プロローグその1
雨の音が、天井裏のどこかで跳ね返っていた。
葬儀が終わっても、祖母の部屋だけは時が外れているようだった。廊下の畳を軋ませながら、水城璃空は敷居をまたいだ。
その瞬間、部屋の空気がわずかに揺れた。まるで、誰かの微かな息遣いが残っているように思えた。柱に刻まれた節目、すり減った畳、薄く残る白檀の香り。そこには今とは異なる時間が静かに沈んでいた。
谷の奥。夢見渓の集落。
杉林を背に、傾くように建つ一軒の古家があった。合掌造りの茅葺き屋根。築百年を優に超えたその家は、祖母・八重が生涯を終えるまで暮らしていた場所だった。弔問の足音が去って数日。山霧とともに静けさが戻り、村の気配はふたたび森に沈んでいた。
璃空は、いまだ手付かずの遺品が残る室内を見渡したが、その静けさは心を落ち着かせる類のものではなかった。
畳の縁、煤けた柱、文机の上の細いひび。すべてが妙に整いすぎているように思えた。まるで、誰かがこの場に「何かを残すために」意図的に手を加えたかのような、そんな気配がある。
喉が詰まるような違和感。
璃空は無意識に喉元へと手をあてた。指先は冷え、微かに震えていた。手を引っ込めようとしても、次の瞬間には袖口を握りしめるようにして胸元を押さえていた。
(ここには、何かがある……)
その思いが脈打ち始めた瞬間、璃空の視線が、机の上の湯飲みに留まった。隣の椅子との間にできた微かなズレ。それがなぜか、静かすぎて不自然に見えた。湯飲みの位置、引き出しの取っ手の向き、茶箪笥の扉の閉じ方。一見ただの日常に見えるすべての中に、「意図された何か」が潜んでいる気がしてならなかった。
祖母はなぜ、死の直前までこの部屋に籠もっていたのか。なぜ誰も呼ばず、遺言も残さず、ただ黙って命を終えたのか。
璃空は、ふと足を止め、本棚に目をやった。並んだ背表紙のあいだに、わずかな段差がある。そこだけ、本がきちんと揃っていない。誰かが意図してずらしたような、小さな違和感だった。
璃空は、ゆっくりと本棚に歩み寄る。
埃をかぶった古い文集や、手垢の染みついた辞書を数冊抜く。本を一度胸元に抱え直し、背表紙を撫でた。革の乾き具合、紙の繊維のざらつき、糊の劣化の匂い。触れれば、その本がどれだけ読まれ、どれだけ放置されてきたかがわかる。
手にしていた本を静かに棚へ戻し、璃空は空いた隙間に指を差し入れる。
指先が、棚板の奥に触れた。
(あれ?)
木の感触が、ひとつだけ違う。
古い板特有の滑りではなく、わずかに引っかかる。節目の周囲だけ、指が沈む。璃空は視線を落とすより先に、もう一度そこをなぞった。
節の位置が、ほんの少しずれている。接合部の隙間に、爪の先がかかる。そこだけ木材がわずかに浮き、はめ込まれた板が完全には固定されていないように見えた。
璃空は本棚の前で一度腰を落とし、問題の箇所を確かめる。指先で軽く押すと、ほんのわずかに動いた。気のせいではない。彼は袖口を捲り上げ、畳に片膝をつく。
本棚の奥へ腕を差し入れる。ざらりと埃が指にまとわりつく。だがその下に、紙の繊維の乾いた感触があった。
くしゃり。
音より先に、手触りでわかった。
紙だ。
しかも和紙の乾いた感触。
璃空は指先をさらに奥へ滑らせる。本棚の背板の裏に、拳が入るほどの空洞があった。手探りで探ると、横向きに差し込まれた細い筒状のものに触れる。
それを慎重に引き出す。埃をかぶった巻物が一本、棚の奥から現れた。
もう一度、腕を奥へ差し入れる。背板の裏にはまだ隙間がある。指先が、今度は角ばった紙束に触れた。引き寄せると、端の裂けた古い帳面が現れた。
璃空は、思わずその帳面の端を親指で撫でた。紙が、やけに冷たい。
今一度手を隙間に差し入れると、さらに奥に、硬いものが当たる。木。だが普通の木箱とは違う。表面が妙に滑らかで、油を吸ったような重みがある。
指先だけで、その重さを想像する。璃空は指を掛け、慎重に引き出した。両手で抱えるほどの、黒ずんだ木箱だった。蓋には見慣れない紋様が浅く刻まれている。その溝を、璃空は反射的に指でなぞった。浅いが、刃物の入りが鋭い。彫った者の手は迷っていない。
そして、その上を、細い麻紐が幾重にも巻かれている。
璃空は、紐の結び目に触れた。硬い。ただ縛ってあるのではない。中央で交差し、封じ目のように締め上げられている。紐の繊維が、指にざらりと引っかかった。
ほどけない。
これは、結び目じゃない。
封じだ。
璃空は巻物、帳面、木箱を前に、息を止めている自分に気づいた。
背後の空気が、わずかに波打った気がした。鳥肌が立つ。璃空は反射的に肩をすくめ、振り返った。
(誰もいない……)
そのとき、玄関の方から「お邪魔します」という声がした。廊下に目を向けると、濡れたパーカー姿の星名梨沙が立っていた。肩には映像機材のバッグ。都会の空気をまとっているはずの彼女が、この百年家屋の中に、妙に違和感なく馴染んでいた。
「近所の人がさ。水城の孫が帰ってきてるって言ってたから。ちょっと顔、出そうかなって」
(水城の孫、ね……)
この谷では、人よりも家の名が先に立つ。誰が帰ってきたのか。どの家の戸が開いたのか。それを誰かが、いつも見ている。
「なにそれ、帳面? 遺品整理?」
梨沙はずかずかと部屋に入ってきた。視線が璃空の手元にある巻物に吸い寄せられるように動く。そのまま、軽く眉をひそめ、少しだけ首を傾けた。
「いや、わからない。ただ……祖母が隠してたものみたいで」
「隠してたって、どこに?」
「本棚の奥に仕掛けがあった」
「うわ、そういうのテンション上がるんだけど」
梨沙は目を輝かせてスマホを構える。
「撮ってもいい?」
「やめとけ。妙なモノだったら、どうすんだよ」
「妙なモノって、たとえば?」
「……呪いとか、そういうやつ」
「本気で言ってる?」
「知らねえよ。ただ、そういう空気なんだよ、ここは」
璃空は、膝の上に置いた木箱から目を離せずにいた。紐で厳かに縛られた蓋は、ただの木の板のはずなのに、どこか得体の知れない気配をまとっている。璃空は右手を箱の縁に近づけては、そっと引っ込める。指先が、紐の結び目の上でわずかに止まる。
開けてしまえば何かが変わってしまう。
だが、それを確かめずにはいられない。
璃空は、箱から手を引いたまま、しばらく黙っていた。指先が、わずかに震えている。梨沙はそれを見て、何も言わずに一歩下がる。代わりに、窓の外に視線を投げた。
「……ねえ、リク」
「ん?」
「なんで、このタイミングで帰ってきたの?」
問いは軽かったが、逃げ道のない角度で放たれた。璃空は一瞬、言葉を探すように喉を鳴らす。
「……お前こそ。東京で、カメラの仕事してんだろ」
「してるよ。一応ね」
梨沙は肩をすくめる。
「でも今回は、仕事だけじゃない」
璃空が視線を向けると、梨沙は少しだけ口元を緩めた。
「水城の家、最近やたら名前が出てくるんだよ。消えた集落とか、記録に残らない儀式とか。で、やえって名前を見つけたんだ」
その名が出た瞬間、璃空の背筋がわずかに強張った。
「……どこまで知ってる?」
声が、思ったより低く出た。
梨沙は一瞬だけ視線を逸らし、それから肩をすくめる。
「名前ぐらいかな……会ったこともない……」
そう言いながらも、その目は軽く笑っていなかった。
「でも……」
梨沙は帳面を軽く持ち上げる。
「触っちゃいけない人だったんだろうな、って感じはする」
璃空は息を吐いた。それは肯定でも否定でもなかった。
「俺も、ほとんど知らない」
「え?」
「村じゃ、昔からそうだった。すごい人だったらしい、とは聞く。でも、何をした人かは誰も言わない」
木箱に視線を戻す。
「なのにさ……死んでから、やたら置いていくんだよ」
「置いていく?」
「帳面とか、箱とか。見つけられる前提で、隠してたみたいに」
璃空は小さく笑ったが、その目は笑っていなかった。
「調べなきゃならなくなった」
「何を?」
「ばあちゃんが、何を壊して、何を残したのか」
梨沙は一瞬、言葉を失う。それから、興味を隠さずに目を輝かせた。
「……それ、めちゃくちゃ厄介で、面白いやつじゃん」
「喜ぶな」
「だってさ」
梨沙は帳面をそっと元の位置に戻す。
「こういう人って、死んでから本番なんだよ」
雨音が、一定のリズムで部屋に響いている。
「……ねえ、リク」
「なんだ」
「開けたい気持ちと開けたくない気持ちが半々だね」
「同感」
梨沙の視線が急に木箱の隣の帳面に落ちた。
「ねえ、ここ見て。貸魂帳って書いてある」
梨沙が呟いた。帳面の端に記された文字を、読み方を確かめるように指でなぞりながら。
「カシコンチョウ? なんだそれ……貸金庫の間違いじゃないか?」




