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幕間 果てなき絶望(上)

 ――時を、「Acu-SHE(アクーシェ)」第1波の発生日まで遡る。


    †


 7月δ日、午後2時過ぎ。

 茨城県、水斗(みと)市。


 この日は朝から、胸を痛めるようなニュースが続いていた。

 那実川(なみかわ)流域の白里町を中心に、原因不明の奇病によって集団死亡が起こっているというのだ。

 那実川はここ水斗市においても取水源となっている。

 既に県庁から水道の飲用利用を控えるように要請が出されていた。


 ――きっと、今日1日ぐらいの辛抱だろう。


 水斗市のマンションで暮らす兼業主婦の根本京花(きょうか)は、この時点ではまだそのように高を括っていた。

 このとき京花はリビングでノートPCを開き、データ入力系の在宅ワークに取り組んでいた。


「ただいまー」


 玄関のドアが開く音に続いて、息子の俊也(としや)の声が聞こえた。今年で小学4年生になった、2人兄妹の兄だ。


 京花はキーボード上の手を止め、はてと首を傾げた。

 朝からプールに出かけた俊也は、てっきり夕方まで帰って来ないと思っていたからだ。


「お帰り。早かったわね」

「なんかだるくてさ。アイスある?」

「冷凍庫に入ってるでしょ」


 そんな会話の後、俊也はリビングに荷物を置いてキッチンに向かう。

 確かに、心なしか足取りが重そうだ。

 この夏の暑気にやられたか、プールで頑張りすぎたのだろうか。いずれにせよ、大したことはないだろう。――京花はそう思った。


 ――しかし、その判断は誤っていた。


 ぼとり。


 俊也が食べていたアイスを床に落とした。それを見た京花は、ついカッとなって怒鳴ろうとして――苦痛に顔をゆがめる息子を目の当たりにした。


「俊也! どうしたの!?」

「いたい! 頭いたいよっ! お母さん!!」


 俊也は頭が割れるような痛みに苦しんでいた。

 同時に彼の四肢や首筋に走るミミズ腫れのような紫斑に気づき、京花はこれがただごとではないと直感した。

 京花は俊也を抱え上げ、子供部屋のベッドへ運んだ。息子は明らかに高熱を帯びており、荒い呼吸を繰り返していた。


 子供部屋で人形ごっこをして遊んでいた妹の亜矢は、ただならぬ母と兄の様子にハッと顔を上げた。


「おにいちゃん、どうしたの?」

「具合が悪くなったの! 救急車を呼ぶわ!」

「えぇっ!」


 小学1年生の亜矢は、2段ベッドの下段で苦しむ俊也をそっとのぞく。体中に赤いまだら模様を浮かべた兄の姿を目撃し、「ひっ」と恐怖の声を上げた。


 長いコール音の後、やっとつながった119番の通話先に対し、京花は必死に訴えた。


「息子が死にそうなんです! どうかお願いします! 早く救急車を!」


 だが、当時の水斗市内の状況の悪化は、京花の想像をゆうに上回っていた。


『本日、救急車の出動要請が非常に多く寄せられています! 申し訳ありませんが、そちらに回せるまでに数時間以上は掛かる見込みです』

「そんな……」


 通信指令員の回答は、残酷な現実を表していた。

 救急車の手配を諦めた京花は、自家用車で俊也を病院へ運ぶ決心をした。夫婦で共用しているSUV車だ。

 ただし――、


「お母さっ……」


 京花が電話をしている最中に、俊也はそんな短い声を発した。

 それきり俊也は、身動(みじろ)ぎ1つしていなかった。




「もう少し待ってね、俊也! お母さんが、必ず助けるからっ」

「…………」


 ぐったりとして意識のない俊也を抱え上げ、京花は待合人の列をかき分けるようにして涙目で茨城大学病院に駆け込んだ。


 ――30分後。


 病院をあとにした京花が得たものは、2種類の書類のみだった。

 俊也の死亡診断書と、病院側が彼の遺体を保管したことを示す預り証だ。


「俊也……ごめんなさい……!!」


 独りきりで再びSUV車に乗り込む前、京花はしばらく地面に泣き伏せた。


 ――このとき、俊也に長く接触していた京花が「Acu-SHE」に感染しなかったことは、不幸中の幸いだったと言える(※注:この時点では、まだ「Acu-SHE」の名称は決まっていない)。


 絶望感に打ちひしがれながら京花が帰宅すると、夫の根本貞義(さだよし)も職場から早退して自宅に戻っていた。京花が家を出る時点で、彼女から連絡を受けていたのだ。

 貞義は、泣き腫らした顔の京花から息子の死亡診断書を見せられ、絶句した。


「俊也が……! なんてことだ……」

「ヨシくん、この病気って何なの……? 今いったい、何が起こっているっていうの?」

「僕にもわからない。とにかく、水に毒が混ざっているらしいとしか……」


 このとき、まさに貞義が勤める茨城県県庁の環境保全課によって、那実川の水の水質調査が行われていた。その結果は、まだ明らかになっていなかった。


「――じゃあ、プールでその毒にあたったってこと?」

「可能性はある。県庁にも報告を上げておくよ……」


 この後、貞義の報告を受けた県庁の調査によって、この日にプールを利用した者が続々と「Acu-SHE(アクーシェ)」を発症していることが発覚した。そのため、即座に水斗市を含む那実川流域の全プール施設に対する使用停止命令が出された。




 根本一家には、長男を失った悲しみに浸る時間はなかった。

 翌日ε日には給水停止命令が出され、水道が使えなくなったからだ。

 俊也を亡くしたこととは無関係に、残された家族3人の生活は激変した。


 根本家にとって、購入制限が課される前に水や保存食を大量に買うことができたのは幸運だった。

 しかし、それは断水下での生活という生き地獄に対する、ほんのわずかな慰めにしかならなかった。


「シャワーもお風呂も入れないって最悪ね。手も洗えないし」

「最小限の水で体を拭くか、使い捨てのボディタオルを使うかかな」

「そんなモノ買ってないわよ。今すぐコンビニかドラッグストアにでも行こうかしら」

「どうせ考えることはみんな同じだ。行くなら早くしよう」


 ε日の午前中、夫妻の間でそんな会話が交わされた。

 貞義はこの日、忌引休暇を取っていた。


 それから夫妻が近隣の小売店を巡回したときには、既に多くの店舗で目的の品が乏しくなっていた。とはいえ、2人で手分けして複数の店舗を回ったことで、それなりの物資を補充することができた。


 だが――、


「ウソ! トイレの水も流せないの!?」

「あぁ、迂闊(うかつ)だったな……。考えてみれば、当たり前の話だ……」

「どうするのよ? タンクの水はもうないわよ」

「残り湯があればまだよかったけど……遅かれ早かれ起きた問題か……。非常用トイレセットが必要だね」

「大も小もビニール袋に入れて凝固剤で固めるってわけね。……こっちの方が最悪だったわ……」


 断水時のトイレは切実な問題である。

 非常用トイレセットは自治体から各家庭へ配給されたが、最低限の数量しか行き渡らなかった。

 幸い、根本家ではネット通販も利用して余裕のある数を確保できた。この時点ではまだ、県内の物流は生きていた。


「ママー。おてて、あらいたい」

「……がまんしてね。お水がもったいないからね」


 水の利用制限による不潔と不快、それに伴う「生活の質(QOL=Quality (クオリティ・)of Life(オブ・ライフ))」の急減は、根本一家の精神を大いに病ませた。


 そして、問題は更に負の連鎖を続けていく。


「ダメね。ゴミ捨て場がもう一杯。早くこの汚物とおさらばしたいのに」

「回収車が回ってないのか。おまけにそこら中、ひどい臭いだ」

「隣の部屋もよ。きっとトイレに汚物を詰まらせてるんだわ。近所のゴミ集積場も、カラスが(たか)っててすごい悪臭よ。……もう嫌になるわ」

「ママー、からだがかゆいの」

「あら……。またあせもができちゃったのね。かいちゃダメよ」


 これらのようなことも、根本家におけるQOL低下を示す数多の例のごく一部だ。


 食生活も一変した。

 水を使う調理はほとんど不可能なため、食卓からサラダを始めとする生鮮食品類は姿を消した。カップ麺なども食べられない。当然、炊飯も不可能だ。

 3名が3名とも栄養価を補うために、ゼリーやブロックタイプの携行食、サプリメントの類いに頼らざるを得なかった。


「いつまで続くのかしら。こんな生活……」


 震災とは違って、電気やガスが生きていることは不幸中の幸いだった。おかげで、配給物資を受け取った後、重い荷物を持って階段を上る必要はなかった。

 しかし、人が生きていく上で水は何より欠かせない基礎資源なのだと、根本夫妻はほんの2、3日で痛感させられた。



 このような先行きの見えない生活水準の急落は、生きる意欲を大いに減退させる。

 根本家では、家族3人が互いの精神的な支えとなることで気力を維持していた。

 そうではない、例えば一人暮らしなどの家庭で何が起こり得たか、あえてここに記すまでもないだろう……。


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