じがした。そう、最近耳にしたような、そして何度も聞いたような、そんな感じ。
徐々に目が慣れていき、その姿もはっきりと見えるようになってきた。メイと同じく黒衣に身を包んでいる。しかし、月明かりの逆光のせいで顔がはっきりと見えない。
『やはり、あなたでしたか』
「あら、その口ぶりだと気付いていたようね」
二人は約十六年ぶりの再会だったろう。しかし、その再開の言葉は妙なものだった。
その女性エリザベッタは艶かしい声で、そして長身長髪のモデルのような体系の持ち主だとそのシルエットからわかった。
顔はまだはっきりと見えないが、闇に目が慣れ月明かりも移動し徐々に明らかになっていく。
「――――――」
その顔にも月海は見覚えがあるような気がして、その人物であるはずがないと頭の中のその人をかき消していく。しかし――――――
『確信ではありません。ただ、あの墓地で出会った時に違和感を覚えたのは事実です』
「私の魔法もまだまだということかしら?」
『まさか。容姿を変えずに私を騙し通せたのです。その二つ名に恥じぬ実力ですよ』
その冷たく鋭い、それでいて優しい瞳。
嘲笑する口は、いつも優しい笑みを見せる口。
その人はいつも優しく微笑む。
その人はいつも優しく包んでくれる。
その人は、
紛れも無く、
結城恵理その人だった。
「結城、さん……?」
その名で彼女を呼び、そして呼ばれた本人は悲しい表情を見せた。
「そう、貴方にはそう名乗ったのだったわね。本来ならば名前なんて気にする事柄ではないのだけれど……ルース、何か余計な事をしたわね」
『名無しであることがおかしいと言っただけですよ。どうして最初から名乗らなかったのですか。それならば、私もおかしいと思わなかったかもしれないのに』
「そんなこと、出来ると思う?」
ルースの言葉に対して、結城恵理もといエリザベッタは怒りと悲しみの両方を露にしていた。
しかし、彼女はすぐに向き直り真っ直ぐに月海を、いや、ルースを見ていた。
「今はどうでもいいことよ」
そして、今度こそ彼女は月海を見つめた。彼女はそのままその手を伸ばす。それはいつも優しく包んでくれた手。だが、月海は今その手に畏怖を感じ、それなのに同じように優しさも感じられた。
「貴方は貴方のままでいなさい」
胸の近くにその手が当てられると、何かがすっと抜けていく感覚を月海は感じた。
「ルース、いずれ貴方の持つドディックジュエリも貰っていくわよ」
彼女は手を離すと黒い長髪を翻し背を向けた。
「ま、待って下さい!」
呼び止めたのは月海。彼の頭の中は何がなんだかわからない状態になっており、情報を整理しようにも到底不可能だった。呼び止めたところで何を聞けばいいのかもわからない状態である。そんな月海に彼女はこう答えた。
「ごめんなさい」
それは何に対しての謝罪だったのか。背を向ける彼女は表情さえ見えず、何を思って言った言葉だったのかわからない。だが、その言葉はとてもひどく悲しみが乗っているような、そんな感じがした。
エリザベッタはそのままメイの近くに寄り、彼女の身体に手を添えた。
「――――――ルース、頼んだわよ」
言葉にならない言葉で呟いたエリザベッタ。それを言葉として理解できたのはルースだけだった。
そして、彼女たちは月明かりの下、闇に溶けるようその姿を消した。
「申し訳ありません、お母様」
薄暗い空間にメイの言葉が響く。それはメイがエリザベッタに連れられた直後の出来事だった。
月明かりは雲で陰り、その空間は殆ど黒に染まっている。互いの顔も見えないほどに。
メイは顔の見えないエリザベッタに向かって膝をつき頭を下げる。
「いかような罰も受ける所存であります」
その光景はとても親子のものには見えなかった。しかし、今の彼女たちは親子ではない。
「例えば……」
頭を下げたままエリザベッタの声を待つメイに、彼女は静かに話を始めた。
「一つの失策を犯した人間がいたとする。その人間は今までに数々の功績を上げた有能な人材であった。でも、その一つの失策により処罰を受けることとなる。これは主として正しい判断かしら?」
「……」
メイは答えない。否、答えられない。自身が有能であるなどと思ったことは一度もないが、エリザベッタの話は正にメイ自身の事を言っていると本人も気付いていた。それ故に答えられない。
黙し続ける彼女にエリザベッタは続けた。
「もし、その人間が裏切りの行為を働いたのであるなら罰しなさい。でも、ただの失策だけで罰することは愚考よ。例えそれがどれ程大きな被害が出るものであったとしても、その人間が過去に有能であったことに違いはないわ。その人間を罰する時は、愚か者であるのか、それとも単純なミスであったのかを見極めなさい」
「しかし、それでは……」
示しがつかない。そこには二人しかいないが、彼女たちの周りには数え切れないほどの臣下がいる。重要な任を仕損じたのならば、相応の処罰を受けて然るべき。メイはそう考えていた。
だが、エリザベッタはこう答えた。
「貴方は国を治めるに相応しい能力を持っている」
それは、メイを許すと言っている様なものだった。
納得がいかなかったわけではない。主であるエリザベッタがそう判断するのであるなら、メイはそれに従う。しかし、失策をしたのも事実。それを消すことはできない。ならば、なんらかの形でそれを補いたい。それがメイの心内だった。
「メイ、貴方はこれから国を背負い、導かなければならない」
「お母様、それは……」
エリザベッタを見上げるメイに、彼女は背を向けた。
「大丈夫、貴方にはあの子が、あの子たちがいる」
「――――――!」
メイは思わず立ち上がり、声を上げていた。
「お母様! 私は最後までお母様と共に歩むと言ったではありませんか! その為にあの子を……」
「罪を被るのは私だけでいい。人の道から外れるのは私だけでいい」
「……」
メイが見つめる背中は、とうに母の背中ではなかった。
決意。
全てを捨て、自らが望むものだけを手に入れる。それは、外から見れば無責任なものだっただろう。それでも彼女はそれを望み、それを成さんする。その為に全てを捨てる。
彼女の決意は変わらない。そう、十六年前のあの時から、変わることはない。