異聞1 終末に備えて……
サイドストーリーが始動します。
本話から登場する【彼】の物語は、本作で未だ明かされていない〝真実〟を、慧たちとは別の角度から浮き彫りにすることでしょう。
こちらの物語においても、みなさんの心を震わせることができれば幸いに思います。
――8月α日。
「Acu-SHE」の災禍は、日本全国に脈々と根を張り、大地を――水系を――蝕んでいた。
それは、既に禁足地と化した茨城県を含む関東の中北部や、アウトブレイクを起こした朱野川流域に当たる福島・新潟のみに留まらない。
それらの土地から遠く距離を隔てた九州の北西部――その一角を占める長崎県も、決してその被害と無縁ではなかった。
この2日前――7月λ日の時点で、政府が発令した漁業および海産物の出荷禁止命令は既に九州全域に及んでいた。また、同日には対馬海峡で死亡した100頭を超える鯨類が壱岐・対馬に漂着していた。
後者に関しては、今なお鯨類の死亡座礁が継続しており、自治体は対応に奔走している。
しかしながら――
「――……どんだけ平和ボケしてんだよ……クソッ……!」
長崎市内の高校に通うある男子高生がそう毒吐く程度には、平素と変わらぬ日常を営む家庭が多かった。
この男子高生の名は小湊渉。少し小柄で線が細く、真面目で大人しそうな印象の少年だ。
「〝終末〟は、もうすぐそこまで迫ってるって言うのに……!」
渉は小湊家の中で独り、危機感を募らせていた。
今朝も両親に「もっと水を備蓄しておいた方がいい」と訴え、「これ以上は駄目」と却下されたところだ。
両親の認識としては、既に災害への備えは十分だった。特に水に関しては、先走った渉が既に200リットルほどネット通販で買い込んでいた。
(――日本人、災害に慣れすぎだろっ……!)
渉は内心で、主語の大きな悪態を吐いた。
『――「正常性バイアス」って言うやつだよ』
そのとき渉は、自分にその知識を与えた先輩の言葉を思い出した。
伝馬習作――渉の3つ歳上の先輩にして、オタク仲間でもある。伝馬は予備校に通う浪人生であり、近所では変わり者としても知られていた。
正常性バイアス――それは、思いもよらない危機を目の前にしたとき、自分に都合の悪い事実や情報を過小評価することだ。
これから尋常でない災害が訪れようとしているのに、多くの人々は「大したことはない」「すぐに元通りになる」と思い込んでいるのだ。
(……ばかだよ、みんな。水は生きていくのに欠かせないって、知ってるはずなのに……)
渉は自分が特別、優れた人間だなどと思ってはいない。
〝終末〟は「すぐそこ」と言いつつ、具体的な日付まで読めているわけでもなかった。
渉の主張の根拠は、ほとんどが伝馬の入れ知恵によるものだった。
家族もそれを察しているため、渉の警告を話半分に捉えているのだった。
身支度を終え、大きなリュックを用意した渉は、外出前に自宅2階のある部屋を訪れた。
静まり返ったその部屋のドアを、そっと開ける。
「――飛鳥。お前だけは、何があっても僕が守ってやるからな」
「…………」
渉の2つ歳下の妹、飛鳥が兄の言葉に応えることはなかった。
飛鳥は自室のベッドに横たわり、虚ろな瞳で何もない空間を見つめていた。
その腕と腹部からは、点滴と胃ろうのための医療用細管が伸びている。
――5年前の事故以来、飛鳥は植物状態になっていた。
渉と2人きりで繁華街に出かけていたときに、前方不注意の車と出会い頭に衝突してしまったのだ。渉に過失はなかったが……『自分が連れ出さなければ、飛鳥は事故には遭わなかった』――その事実に気づき、彼は後悔に苛まれた。
その事故が渉に与えたものは、後悔や自罰思考だけではない。それらは渉の中で贖罪意識と歪んだ英雄願望に結びつき、得も言われぬコンプレックスを形成した。
以来、渉は家族が呆れるほど献身的に、飛鳥の介護をこなしていた。通常は同性の介護者が行うべき清拭や下の世話さえ、「兄だから」と言って手を出そうとするほどだった。そこには、やましい思いなど一切なかった。
守るべき妹の姿を目に焼きつけた渉はリュックを背負い、踵を返して階下に向かう。
来たるべき〝終末〟の日を迎えるに当たって、十全な備えをするために。
†
――渉が家を出てから、約2時間後のことだ。
「あ……小湊君」
1人でショッピングモールを訪れていた渉は偶然、高校のクラスメートと出くわした。
このとき渉は、1人で持てる限界ぎりぎりの物資をショッピングカートに満載にして運んでいた。
「……こ、こんにちは。白井さん」
渉がしどろもどろに挨拶をすると、彼女はにこやかに「こんにちは」と返した。
白井繭。
小顔で手足がすらっと伸びた彼女は、クラスのアイドル的な存在だ。
渉は繭と昨年度、高校1年の頃から同じクラスだったが、この1年半弱で会話をしたことは数えるほどしかなかった。
渉と間近で会った繭は、両目を大きく見開いた。
その視線は、渉が運んでいるショッピングカートの積荷に注がれていた。
「……すごい量ね。『Acu-SHE』って、そんなにヤバいの……?」
繭の手の中には、500mlのペットボトルが1本だけあった。おそらく、何かのついでに手に取っただけだと思われる。
「……ま、まあね。ウチには妹もいるから……」
「ふうん、そうなんだ」
渉と親しくない繭は、渉に寝たきりの妹がいることなど知らない。
ただ、「小湊君って妹さん思いなんだな」と思っただけだった。
「――じゃあ小湊君、また登校日にね」
「うん。さようなら」
会ったときと同じ、クラスメートにしては丁寧な挨拶を送り、渉は繭と別れた。
――このときの2人は、その程度の関係性でしかなかった。
「……ぐぎぎぎぎ……」
その後、渉は総重量25kgに及ぶ荷物を背中の大型リュックと両手のビニール袋に収め、青息吐息で坂道を上り下りして自宅まで帰った。
「はあっ、はあっ……。――これで、避難生活もちょっとは安心かな…………」
渉が今日購入した物資は、携帯用浄水器や大量のウェットティッシュに消毒用アルコール、カロリーメイト等の栄養補助食品など多岐に渡る。
ただし、この中に水は含まれていない。
水については、渉がネット通販で発注したのが、4日前――7月ι日だった。
その2日後、段ボールに詰められた合計200リットルのペットボトル水が小湊家の玄関に積み上がった結果、両親から渉に対して「水購入禁止令」が出されてしまったのである。
人が1日に摂取すべき水分量は、約2.5リットルと言われる。
たかが200リットルでは、妹の飛鳥を含む家族5人で分け合うとして、単純計算で16日しか持たない。
『――論文に記されていた「GRIM」のスペックを信じるなら、0.5ミクロン以下の濾過精度を持つ浄水フィルターなら除去できるはず』
伝馬の言葉を信じ、渉は商品の仕様をよく読んで携帯用浄水器を購入した。――もしこれが機能しなかったら、早々に詰むかもしれない。
問題はまだある。
最大の問題は、近隣一帯が汚染地域になってしまったとき、飛鳥の生命維持をどうするか――ということだ。
幸いにしてここ最近、飛鳥の体調は安定している。仮に医療機関と分断されたとしても、それだけでただちに命に関わるようなことはない。
しかし――
「――もし電気が止まったら、ヤバいよな……」
飛鳥は自力呼吸できているが、床ずれ防止用のエアマットなど、電気式の医療・介護用機器もある。そもそも、この猛暑の夏にエアコンが使えなくなるだけでも致命的だ。
非常時を考えれば、いくら心配しても足りるということはなかった。
……一方で、渉が今までに小遣いやアルバイトで貯めた金は、今回の出費でもう底をついた。
万全を尽くしたい渉だったが、一介の高校生でしかない彼にできる備えには限界があった。
「――――飛鳥は、僕が守る。絶対に…………」
渉は右の手のひらを自身の目前で広げ、固く握りしめる。
……決意の強さに反して、その手は余りに小さく、頼りなく映った。
――――この時点で確かに〝終末〟を予期していた彼は、まだ知らない。
近い将来、長崎で現実化する〝終末〟が、彼が想像するよりも遥かに残酷で、救いのない悲劇と絶望に満ちあふれているということを――――。
――――国家非常事態宣言の発令まで、あと6日。
次話からはまた本編に戻ります。




