7. 間の悪い事故
同日、午後。
茨城県伏間市、エレメント・マテリアルズ社オフィス内。
エレメント・マテリアルズ社の社長、四季実秋はPCで報道番組の中継を見ながら、恐怖に震えていた。
画面の中では、県知事が緊張の面持ちで原稿を読み上げている。
『……原因については、まだわかっておりません。しかし、被害は複数の特定の浄水場の供給エリアでより多く発生しています。そのため、水道水に健康被害をもたらすなんらかの異常が起こった可能性が高いと判断し――』
水道水――その水源は、栃木県から県を横断して太平洋に注ぐ那実川だ。
その川の水を、エレメント・マテリアルズ社の所有する工場でも利用していた。
(違う……。あの事故は無関係のはずだ……)
実秋は3日前に工場長の浅沼から聞いた報告を思い出す。
『……キレート剤の貯蔵タンクに小さな亀裂が出来ていました。メーターの記録から、漏出が始まったのは例の隕石の爆発の後です』
報告を聞いたとき、実秋は冷や汗をかいた。
キレート剤には、人体に有害な成分が含まれている。
しかし、浅沼から詳しい状況を聞き取った上で、実秋自身も週末に現場での確認を行った。その結果、確かに漏出はあったが、那実川流域で健康被害をもたらすような濃度ではなかったのだ。
なのに、なぜ――
「四季社長」
思考に没頭しかけていた実秋は、その声にハッと顔を上げた。
オフィスの入口側から、スーツの女性が近づいていた。
「海原さん、何か?」
実秋は内心の動揺を押し殺し、そう訊ねた。
彼女の名は四季清夏。実秋の妻だが、ビジネスネームとして旧姓の「海原」を使い、公私を分けることを徹底している。もしも実秋がうっかり職場で気安く呼びかけてしまったら、彼女から説教を受けることが決まっている。
「那実川のニュース、聞きましたか?」
ドキリとした。
実秋は漏出事故の件について、工場長――浅沼に堅く口止めをしていた。だから、清夏は事故のことは知らないはずだった。
通常であれば、このような重大事故については副社長である清夏にも情報を共有すべきだ。が、実秋は夫として、妻に余計な心労を負わせたくなかった。
「あ、ああ。大変なことになっているようだな……」
「ええ、本当に」
実秋が応えると、清夏はため息を押し殺しながら、目を閉じてかぶりを振った。
(……ま、まさか、事故のことを工場長に聞いて――?)
実秋のこめかみから汗が噴き出す。心なしか、急に空調が弱まったように感じられた。
「工場の営業を停止しましょう。早急に従業員への健康診断を実施すべきかと」
「…………へ?」
隠していた事故のことがバレたかと思っていた実秋は、清夏の予想外の言葉に思わず間抜けな声を出してしまった。
清夏の目が怒ったように吊り上がる。実秋はそれを見てブルリと震えた。
「健康診断ですよ! 上流の方でも死人が出てるんですよ。従業員に何かあったら大変でしょう?」
「――あ、ああ。健康診断ね。確かに、その通りだ。すぐに工場長に言って手配しよう」
「では、私は近隣の医療機関をピックアップしておきます」
そう言うと、清夏はさっと踵を返した。
(なんだ。そういうことか……)
清夏は、漏出事故の件に気づいたわけではなかった。
実秋はほっと胸をなで下ろしつつ、電話を手に取る。
――浅沼さんに改めて、漏出の影響がなかったかを確認しなければ。
実秋の思考は、再び不安に囚われる。
そのとき実秋のPC画面の中では、県知事がある記者の質問に答弁していた。
『――県の環境保全課に指示し、那実川の複数のポイントで水質調査を進めております』
水質調査――その言葉に、実秋の胃がキュッと縮む。
(……もし、もしもアレが検出されたら、ウチは致命的なダメージを受ける)
被害が広がっている感染症騒ぎと関係があろうとなかろうと、「有害物質を漏出させた」というだけで社会的信用の失墜は免れない。
実秋は、水質調査でキレート剤の成分が検出されないことを痛切に祈った。
――トゥルルルル……
電話の呼出音を聞きながら、実秋は唾を飲み込んだ。
しかしこの後、浅沼が実秋からの電話に出ることはなかった。