黒衣の女性
「――――――ん?」
朝食後、特にやることもなく部屋の中で寝転がっていたときだった。呼び鈴の音が微かに聞こえてきたのだ。
日曜の午前中に誰が訪れようと不思議ではないので、気にせずそのままごろごろしていたのだが、
「あれ、母さん?」
階下から二階へと上がってくる足音が聞こえてきた。
「ちょ、フレッド……」
慌てて、彼女に隠れるよう言おうとしたのだが、すでに彼女の姿がなかった。
「大丈夫だ、外に出て身を隠している」
と、念話で彼女が伝えてくれた。
「そ、そうか」
ホッと胸を撫で下ろすも束の間、すぐに部屋のドアが開いた。
「月海、お客さんが来てるわよ」
顔だけを出す母はそう言った。
「お客さん?」
今日、会う約束をした人などいただろうか。
首をかしげ考えるも思い当たる人がいない。
「待たせちゃ悪いから早く来てね」
と言うと、母は部屋を出て行った。
それとほぼ同時に、フレッドは部屋の中に音も無く帰ってきた。
「母君の言う通り、お客人を待たせるのは悪い。早く行って来るといい」
「そうだな」
その客人が誰かわからないが、ひとまず会いに行くことにした。
「それよりも、ドアを開ける時はノックぐらいしてほしい……」
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階段を下り居間へ行くと、そこには見慣れた人がいた。
すっと背筋が伸び、綺麗に正座をする女性。
「あら、月海君。お邪魔してます」
その艶かしい声、そして黒衣に包まれたその身。
「ど、どうも、おはようございます。えっと……」
その人に軽く会釈をするも、彼女の名前を知らないことに気付き言葉に詰まった。「おばさん」と言うには失礼な年齢と外見だし、なんと呼べばいいのか。
「もしかして、私の名前知らなかったかしら?」
「そ、その、はい、すみません」
「――――――」
その人は微笑するとお辞儀をするようにした。
「私の名前は結城恵理です。よろしくね」
再び顔を上げたその人は、また優しく笑っていた。
「は、はい、よろしくお願いします。えっと、結城さん」
ぎこちなく挨拶をすると、テーブルを挟んで彼女の前へと座った。
「もう、ビックリしたわよ。急に来るんだもの」
と、お茶の入った湯飲みを乗せたお盆を持ち、母が台所からやってきた。
トン、と湯飲みを置く音が三つ鳴り、母も横に座った。
「どうしたの急に、それに家に来るなんて珍しいじゃない」
「ええ、ちょっと近くまで来て、それで寄ってみたの」
「そうなんだぁ。でも、恵理が家に来るのっていつ以来かしら?」
母が結城さんに聞くと、
「……もう、六年くらいは来てなかったかもしれないわ」
と答えた。
答える結城さんの顔が一瞬だけ曇ったような気がしたが、次の瞬間にはそんなこと無かったかのように、元の彼女に戻っていた。
「ああ、もうそんなに経つ? はぁ~時の流れって早いわねぇ」
宙を見て感慨に耽る母。
「そうね……」
同じようにする結城さんだったが、母のそれとは少し違った感じだった。
「昔はあなたに頼ってばかりだったものね。月海のお守りも、恵理に任せる事が多かったし」
「そんなことは無いわ。当然のことをしたまでよ」
二人の昔話は長々と続く。
ふと思い出したが、昔はよく結城さんと一緒にいた事があった。記憶の補正か何かでそれが母に置き換わっていたが、それは紛れも無く結城さんであったと思い出した。
「――――――」
父が早くに死んで、母が働きに出ると、当然家にいるのは俺一人だった。
今ならば留守番くらいできるし、何より学校があるので、母が仕事の間に一人待ちぼうけ、なんてことは無い。しかし、小さい頃はそうもいかない。保育園に預けるも、母は働き詰めだったので、どうしても預けられない日が出てくる。保育園にも休日はあるのだ。更に小学校に入ると週休二日制のおかげで必然的に土日が休みになる。
その休日に結城さんが家に来てくれて、俺の面倒を見てくれていた。
特に覚えているのは、駅前のデパートでの食事だ。
デパートの五階にレストランがあるのだが、そこへは母もよく連れて行ってくれた。そして、そこでは必ずと言っていいほど、毎回カレーライスを頼んでいた。
しかし、結城さんに連れられてそこへ行ったとき、彼女の頼んだオムレツを少し分けてもらって以来、そのオムレツの美味しさに感激し、毎回オムレツを頼むようになったのを覚えている。
「あの頃は私も忙しかったもんねぇ。今も忙しいけど」
母は笑いながら言った。
「恵理がいてくれたから、今の私たちがあるといっても過言じゃないわね」
「大げさに言いすぎよ」
結城さんも笑いながらそれに返した。
しかし、本当にこの人のおかげで助けられたことも多いはずだ。俺の面倒を見てくれて、母さんを手伝ってくれて、本当にありがたいと思う。
「そう考えると、結城さんは俺の育ての親って感じなのかな」
「……っ……」
その言葉を聞いた結城さんは、なんともいえない表情をしていた。
そして、俺が見ていたのに気付いたのか、彼女は顔を伏せるようにした。
「なにぃ、それじゃあ母さんがちゃんと育ててないみたいじゃない」
と母は腕を振り上げ握りこぶしを作っていた。
「べ、別にそういう意味で言ったんじゃないよ」
怒りを露にする母をなだめようとするも、俺には手がつけられない。
「ゆ、結城さん、助けてください!」
幼馴染のこの人なら、怒った母を止める方法を知っているかもしれない。
「え、ええ」
少し困ったようにする結城さんは、母に向き直った。
「なぁに恵理、この子の味方するわけ?」
「いいえ、そうじゃないわ。あなたは本当に、月海君をちゃんと育てた。――――――本当に、立派に育った」
「そりゃそうよ。私と恵理が育てたんだもの、立派にならなくちゃおかしいわよ」
その言葉に母は誇らしげにし、それに対し結城さんは優しく微笑んでいた。その微笑みはどこか悲しげにも見え、その瞳の中に小さな光が光っているのが見えた。
「本当にそう思ってるんだからね。恵理はいつも私達の事を助けてくれた。だから、あなたもこの子の母親よ」
「ん、そうね――――――」
結城さんは顔を上げ天井を仰ぎ見た。零れ落ちそうになった瞳の中の光が、よりいっそう光っていた。
「もう、恵理ったら、感激のあまり声も出ないって感じね」
いや、少し違うと思うぞ、わが母よ。
だが、二人とも笑いあっている。幼馴染、というか、友達っていうのは良いもんだなぁ、と思うのであった。
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「じゃあね恵理、また会いましょ」
あの後も話は弾み、ちょうど昼時になった。母は昼食を食べていかないかと結城さんに言ったが、用事があるとのことでそれを断っていた。
ということで、結城さんを玄関で見送ることになったのだ。
「……」
結城さんは母の言葉に答えず微笑を返すだけだった。
「月海君」
「は、はい」
そして、彼女は俺の方を向いて、頭を撫でた。そう、まるで親が子供にするように。
この年齢でそれをやられるのは気恥ずかしいが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「元気でね」
たったそれだけの言葉なのに何故か心の中に残り、そして彼女の優しさを感じる事ができた。
結城さんは頭の上に乗せた手を引くと、その手を胸に抱くようにした。
「じゃあね」
結城さんは再び微笑みを見せた後、背を向けて去っていった。
その背中は先程までの優しさを持った彼女ではなく、何かを背負った者の背中だった。
悲しみ
憎しみ
怒り
いや、どれも違う。似ているけれど、どれとも違う。そう、これは決意をした者の背中だ。
去っていくその背中は儚げで、それでいて強い意志を背負っていた。