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幕間 果てなき絶望(下)

 ――引き続き「Acu-SHE(アクーシェ)」の地域的大流行(エピデミック)、その第一波に直面した根本一家の物語を綴る。


 θ日――水斗(みと)市を含む全那実川(なみかわ)流域で給水停止措置が発令されてから、4日目のことだ。

 この日、被災者にとって状況の前提を覆す大きな発表があった。


「水質汚染の問題は、残念だけど長期化が見込まれるみたいだ。県内に親類縁者がいるものは避難してほしいってさ」

「ああ、やっぱり……」


 夫、根本貞義(さだよし)のもたらした情報に対し、妻の京花(きょうか)は薄々と感じていた悪い予感が的中したような気がした。


 ――待っていても、この災害は去ってくれない。現状、早期に汚染を取り除く手段もない。


 政府は遂に、その事実を公に認めたのだ。


「この家に帰って来れる日は来るのかしら……? まだローンもたっぷり残ってるのに……」

「仕方ない……。今は生き延びることだけを考えよう」


 京花の不安に対し、貞義は可能な限り前向きな言葉を返した。


 根本家は持てるだけの家財と物資を、所有するSUV車の荷台に詰め込んだ。そして、北の久重(くじゅう)市にある貞義の実家に避難することにした。


 非汚染地域への避難――それは一見して救済の道標(みちしるべ)のようだったが、その実、地獄行の始まりだった。

 この時点では、京花も貞義もその事実に気づいてはいなかった……。




「わーい! おじいちゃんとおばあちゃんのおうちだ! おふろ入れるかなぁ?」

「そうね。きっと入れるわよ」


 無邪気に喜ぶ娘の亜矢を見て、京花の疲れた顔に少しだけ笑顔が戻った。


 ほどなくして久重市に辿り着いた一家3人は、貞義の両親から歓待を受けた。


「大変だったな。俊也のことは本当に残念だった……」


 貞義の息子だった俊也は、彼ら年かさの夫婦にとっては孫に当たる。

 2人とも、彼の急死に胸を痛めていた。


「3人とも疲れてるでしょう。さあ、お風呂に入ってらっしゃい」


 3人は貞義の両親に感謝を示し、体に溜まった都合5日分の垢をようやく洗い流すことができた。その際、やっと生き返ったような心地がしたものだ。

 白米を炊き上げたご飯、新鮮な肉や野菜を用いた料理、汁物――かつては日本のどこでも見られたようなその食事は、3日間以上まともな食生活をしていなかった3人にとって、何にも勝るご馳走だった。


「ねえ、ママ! あや、ずっとこのいえでくらしてもいいの?」

「ずっとはさすがにねえ……新しいおうち、探さないとね」


 亜矢の正直な疑問に、京花は苦笑まじりに答えた。


 …………しかし、そんな安寧の日は長くは続かなかった。




 根本家の避難から3日後――λ日のことだ。


「ぐがっ……! ……うぐががががぁぁっ!!」

「あなた、しっかりして!」


 朝食の後、貞義の父が突然吐血して苦しみだした。

 その症状は、京花の脳裏に刻まれていた息子、俊也の死の様をまざまざと思い出させた。


「『Acu-SHE(アクーシェ)』……」

「なんだって!?」


 この頃には「Acu-SHE」という死病の名は、茨城の多くの人々にとって恐怖の代名詞として浸透していた。


「あの死神が追って来たんだわ! みんな殺されちゃう……」

「落ち着け! とりあえず救急車を!」


 父親を介抱する貞義に頼まれ、京花は119番に電話を掛けた。

 しかし、状況は1週間前よりもなお悪く、電話は一向につながらなかった。

 この時点で発生していた久重川(くじゅうがわ)流域のアウトブレイクによって、地域の救急医療体制はあっという間に飽和状態を超えていた。


「あなたッ! 目を開けて、あなたーーッッ!!」


 貞義の母は、意識を喪失した夫の体に縋りつき、涙を流して叫んだ。


 一家が自力で彼を病院へ運ぶ決意をするよりも早く、貞義の父は息を引き取った。


「うぅ、あなた……」


 貞義の母が悲嘆に暮れる中、京花は青ざめた顔で貞義に訴える。


「ヨシくん、逃げよう。……南なら、まだ汚染されてないでしょう?」

「南って……でも、誰を頼るんだい? 君の実家は千葉だろう。県外への移動は禁止されている」

従姉(いとこ)大内海(おおうつみ)にいるわ。この状況だもの。力になってくれると思う」

「いとこか……。このままここに留まるよりはマシかもな……」


 父親を亡くしたばかりの貞義にとっては難しい判断でもあったが、被災地での苦しい生活を身をもって学んだ彼は、最終的に京花に同意した。

 従姉という細い(よすが)を頼り、京花たちは県南の大内海市へと避難することを決めた。


 ただし、貞義の母は同行を拒否した。


「あの人とここに残ります。あなた達だけで逃げなさい」

「母さん……」


 60歳を過ぎて不意に夫を亡くした彼女は、この時点で未来を諦めてしまったのかもしれない。


 後ろ髪を引かれる思いをしながら、貞義は妻と娘を乗せたSUV車を発進させた。


 ――それから、ほんの数分後のことだ。


「ごほっ! ぐっ……ごぼぉっッ!!」


 車のハンドルに向かって、貞義がえずくような動作に続いて盛大に吐血した。


「ヨシくん!!」「パパっ!!」


 直後、京花と亜矢が血相を変えて叫んだ。


 貞義は震える手つきでハンドルを操作し、車を路肩に止めた。血まみれの手でシートベルトを外す。


「あぐっ! し、死神に追いつかれたみたいだ! 京花、僕はここまでだから、亜矢のことは頼むよ……」


 貞義は苦痛に顔を歪めながらそう言うと、転がるようにして車を降り、道路の外側に倒れ込んだ。


「パパ!!」

「亜矢、ダメよ!!」


 泣き叫ぶ亜矢に対し、京花はそれ以上の大声を発し、ドアにロックを掛けた。


「ママ、パパがっ!!」

「静かにして!」


 後部座席の窓をドンドンと叩きながら訴える亜矢に、京花は鬼のような形相で怒鳴った。

 京花が次にしたことは、ハンドルや車内に飛び散った貞義の血をタオル類で念入りに拭き取ることだ。また、彼女は車内にひと通りアルコールスプレーをかけた上でしばらく換気をした。


 それからSUV車を再び発進させる直前、京花は一度だけ貞義の方をちらと振り返った。


 ――変わり果てた夫の姿を見て、胸が詰まった。




 大内海へ続く幹線道路には、避難民の車による長蛇の列が出来ていた。

 平時なら車で1時間強の道のりだが、京花と亜矢の移動にはその倍以上の時間を要した。


『2人ならなんとかなるかも。でも今日は厳しいから、どこかホテルにでも泊まって』


 貞義の死後、京花から急報を受けた従姉からの返答だった。


 しかしこの日、大内海市内の駅周辺にあるホテルはどこも満員だった。

 京花は何件も電話を掛けながらホテルを渡り歩き、郊外の安ホテルでやっと部屋を借りることができた。

 フロントで感染の有無を念入りに確認され、腫れ物を触るような対応をされながら、娘と2人で逃げ込むようにして入室した。


「ヨシくん、俊也……」

「パパ、にいちゃ……」


 母娘は1つのベッドで身を寄せ合い、悲しみを慰め合って眠った。




 翌μ日の朝、京花は早々にホテルをチェックアウトし、従姉の家に向かって車を発進させた。

 その直後だった。


 従姉から京花に電話が掛かってきた。


『京花、ごめん! ウチには来ないで!』

「えっ……ど、どうしたの? 急にそんな……」

『……ニュース見てないの?』


 従姉の声が低くなった。

 京花は朝、ひと通りのニュースはチェックしていた。――あれから、また状況が変わったのだろうか?


 その次に従姉が発した言葉は、京花をここ数日で何度目かの絶望に突き落とした。


『――大内海でアウトブレイクだって。……笑っちゃうよね。私らに、どこに逃げろって言うのよ』

「そんな……」


 従姉の乾いた笑い声を聞きながら、京花は電話をプツンと切った。




 2、3時間が経った。

 京花は大内海の南側で、車を当て()なく走らせていた。


「……ママ、これからどこに行くの?」

「ちょっと待ってね。ママもどうしたらいいか、わからないのよ……」


 すっかり元気がなくなった亜矢の問いに、京花は困惑を取り繕うことさえできなかった。


 ――――もう、娘と2人で死ぬしかないのだろうか…………


 京花の胸にそんな思いが湧き上がっていた頃、車のコンソールボックスに置いたスマートフォンが再び着信を知らせた。

 見れば、発信者は京花の従姉だった。


 ……何だろう?


 京花は不思議に思いながらも電話に出る。


『京花、いまどこ?』

「え……? 大内海の南の方だけど……」


 その後に続いた従姉の言葉を、京花はすぐに信じられなかった。


『県庁からの発表を見て! 埼玉と千葉への移動が解禁されたって!』

「…………本当に?」


 京花はこの直後、すぐにスマートフォンで県庁のホームページにアクセスした。

 そこには、従姉が話した通りの発表内容が記載されていた。


(――良かった! これで、助かった……!)


 京花は心から安堵し、その勢いが余って両目から涙があふれた。


 ――千葉に行けば、助かる。

 久しぶりに、両親の実家に帰ろう。

 夫も息子も亡くしてしまったけど、娘は無事だ。

 そこで何もかもをやり直そう。


「チバのおじいちゃんとおばあちゃんのおうち?」

「そうよ。……今日からそこで暮らしましょう」


 京花は娘の亜矢と共に、自衛隊の誘導に従って千葉への県境を車で通り抜けた。


 そこが新たな地獄の門であったと京花が気づくまでに、長くは掛からなかった……。


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