幕間 死者たちの声
更新遅れてすいませんでしたm(_ _)m
ついでのようですいませんが、来週からも火曜更新とします。
また、本話では死体解剖の描写があります。グロ注意(今更かも?)。
7月θ日、金曜日のことだ。
茨城大学医学部――大学病院に隣接するこの学部も、4、5日前から広がった「Acu-SHE」の流行と濃密な関係を持っていた。
午後7時過ぎ。その法医学教室にて――。
白衣を着た20代後半の女性が、ノックもそこそこに教授室の中に駆け込む。彼女は医師の資格を持つが、この大学院で法医学の門を叩いてまだ4か月の身の上だ。
「――杉田先生! 県警からまた司法解剖の要請です」
「そうかい。断りな」
彼女の切迫した呼び声に対し、室内にいた法医学教授、杉田雅子の返事はにべもなかった。
雅子はデスクでPCに向き合い、ここ数日の解剖によって得られた所見をレポートにまとめている最中だった。
――今、これ以上に優先する作業はない。
雅子はそう判断していた。
「もう何度も言ってるように――」
雅子はキーボードに指を走らせながら、まだ若い女医に告げる。
「――私らが聞ける死者の声には、限りがある」
雅子は法医学者として10年以上のキャリアを持つ。また、病理医の資格を併せ持ち、茨城大学病院の病理部にも籍を置いている。雅子がその長いキャリアの中で向き合ってきた遺体の数は、なんと2千以上に上る。
雅子は言わば、解剖や検体分析による病理・死因特定の第一人者である。
そんな雅子にとっても、ここ数日の「Acu-SHE」の災害は悪夢だった。ここ茨城県内の死者数は、θ日の朝までに1万5千名を超えていた。
――一刻も早い死因詳細の究明を。
県警だけではない。県庁や大学、病院からも要請は上がっていた。
しかし、使える手数は限られている。
日本における解剖医の人手不足は深刻だ。全国の医師35万人に対し、病理医はたった3千人足らずだ。法医学者に至っては、わずか150人と言われている。
ここ茨城大学でも、死体解剖資格を持つ法医学者(法医認定医)は雅子1人きりだ。
雅子は胸ポケットを探って煙草を吸おうとし、教授室が禁煙だったことを思い出す。――集中して作業しているときにやりがちな癖だった。
舌打ちをした後、代わりにコーヒーの入ったカップを口に運ぶ。
冷えきったコーヒーを飲みながら、雅子はここ数日の出来事を回想する。
†††
「……先生、警察からお電話が入っています」
雅子がその電話を受けたのは、δ日月曜に大学へ出勤した直後だった。
この時点ではまだ、那実川の中下流域にある茨城大学には、災害の波は届いていなかった。
「杉田です――……ああ、あんたかい」
電話を掛けてきたのは、雅子と以前から面識がある茨城県警の検視官だった。
『杉田さん、そちらでは遺体を最大何体まで受け入れられますか?』
「10体」
雅子が即答すると、しばらくの沈黙があった。
『――聞き方を変えましょう。受入人数を倍に増やすとしたら、何が必要ですか?』
「当然、霊安室の拡張工事が必要だねぇ。あと、それで遺体が置けるようになったとしても、解剖医が増えるわけじゃない」
『……どうにかなりませんか?』
「どうにもならないね」
検視官は深々と溜め息を吐いた。
『……わかりました。こちらで厳選して遺体を送ります』
「ちょっと待ちな。まだ受け入れるなんて、ひと言も言ってないよ」
『失礼しました。――これから遺体を送っても?』
今度は雅子が溜め息を吐く番だった。
「あんた、よっぽど疲れてるんだね。まずは所見を言いなよ。遺体を見たんだろう?」
『ああ、そうでした。……すいません。昨夜から引っ張りダコでして……寝てないんです』
雅子は、薄々と検視官の事情を察した。
彼女の頭脳は、今の状況を今朝見たニュースと紐づけていた。
「わかったわかった。――あの怪死事件かい?」
『はい。遺体はいずれも――』
検視官から『感染症の疑いがある』と聞いて、雅子の表情が深刻なものになった。
万全の対策を施さなければ、教室内で2次感染のおそれがある。
それから遺体が搬送される小一時間ほどの間に、雅子は教室の人員の手を借りて受け入れの準備を整えた。
――その後、法医学教室の霊安室に空きが出ることはなかった。
††
その2日後、ζ日の午前中のことだ。
「……また、同じですね」
「ああ」
助手を務める若手の女医――大月という――の言葉に、雅子は頷いた。
2人の間には、メスで切り開かれた「Acu-SHE」患者の遺体がある。
……それはまるで、人間の形をした血袋だった。
胸骨を開くと、内部は赤黒い血性胸水のプールと化していた。肺は鬱血と滲出液でずっしりと膨れ上がり、患者が窒息状態だったことを明白に示した。
腎臓や肝臓などの実質臓器も鬱血肥大し、点状出血と壊死によって斑模様に変色していた。
全身の血管はズタズタで、至るところでDIC――播種性血管内凝固を引き起こしていた。
2人はこの2日間でもう何体も、このように中身がぐじゅぐじゅになった遺体にメスを入れていた。
「――この仏さんの脳も駄目だねぇ……。これじゃあ、全く使いものにならない」
雅子は、開頭した頭蓋骨の中身を見て首を振った。
そこにある脳は、一見すると形を保っているように見える。だが、熟れた果実のように柔らかく、ピンセットで触れるだけでぼろぼろと組織が崩れてしまう。
真夏の猛暑に加え、「Acu-SHE」患者によく見られる高熱――その2つの要因によって、脳の自己融解が急速に進行していたのだ。
「……顕微鏡で見ても駄目です。どの組織を見ても、死後変化による空胞だらけです」
「それじゃあ、いったい何が『Acu-SHE』起因で起こった変化かなんて、調べようがないねぇ……」
雅子は苦渋の表情を浮かべた。
(――脳が一番怪しいっていうのに、参ったねぇ……)
病理医として大学病院にも籍を置く彼女は、この日の未明に発見されたばかりの新情報についても共有を受けていた。
それは、臨床医の荻野博美が発見した「Acu-SHE」の末期症状が起こるメカニズム――脳を震源とする激烈なサイトカインストームの情報だ。
その情報を得た雅子は、変わり映えのしない全身解剖に見切りをつけ、遺体の脳に焦点を当てた剖検(病理解剖)に舵を切った――いや、切ろうとした。
しかし、そこで壁として立ち塞がったのが、先に挙げた「脳の自己融解」の問題だ。
警察から持ち込まれる遺体はどれも死後、時間が経ちすぎていた。
少しでも状態が良い遺体が選び出されていたとはいえ、いずれも市民から通報を受けた警察官が現場に赴き、それから検視を経て搬送というプロセスをたどったものだ。
茨城大の法医学教室に運び込まれるまでの間に、一定以上の時間が経過することは避けられなかった。
「どうしたもんかね……」
雅子が内心で匙を投げたくなった頃、法医学教室に1本の電話が入った。
それは、すぐ隣の大学病院の病理部部長からの電話だった。病理医の肩書きを持つ雅子にとっては、下に置けない立場の相手だ。
彼は、単刀直入に用件を述べた。
『――杉田先生、病理解剖に手を貸してもらうことはできませんか?』
「『Acu-SHE』で亡くなった患者の解剖を? しかし――」
雅子は反射的に反論しそうになって、その言葉を途中で飲み込む。
病院も病理医の手が回らず、遺体をそのまま自衛隊に回収してもらわざるを得ない状況だという。
しかし、警察が持ち込んだ遺体を捌けるのは学内で雅子たちだけだ。
――とはいえ、と雅子は思う。
病院からの要請に応えるという形であれば、警察からの依頼を断る大義名分としては十分だろう。
何より重要なことは、隣の病院で出た死体であれば、最短で剖検に着手できるということだ。
――部長はひょっとしたら、それがねらいで……?
雅子はすばやく決断を下す。
「いえ――ぜひ引き受けさせていただきたい。ただし、警察からの遺体の受け入れを停止する必要があります。……2時間後からで良いでしょうか?」
こうして雅子は、新鮮な死体を手に入れた。
††
それからθ日までの3日足らずで、雅子は病院から届けられた20体以上の遺体を解剖した。いずれも死後1時間以内に執刀を開始することができた。
雅子がこれだけのハイペースで遺体を捌くことができたのは、全身解剖ではなく脳解剖に的を絞ったからだ。
その内、2人目の脳検体の観察を終えたところで、雅子は「Acu-SHE」による死体の異質な特徴をほぼ掌握していた。
「――おかしいね。きれい過ぎる……」
雅子が注目したのは、大脳辺縁系および脳幹部の組織切片だ。
それらの部位にある毛細血管を、顕微鏡で拡大して観察する。――結果は、「異常なほど健常」だった。
「Acu-SHE」は全身の血管をズタボロにしているというのに、そこでは何ら破壊の痕跡が見られなかった。破裂や断裂の跡など全くない、きれいなものだ。
しかし――
「――壁は壊れていないのに、中身が漏れ出している……?」
血管の損傷は見られない。
それなのに、その周囲には血液成分が浸出し、脳浮腫を引き起こしている。
それは、ちょっとしたミステリーだった。
雅子は顕微鏡の倍率を上げ、血管内皮細胞の結合部を凝視する。
細胞と細胞のつなぎ目。本来なら強固に閉じているはずの「壁」に、無理やりこじ開けられたような痕跡があった。
「……ここから出て行ったのかい」
破壊したわけではない。
泥棒が扉の鍵をピッキングして開けるかのように、わずかな痕跡を残してすり抜けたのだ。そして、その間に血液成分という「毒」が脳内へ漏出した。
「なんだい、これは……」
さらに雅子を戦慄させたのは、周辺の神経細胞の状態だった。
そこでは、多くの神経細胞が死を迎えていた。ただし、単純な外傷による壊死ではない。
細胞が萎縮し、自ら死を選んだかのような自死様の変性を起こしている。
……まるで、生きるためのエネルギーを根こそぎ奪われた抜け殻のように。
そして――
「――やっぱり。ここでサイトカインが起きてるわね」
脳内の免疫細胞――ミクログリアの暴走。
それらは狂ったように炎症性サイトカインを放出し、守るべき脳細胞を焼き尽くしていた。
――これこそが、全身に巻き起こるサイトカインストームの着火点だ。
その引き金はおそらく、脳組織への血液成分の漏出だろう。たとえ微量であっても、それが脳細胞に与えるダメージは深刻だ。
サイトカインの着火から全身に波及するまでのメカニズムとしては、2通りのパターンが考えられる。
1つ、ミクログリアが放出したサイトカインが、血液脳関門から全身を巡る血流に乗る。これによって、全身のマクロファージが刺激され、更にサイトカインが放出される。
もう1つ、ミクログリアが脳幹や視床下部を攻撃することで、自律神経がパニックを起こし、「非常事態宣言」のような警報が発令される。この警報は一瞬で全身に伝わり、脾臓、肝臓、肺などのマクロファージが個々に大量のサイトカインを放出する。
「Acu-SHE」患者の激烈な発作の症状と、死亡に至るまでの時間の短さを鑑みれば、これらが同時に発生していても不思議はない。
7月ι日、荻野博美が主著者として発表した論文でも、この2つのメカニズムが仮説として述べられた。
雅子の脳解剖による発見は、その裏付けとなるものだった。
†††
時は再び、7月θ日の夜に戻る。
雅子は主観や憶測を排除し、ここ数日死者の声に耳を傾けて得られた見解を淡々とレポートの形に仕上げる。
要点を短くまとめれば、以下のようになる。
・所見1:脳内微細血管において物理的損傷は確認されないが、血液成分の漏出を認める。血液脳関門の一時的な開放、および機能不全が見られる。
・所見2:神経細胞のアポトーシス様変性を確認。
・所見3:ミクログリアの過剰な炎症反応(サイトカインストーム)を確認。
・結論:病原体は脳血管の構造をほとんど破壊せずに通過し、脳実質へ侵入している可能性がある。またそれに伴い、局所的な免疫暴走を誘発している。
レポートの見直しを終えた雅子は、それを内閣の緊急災害対策本部に宛てて送信する。
その後の対応は、科学対策統括室――AQUAチームが受け持つことになるだろう。
「――ふうっ……」
雅子は大きく溜め息を吐くと、ぐぐっと背伸びをして、凝り固まった首肩周りをほぐした。
「これが何かの取っ掛かりにでもなってくれれば、いいんだけどねぇ……」
夜の帳はとうに下りていた。
――教授室の窓の向こうは、真っ暗な闇で覆われていた……。




