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3. 時よ、止まれ。

 世界が一変した今年の7月下旬を、俺――比護(ひご)徹心(てっしん)は一生忘れないだろう。……もっとも、この世界が――そして俺自身の人生が――いつまで持つ(・・)かも定かではないが。


 さて、ようやく8月に入ったが、「Acu-SHE(アクーシェ)」の悪夢は絶賛継続中だ。

 昨日は遂に茨城県の大内海(おおうつみ)でもアウトブレイクが発生し、茨城県は全域が汚染地域となった。

 次は栃木か、福島か……と言われている。

 ――首都圏も、もう安全ではない。


 そんな状況だからこそ、「Acu-SHE」やその病原である「GRIM(グリム)」に関する研究は非常に重要だ。

 「GRIM」の凶悪な性質も徐々に明らかになっているが、まだわからないことの方が圧倒的に多い。


「……準備はいいか?」

『――はい』


 BSL-4実験室――最高レベルのバイオセーフティーレベルを満たす数少ない設備――の前室で、俺は隣の前田研究員に問いかけた。

 俺たちは今、全身をずんぐりむっくりとした陽圧防護服で包んでいる。


 時刻は、朝の9時半。

 これからBSL-4実験室に入り、ある重要な実験を行う。――正確には、実験結果を観察する前の最終工程というところだ。

 そのために俺は今日、感染研の群山(むらやま)庁舎の方に出勤していた。


『……被験体は今、どういう状態ですか?』


 イヤホン越しに前田の声が聴こえる。

 既にお互い頭をすっぽりとバイザー付きのフードで覆っているため、実際の声はほとんど聴こえない。


「――大人しくしてるさ。脳波には異常が見られるが、バイタルには問題ない」


 後は実際に見た方が早い――俺はそう告げた。


 前室で準備を終えた俺たちは、インターロック機構を備えた二重扉を通り抜け、BSL-4実験室に入室した。

 その中では、「GRIM」関連の様々な検体が厳重に管理されている。

 ……ただ、実験室の〝外〟でこれだけ「GRIM」が猛威をふるっている現状、こいつらをここに封じ込めておくことにどれだけの意味があるのか――ふと、そんな疑問が俺の脳裏をかすめた。



 BSL-4実験室内の一角に、動物用のケージ複数個を備えた飼育棚がある。

 その1つ――「D」のラベルが付けられている――に目的の被験体が収容されている。


『……ぐったりしていますね』

「そうだな」


 その被験体とは、1匹のあわれなモルモットだ。

 〝彼〟はケージの奥で横たわり、ぴくりとも動かない。

 眠っているようにも見えるが、実は意識が混濁した昏睡状態にある。


 その理由は――


「『GRIM』を投与してから48時間以上経った。15分ほど前に脳への攻撃が始まったようだ」

『……ねらい通りですね』


 そう。

 残酷なようだが、被験体の〝彼〟には人類のために命を捧げてもらうことにした。


『発作の兆候がない……免疫抑制剤が効いているようですね』

「ああ」


 これから行う実験が終わるまでのわずかな間、被験体のモルモットには命をつないでもらう必要がある。

 そのために用意した手段が、現在治験の真っ最中である「Acu-SHE」の対症薬の1つ「シクロスポリン」だ。これによって、全身でのサイトカインストームの発火を防ぐことが可能なことは、既に動物実験で確かめられている。


「よし、安全キャビネットに運ぶぞ」

『はい!』


 BSL-4実験室の中央には、大型の安全キャビネットがある。その内部には、既に小動物用の脳定位固定装置を設置しておいた。

 俺と前田は手際よくモルモットを装置に固定し、頭部が動かないようにロックした。


 これからモルモットを麻酔で深い眠りに落とし、脳組織の摘出を行う。その瞬間に〝彼〟は生命としての機能を失うことになる。


 ……この残酷な実験の目的は、ただ1つ――



 「GRIM」が脳を攻撃している最中に、〝犯行の瞬間〟を押さえることだ。



 以前にも述べたように、我々は相変わらず、脳周辺の検体から「GRIM」を満足に捕まえることができていない。

 しかし、「Acu-SHE」の末期患者に発症する「死の発作」の症状は、脳を震源地とするサイトカインストームに間違いない。

 数日前に届いた茨城大の法医学教授、杉田雅子氏からのレポートもその証左の1つだ。


 特に着目すべきは、血液脳関門(BBB)に残された微細な痕跡――。まるで空き巣が侵入の手口をごまかしたかのような、血管内皮細胞に残された小さな異変がそこにあった。

 そして、それこそがサイトカインストームを引き起こす間接的な要因と考えられる。


 ――手段こそわからないが、「GRIM」の影響によるものと考えるのが、最も妥当だ。



 キュイイィィン



 前田がドリルを操作し、モルモットの頭蓋骨に穴を開ける。俺は吸引管で飛び散った残骸を除去しながら、バイタルモニターを確認する。


『比護さん、液体エタンを』

「ああ」


 脳が露出し、前田がメスとピンセットを構えたとき、俺は冷却ポットの蓋を開けて開頭したモルモットのすぐ傍へと寄せる。ポット内は、-180℃の液体エタンで満たされている。

 前田のピンセットの先には、グリッドと呼ばれる小さな試料台がつままれている。


 ここから先の作業では、まばたきすら許されない極限の集中が求められる。


「……行けるか?」

『……いつでも』


 ドクン、と心臓が脈打つような気がした。


「――よし、やれ!」


 俺の合図と共に前田の右手のメスが動き、脳の海馬傍回を切り裂く。

 切り出された微小な組織片が、前田が左手のピンセットでつまんだグリッドによって捕捉される。


 ……ジュッ


 脳組織片を乗せたグリッドが液体エタンの中に沈む瞬間、集音マイクが小さな沸騰音を拾った。


 ――急速凍結。


 液体窒素よりも冷却効率の高い液体エタンを用い、水分を氷の結晶にすることなく、ガラス状のアモルファス氷として一瞬で固める技術だ。


 これにより、組織片の中にあるすべての生命活動、化学反応、そして構造の崩壊さえもが、原子レベルで静止(フリーズ)する。

 「Acu-SHE」の末期症状における脳組織――その〝現場〟をありのままの状態で保存した。


『……プランジング、完了』

「よくやった。きっと〝犯人〟は証拠を消す時間もなかったはずだ」


 俺はこれからの試料の観察に備え、凍結されたグリッドを速やかにトランスファーポットへ移した。


 その間に、未だ生死の境をさまよっていたモルモットに致死量の麻酔薬を与えて安楽死させた。


 〝彼〟の死は、きっと無駄にはならない。




    †††




 ――それから半日が経過し、時刻は夕方になった。

 いま俺と前田は、BSL-4実験室に隣接する電子顕微鏡制御室の中にいる。今朝、採取した試料の観察のためだ。当然、あの重たい化学防護服はもう着ていない。

 採取から観察までの下準備に時間を要したため、この時刻となった。


 観察に用いるのはTEM――透過型電子顕微鏡だが、採用した観察手法には特別な名前がついている。「クライオ電子顕微鏡法」というのが、その手法の名前だ。

 この手法によって、今朝のように超低温の冷媒で凍結させた試料の3次元構造を観察することができる。


 ただし、3Dモデルの構築には対象の角度を変えながらたくさんの写真を撮影した上で、コンピューターによるソフトウェア処理を施す必要がある。その撮影とコンピューター処理に、ここまで時間が掛かったというわけだ。


「今から3Dモデルの映像を確認するが、同時にリアルタイムで試料の方も観察しよう」

「わかりました。TEMの操作は任せてください」


 リアルタイムで観察できる映像は2次元のものとなるが、並べて()ることで情報量も増えるだろう。


 前田がコントローラーを操作し、グリッド上の探索を開始する。

 画面に映し出されるのは、高解像度のモノクロ映像だ。

 俺はその隣のモニターに、3Dで再構成された映像を表示した。


「まずは血管内皮細胞の密着結合(タイトジャンクション)付近からだ。――そこにヤツ(・・)がいるはずだな?」

「……はい」


 前田が深刻な表情で頷く。

 彼は、これから観察され得るものについて、現時点で俺よりも多く情報を持っている。――なぜなら、午前中にTEMを操作して試料の撮影を行っていたのは、前田自身なのだから。


「――い、いました……!」


 そいつ(・・・)の姿が映った瞬間、前田の体がビクリと震えた。


 左右のモニターを見比べていた俺は、呆然と口を開いた。



「――……なんだ、コイツ(・・・)は…………?」



 「GRIM」なのか……――いや、おそらくそうなのだろうが――……今までに確認されたヤツの3形態のいずれとも(・・・・・)全く異なる(・・・・・)


「……こ、こんな姿だったなんて…………」


 前田の声は震えていた。撮影時に見た2次元の映像からだけでは、これほどおぞましい姿だとはわからなかったのだろう。



 その形状は、強いていえば「GRIM」のアメーバ形態が最も近い。きっとそれが変化したのだろう。

 ただし、黒ずんだ核らしきものから周囲に伸びるのは、アメーバの仮足ではない。

 ――より細く鋭い、繊細なマニピュレーターのような樹状突起が、繊毛(せんもう)のように広がっていた。


「…………まるで、神経細胞(・・・・)だな…………」


 恐る恐る吐き出した単語が、的を射ているような気がした。


 凍結した世界の中で、その樹状突起(マニピュレーター)の一部が血管内皮細胞の密着結合(タイトジャンクション)の間に潜り込んでいた。


「……こいつが細胞の間に、隙間をこじ開けてるんですね」

「ああ、間違いなさそうだな……」


 試料の別の箇所を観察したところ、ちょうど「GRIM」の〝アメーバ状形態〟と、この樹状突起が発達した形態の中間のような形態も確認された。

 従って、やはりこの形態も「GRIM」の一形態であることが確定した。


 俺は、この形態を仮に〝有棘(ゆうきょく)形態〟または〝有棘刺入(ゆうきょくしにゅう)形態〟と称することにした。


 だが、観察はこれで終わりではない。


「――視野を奥に動かそう。ヤツらの挙動を徹底的に追うぞ」

「は、はい!」


 俺が3Dモデルの映像を切り替えるのに合わせ、前田が試料内の位置を探索して顕微鏡の視野を合わせる。厳密に同じポイントを見るわけではないが、試料のあちこちで同様の状況が再現されていた。


 ……そうだ。


 血液脳関門(BBB)の防壁をすり抜けたこいつらが、そこで何をしているのか。それを突き止める必要がある。

 そして、なぜこれまで脳検体から「GRIM」が検出されなかったのか。――その答えも、きっとそこにあるのかもしれない……。


 果たして、その答えは――――


 前田がゴクリと喉を鳴らす。


「これですね……」

「そういうことか……」



 神経細胞が(・・・・・)攻撃を受けている(・・・・・・・・)



 ――それが、見たままを表す言葉だった。



 侵入を果たした有棘形態の「GRIM」が、その樹状突起を触手のように伸ばし、神経細胞(ニューロン)にグサグサと突き刺していた。……まるでダニのようだ。


「……何をしているんでしょうか?」

「わからん……。――だが、こいつらも無事ではないようだな」


 言わばそれは、三つ巴(・・・)の戦い。

 ――ニューロンに襲いかかる「GRIM」の横から、免疫細胞であるミクログリアが形を変えて「GRIM」のコア部分を覆い尽くそうとしていた。その姿はさながら、被害者を襲う犯人を果敢に捕縛しようとする警察官のようだ。

 静止した世界の中にも関わらず、今にも動き出しそうなほどダイナミックな光景だった。


 侵入者を検知したミクログリアは、激昂したかのように表面から小さな泡を放出している。――これこそが体内の免疫系を暴走させる火種、〝炎症性サイトカイン〟だ。


「確かに、ミクログリアに溶かされてるみたいですね……」


 前田が視野をスクロールする。

 ある神経細胞のすぐ傍では、ミクログリアの内側で「GRIM」がぼろぼろと崩壊している姿が見られた。


「――うん? ……これはどういうことだ?」

「どうしました?」


 凍結した3次元世界の内部を探索しながら、俺はあるポイントでふと違和感を感じた。


 そこでは――


「おかしい……。近くにミクログリアがいないのに、『GRIM』の組織が崩れているぞ……」


 そして、「GRIM」の周囲には崩壊した組織のくずによって〝(もや)〟のようなものが漂っていた。


「ほんとだ! ……どうしてでしょう?」


 撮影のときには気づかなかったのか、前田も驚きの声を上げた。

 前田は急いで顕微鏡を操作し、全く同じ状況が起こっているポイントを発見する。


「――考えられるとすれば……」


 〝「GRIM」が自壊している〟――パッと思い浮かんだ仮説だが、何度か頭をひねってみてもそれが一番しっくり来た。


 何のために? まさか――


「……まさか、〝自爆テロ〟か……?」

「――え……?」


 このとき、俺の脳内である考えが閃いた。


「前田、EDS(エネルギー分散型X線分光法)を実施しよう。そこの〝靄〟の成分を分析してほしい」

「はい」


 前田が俺の指示に従い、操作パネルで顕微鏡をSTEMモード(分析モード)に切り替える。


 約1分後――。


「――亜鉛と鉄が、こんなに……」

「やはりか……」


 グラフ上で、2つの成分がピークを描いていた。

 その内、ひときわ高い山が亜鉛だ。


〝――「GRIM」は亜鉛を代謝している――〟


 それを突き止めたのは、AQUAチームの〝戦友〟であり、宇宙物理学者の宇梶だ。

 また、2日前に宇梶の研究室で実施された成分分析では、「GRIM」の〝芽胞〟の構成素材として亜鉛や鉄が使われていることも判明した。


 ――つまり、「GRIM」は細胞内に亜鉛や鉄を溜め込んでいる。


 それらが、今ここで放出されていた。


 亜鉛や鉄は、正常な脳機能に必須の成分だが、一方で過剰な供給は機能障害を招く毒ともなる。


 案の定、また別の箇所では――崩壊した「GRIM」の残骸の周囲で、異常を検知したミクログリアが狂ったようにサイトカインを放出していた。


 血液成分の漏出のせいだけではない。

 宿主を死に至らしめるサイトカインストームは、「GRIM」自身の脳への侵入とその崩壊によって、致死率99.9%の劇毒と化していたのだ。


 ――「GRIM」の増殖周期から算出したところ、「Acu-SHE」の末期症状が起こるタイミングでは、体内の「GRIM」の総数は数十億以上になっている計算だ。

 それだけの数の異物によって脳にこのような攻撃が仕掛けられたら、宿主にとってひとたまりもないのは納得だ。




 ――ここまでの観察と発見によって、「Acu-SHE」患者の症状に関する以下の3つの謎に対して、極めて説明可能性の高い仮説が得られた。


①なぜ、脳内の血管に目立った損傷がないにも関わらず、脳実質に被害が起こるのか。

②なぜ、神経細胞が自死(アポトーシス)を迎えるのか。

③なぜこれまで、脳検体から「GRIM」がほとんど検出されなかったのか。


 ①に対する仮説は、〝有棘形態〟に遷移した「GRIM」個体によって細胞間に極小の隙間が空けられ、「GRIM」がそこから脳実質へ侵入するからである。その後、組織の再結合によって、証拠となる実質的な損傷は消えてなくなる。


 ②に対する仮説は、実は2つある。〝有棘形態〟の「GRIM」から攻撃を受けたからという説と、至近距離で崩壊した「GRIM」から亜鉛や鉄といった金属成分を浴びせられたからという説だ。……見たままの見解としては、両方が同時に起こっていると考えられる。


 そして、③に対する仮説は〝有棘形態〟の「GRIM」自身が、神経細胞に取り付いた後に自壊して消滅するからである。

 ミクログリアによって分解される、と考えるものもいるだろうが……俺は、それには異を唱えたい。「GRIM」が免疫細胞によって分解可能であれば、体内で増殖する前に駆除されるはずだからだ。


 ――神経細胞に取り付いての、宿主に対する〝自爆テロ〟攻撃。

 それこそが、「GRIM」の最終目標なのかもしれない。



 …………なんて合理的で、なんて悪辣(あくらつ)なシステムなんだ…………



 このときの俺は、そう思った。







 ――――もっと恐ろしい可能性については、このときは想像さえしなかった…………。





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