8. 絶望の足音
『宇梶君、未知物質が河川を汚染したというのは本当なのかね?』
「ええ。シミュレーションの結果はそちらでも確認できるはずです」
7月■日の午後。僕が茨城県の県庁へ一報を入れた後の話をしよう。
僕は、恩師でありJAXAの理事を務める榊征士郎先生と電話で話をしていた。
『……ああ。しかし、前例のないことだ。こんな事態にならなければ、もっとワクワクする話だったかもしれないが……』
今朝出た例のシミュレーション結果と、未知物質による那実川の汚染の因果関係の推測を含めたレポート。それを僕が、JAXAの宇宙科学研究所の主要メンバーに送りつけたところ、榊先生が慌てて電話を寄越してきたのだ。
甚大な災害の可能性があり、現在進行形で被害が広がりつつあると知っては、その反応も無理はないだろう。
『私に何か出来ることはあるかね?』
「早急に落下地点付近の現地調査をすべきだと考えています。しかし、感染症対策の専門家も呼ぶべきでしょう。政府に主導してもらう方がいいかもしれません」
『そうだね。これはもう、JAXAだけで対処できる問題ではない』
「感染研(国立感染症研究所)に大学の同期がいます。彼に連絡を取ってみるつもりです」
このとき僕は、帝都大学時代のある友人のことを思い浮かべていた。
僕と彼は同じテニスサークルに属し、練習や大会その他サークルのイベントで長い時間を共に過ごした。ただし、僕が博士留学のために渡米してからはすっかり疎遠になってしまっていた。彼は元気でやっているだろうか……。
比護徹心――それが、彼の名だ。
『……わかった。私の方は、文科省と内閣の関係者に働きかけてみよう』
「よろしくお願いします」
榊先生の協力が早期に得られたのは幸運だった。
状況は予断を許さないが、未知の脅威への対応体制は着々と整いつつある――希望的観測をすれば、そう見なすこともできたかもしれない。
「それと、もう1つ――」
『まだ何かあるのかね?』
だが、〝敵〟の恐ろしさは底が知れない。どれだけ安全マージンを取っても足りない、と僕は思うようになっていた。
――コンコン、
僕が海外への情報共有について榊先生に提案しようとしたそのとき、ノックの音がした。
――かと思うと、勢いよくドアが開いて、返事も待たずに星江さんが入室して来た。聡明で礼儀正しい彼女にとって、これは異例のことだ。
僕は榊先生に謝罪を述べて、電話の保留ボタンを押した。
星江さんの方を振り向くと、彼女は切迫した表情で次の言葉を述べる。
「……すいません。先ほど、茨城県庁から連絡がありました。今日の午後から、大岸ビーチの方でも例の出血症の被害者が出ているそうです!」
「なんだって!」
――それは、最悪の知らせだった。
大岸ビーチ――茨城県の東側、太平洋に面する海岸沿いの砂浜だ。確かにあそこは、那実川河口の近くだった。
それは即ち、「脅威」が既に川に留まらず、海に及んでいることを意味する。
頭から血の気が引くのを感じたのは、生まれて初めてだったかもしれない。
不覚にもたたらを踏んでしまい、星江さんの手を借りる羽目になった。
(まずい。めっちゃまずい……)
僕の頭の中で、これから予想される事態の推移が目まぐるしく展開する。
宇宙から火球の中に隠れて降って来た物質を、仮に〝X〟としよう。
3日前に栃木の瑞篠山に降り注いだ〝X〟は、那実川を下って中流域の白里町で被害を出した。ここまでに2日かかっている。
瑞篠山山腹の水源から那実川の河口までの距離は約110km。〝X〟は早ければ2日ほどで河口に到達すると考えられる。
これまで報道された被害は、那実川の上中流域に限られていた。初めに被害が出た白里町は中流域に当たる。
このことから、僕は〝X〟は移動経路で徐々に滞留・蓄積して毒性を発揮するような性質のものだろうと想像したのだ。
そうであれば、下流で被害が出るのはこれからだろう。海に出たとしても、すぐに深刻な被害が出ることはないのではないか――と高を括っていた。
(あれ……? ひょっとして、これもう手遅れなのでは……)
〝X〟が初めて海に出てから、もう1日以上は経っているだろう。
今から奇跡が起こって全人類が一致団結したとしても、洋上に出た〝X〟を完全に封じ込める術はなさそうだ。
敵は海という莫大な水量にさらされてからも、希釈されて効果を失うことなく、致死性の毒を保っていることが確認された。そしてそれは、これから黒潮や北太平洋還流に乗って世界中の海に拡散していく……。
(――いや……諦めるのは、まだ早い)
ここで白旗を上げてしまうのは早計だろう。
状況は悪いが、まだ人事を尽くしたとは到底言えない。
〝X〟を調べ尽くせば、対抗手段も見つかるかもしれない。
……と、このような考えを高速でまとめた上で、僕は星江さんに礼を言って別れ、改めて榊先生との通話を再開した。
開口一番に告げる。
「先生、状況が変わりました」
†
「――という具合に、現状は最悪と言えるでしょう」
『何ということだ……』
僕が丁寧に説明をしたところ、榊先生も僕と同じように危機感を持ってくれたようだ。さっきの時点で深刻な声音ではあったが、今ははっきりと先生の動揺が伝わって来る。
「先生、3つほど提案があります。――ああ、1つはさっきの落下地点の調査の件なので、残り2つですね」
『……聞こう』
僕はそこでひと呼吸してから、提言を続ける。
「1つは内閣にこの情報を伝え、緊急の対応体制を取ってもらうことです」
『そうだな……。それは必須だ』
被害が茨城県に留まらないことは、僕の中ではもう確定的だった。海流の動きを考えれば、数日以内に東北や北海道の太平洋沿岸で被害が出るはずだ。
それに、水産物への影響も懸念される。
人間にとって劇毒である〝X〟が、他の生物の体内でどのように作用するかはまだ不明だ。……が、もし〝X〟を体内に蓄積した生物を摂取してしまったら――。それはきっと、人にとっては猛毒となるだろう。
「もう1つは、JAXAの持つ地球観測衛星。あれを駆使して、海洋汚染の実態を調べましょう」
JAXAは、地球環境を監視する高性能な観測衛星を多数運用している。特に、その1つである「いろどり」は、海面水温や植物プランクトンの量を高精度で観測している。その観測データから、何か手がかりを掴めるかもしれない。
「事は一刻を争います。諸外国との連携のためにも、なるべく正確に状況を掴む必要がある」
もう事は日本だけでは収まらない。
一刻も早く各国に〝X〟の脅威を伝える必要がある。
そのためには、動かぬ証拠としてデータを突きつけるのが最も確実だ。
『……わかった。私の持つ権限を最大限に活用しよう』
「ありがとうございます」
――人類の生き残りを懸けた戦いが、いま始まった。
「ここからは、時間との勝負です」