6. 広がる災禍
7月■日、午後1時。茨城県庁、記者会見室。
数多くのフラッシュが明滅し、茨城県知事、近城由紀恵の目に焼き付いた。
彼女が知事に就任してから2年。これほど緊迫した空気の中で会見に臨んだのは初めてのことだ。昨日から発生している異常事態について、記者たちの悲鳴のような質問が飛び交う。それはきっと、県民の心の声を代弁しているのだろう。
また、ある記者が叫ぶ。
「那実川の水は安全なんですか?」
――……そんなの、こっちが知りたいわよっ!
近城はそう言い返したい気持ちをぐっと堪え、質問者の方を向いて冷静に答える。
「……鋭意、調査を進めております」
それでも、記者たちの悲鳴――あるいは怒号――が止むことはない。
「発症した方の病名は明らかになったんでしょうか?」
「これって感染症ですよね? ヒト−ヒト感染の可能性はあるんですか?」
「化学物質などによる公害の可能性は?」
近城にとって、どれも答えられない質問だった。
なにせ、わかっていることがほとんどない。
今わかっていることは、「那実川の水が怪しい」これだけだ。
緊急で水質調査の指示を出したが、結果が出るまで最短でも数時間はかかる。
今できることは、水道水の利用を控えるように呼び掛けるぐらいだ。
「先ほど自衛隊や自治体と連絡を取り、給水の手配を進めております。住民のみなさまには、どうか冷静な対応をお願いしたく――」
那実川そのものでは、上流から下流に至るまで現場で目に見える異常は起こっていないらしい。それはそれで不気味だ、と近城は思っていた。
近城は記者たちの質問になるべく懇切丁寧に回答を行い、逃げるように会見室を去った。
たった30分間の記者会見だったが、近城にはその時間が何倍にも感じられた。
会見を終え、近城が執務室に戻ったときのこと。
タイミングを見計らったように、執務室の電話機が鳴った。
「はい。こちら、県知事秘書――」
秘書がすぐに応対する。県庁のどこかから回って来た内線のようだった。
「少々お待ちください」
秘書が受話器を置き、近城と目を合わせた。
「知事、帝都大学の宇梶という方からお電話です。例の集団死亡の件で至急お伝えしたいことがある、と。宇宙物理学の准教授だそうですが……」
少々困惑したような秘書の言葉に、近城は眉根を寄せる。
(宇梶准教授……? 知ってる――あの人だ)
近城は、宇梶慧という人物のことを科学系のニュースなどを通して知っていた。カリフォルニア工科大で博士号を取得し、異例の若さで准教授となった、日本が誇る宇宙物理学研究における第一人者として。
(でも、なぜその人が今……?)
近城の頭の中では、発生中の集団怪死事件と宇宙物理学の間の距離はアンドロメダ銀河ほどに遠く離れていた。にも関わらず、彼は「集団死亡の件で」と言ったらしい。その理由はわからなかった。
「私が出るわ」
それでも、近城は電話に出ることを決めた。帝都大学――日本の最高学府の准教授でもある慧とのつながりを得ることには、きっとメリットがある。近城はそう判断した。
「近城です」
『宇梶です。早速ですが、要件を申し上げます。3日前に起こった栃木県上空での流星爆発を覚えていますか? 計算の結果、私はあれが今回の集団死亡事件の元凶だという確信に至りました』
「――――」
慧の放った予想外の言葉に、近城はすぐに思考が追いつかなかった。
流星群が見られた夜に、降って来た1つの隕石が爆発した。そのニュースは近城も知っていた。――しかし、まさかそれが……?
何秒が経っただろうか。
フリーズした近城の頭脳が再起動するまで、慧はただ沈黙を守っていた。
「――あれは……確か、被害はなかったのでは?」
近城の当然の疑問に対し、慧は肯定を示しつつも判明した事実を明かす。
『はい。上空10km地点で閃光爆発を起こしながら、目立った被害はありませんでした。しかし、隕石を構成していた物質の内、多くが瑞篠山の那実川源流付近に降り注いだと、JAXAのコンピューターによる解析で結論が出ました』
それを聞いた近城は血相を変えた。
「なんですって!」
『あの隕石は、よく見られる隕石とは全く構造が異なっていました。硬い外殻に覆われており、爆発によって内部の未知物質を地球の大気中に撒き散らしたのです』
外界から来た未知のイレギュラー。宇宙物理学界の俊英によって、その一端が示された。
近城の脳内に、いつか見たパニックホラー映画の映像がちらついた。未知のウイルスが世界中に蔓延し、人類が絶滅に危機に追い込まれる展開だ。
ぞくり、と近城は寒気を感じた。
「どうしたらいいのかしら……」
途方に暮れる近城に対し、慧は自身の要求と見解を告げる。
『大学内とJAXAでは、もうこの情報を共有しています。那実川の生態系に異常は起きていないでしょうか? 私の考えでは、上流の方が被害が大きいはずです』
「早急に調べさせます。他にできることは?」
『安全を考えれば、今すぐ水道を止めるべきでしょう。少なくとも、那実川の下流域の住民にも水道水の利用を禁止するように徹底した方がいい』
こうしている間にも、例の出血症患者の数は増え続けていた。
最早、一刻の猶予もない。
これは災害だ。
近城はこのとき、はっきりとそう認識した。
「――那実川流域の全住民に勧告を出します。飲用・食用での水の利用は絶対にやめるように、と」
『ええ、その措置は必要ですね。それでは、那実川の状況について、何か異常がわかったら私に連絡をください』
近城はそれを確約し、受話器を置いた。
「沢井さん、すぐに各部の主だった人を集めて、会議の準備を整えてくれる? これから総力戦になりそうだから」
「は、はい!」
――しばらくは、家に帰れそうにない。
水の利用制限地域を広げるから、給水体制も強化しなければならない。住民の混乱を避けるための手も打たなければ。国からより多くの支援を得るのも必須だ。
近城の頭の中で、これからやるべきタスクが山のように積み重なっていた。
この時、謎の出血症による死者数は1,000人に届こうとしていた。