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1. 命の天秤

水火無情(すいかむじょう)』……天災は人間社会の都合など配慮しない、無慈悲なものだということ。「水火」は水害や火災を指し、転じて自然災害全般を意味する。


 ――7月μ日、火曜日。

 G7+オンラインサミットによって世界が一致団結を迎えた、その翌朝のことだ。


 総理大臣の汐崎崇元(たかもと)は、ふだん通り官邸の総理執務室で公務を開始していた。ただし、深夜にサミットが閉幕した後、彼が公邸で眠りに就いた時間は2時間に満たなかった。


 そんな汐崎を待ち受けていたものは、予想された最悪のシナリオの中の1つだった。


大内海(おおうつみ)周辺全域で「Acu-SHE(アクーシェ)」のアウトブレイクが発生しました! もはや打つ手がありません……』

「――大内海が! そうか……」


 危機管理センターからの電話連絡を受け、汐崎は目を見開いた。


 大内海は、茨城県南東部に広がる総面積約200平方キロメートルの広大な湖だ。琵琶湖に次いで日本で2番目に大きな湖である。


 8日前に勃発した那実川(なみかわ)流域での「Acu-SHE」の集団発症。それを起因に、被災地で暮らしていた住民50万人以上が、県内の非汚染地域へと避難していた。

 その内、北へ行った住民を襲ったのは、昨日λ日に久重川(くじゅうがわ)流域で再び発生した「Acu-SHE」のアウトブレイク――国内で第3番目の事例となる大規模集団感染だ。


 結論として、茨城県に住む250万人以上の人口が県内の南部一帯に集結することとなった。

 辿り着けなかった者がどうなったか……。それは想像に難くない。


 そんな中で発生した大内海でのアウトブレイク。

 ――それは、250万人超の茨城県民に対する死刑宣告に等しかった。




 数分後。

 総理執務室内では、汐崎のデスク前に武田防衛大臣と須山官房長官が整列していた。室内には他に2名の総理秘書官も待機している。


「総理……茨城から自衛隊を撤収させてください」


 武田大臣がうめくような声で訴えた。


「やむを得んか……」


 汐崎の眉間に深いシワが刻まれる。


 茨城県では、広大な汚染地域をカバーするために陸上自衛隊の2個連隊が投入されていた。

 それでも住民に満足な支援ができているとは言い難かったが、これ以上現地に留まっても、いたずらに部隊を損耗するだけである。


 汚染された水系から、病原の「GRIM(グリム)」を取り除く手段はない。

 「茨城県」という土地はもう放棄せざるを得なかった。


 ここで、須山官房長官が発言する。


「総理。今ここで茨城の全住民の命を見捨てる決断をすべきではないでしょう。大衆の非難は避けられません。そうなれば計画にも支障が――」

「官房長官、あなたは隊員たちに死ねというのか!」

「そうではありません!」


 武田が須山の言葉を遮り、2人の間で激しい言葉の応酬が行われた。


「落ち着きたまえ!」


 汐崎がデスクを平手で叩くと、2人は再び汐崎の方へ向き直る。


「官房長官の言うことは正しいが、自衛隊を現地に留めることはしない。その代わり、茨城から埼玉及び千葉への移動制限を解除する」

「ええ」「は……?」


 汐崎の決定に須山は頷き、武田は疑問符を上げた。


「自衛隊諸君には、撤収と共に茨城から両県への移動を誘導していただきたい。くれぐれも安全優先で」

「そ、総理……。それでは、汚染を拡大することになりませんか?」


 武田の懸念に対し、汐崎は渋面を浮かべつつ答える。


「もちろん、無条件で移住を許可するというわけには行かないでしょう。しかるべき検査や隔離措置を行った上で、非感染を確認できた者から居住施設に移すなどのプロセスを踏むべきだ」

「な、なるほど!」

「対策本部でそのプロセスを協議しましょう。AQUAチームにも協力と監修を依頼します」

「頼む」


 汐崎の回答の意を汲み、須山が具体的な行動プランに落とし込んだ。


 この後、内閣官房の危機管理を担当する官僚が中心となって県をまたぐ住民の移動プロセスを定め、自治体向けの『Acu-SHE対応マニュアル』にも反映されることになった。


「……ああ、近城知事には私から一報を入れよう。彼女の不安と心労は察するに余りある」


 ここで汐崎は、茨城県知事の近城(きんじょう)に直接電話を掛けて、この議論で決定した内容を通達する。


 逃げ場を失った県民と共に悲壮感に包まれていた近城は、これを聞いて感涙にむせび返った。


「――――それでは、住民の避難を認めていただけるのですね! ありがとうございます、ありがとうございます……ッ!!」


 近城は滂沱(ぼうだ)の涙を流しながら、嗚咽(おえつ)まじりに感謝の言葉を繰り返した。


 近城の感謝を受け止めながらも、これがその場しのぎの延命策に過ぎないことを知る汐崎の胸中は暗かった。




 茨城の対処についての議論はまとまりを見せたが、須山官房長官と武田防衛大臣はすぐに解散したわけではない。

 引き続き汐崎総理の前に立つ2人に対し、汐崎は別の話題を投じる。


「――『首都移転計画』の進捗はどうです?」

「はい」


 その問いに答えるのは、須山官房長官だ。


「移転先の知事には内密に話を通しました。先方から用途は伏せた上で、官邸・省庁として接収する施設の候補を選定してもらっています」


 『首都移転計画』――その名の通り、日本の首都を東京から別の土地に移転するという計画だ。

 この計画の意義は、汚染源に比較的近い東京から首都を遠ざけることで、少しでも長く国家機能を維持することである。


「……しかし、本当にあの条件でよろしかったのですか?」


 須山の問いに対し、汐崎は軽く顎を引く。


「構わんよ。どうせ、これも一時しのぎだ」


 その条件とは、最低限の収容人数と会議用の設備があり、セキュリティが担保できれば、他の条件は一切問わないというものだった。

 もしこの件を閣僚会議に上げれば、顰蹙(ひんしゅく)は免れなかっただろう。――が、汐崎は閣議に(はか)ることなく独断で押し進めた。


「我々に残された時間は少ない。いちいちそれを会議で説いている手間も惜しい。――どうせ、早晩明らかになることだ」


 人間は、自分が見たいと思うものしか見ない生き物だ。

 皆が皆、絶望の未来を信じて受け入れているわけではない。

 それを前提とすれば会議は荒れる――汐崎にはその確信があった。


 それよりは、1、2週間後に現実となった光景を見せた方が遥かに効率的で、説得力も高い。汐崎はそう考えた。




 議題が尽き、須山と武田が総理執務室を辞しようというそのときだった。


 同席していた1人の総理秘書官のスマートフォンが着信を知らせた。

 汐崎総理への緊急連絡の可能性がある。秘書官はすぐに受電に応じる。


「はい、こちら総理執務室。え――?」


 秘書官の動揺の声を聞き、汐崎たち3名の顔に疑問符が浮かぶ。


「……わかりました。ただちに」


 スマートフォンを顔から遠ざけた秘書官は、汐崎に向かって蒼白な表情で告げる。


「そ、総理。危機管理センターからの緊急連絡です。千葉県、印波沼(いにわぬま)でたった今、新たな『Acu-SHE』のアウトブレイクが発生したと――」

「なんだと!」「ばかな!」


 汐崎ら3名の顔色が驚愕に変じた。


 千葉県の北部に位置する印波沼は、利根川水系の下流に位置する湖沼だ。これが上流でなかったことは、せめてもの幸いというべきか……。


 ちょうど、茨城から千葉への避難を認めた矢先のことだ。千葉へ避難するはずだった茨城県民にとっては、地獄が続くことになる。避難が早いか、それとも汚染が早いか……。


「総理、どうしますか……?」

「…………」


 官房長官の問いかけに、汐崎はすぐには応えられなかった。


 「GRIM」という死神の刃は、東京の喉元まで迫っていた。



 ――国家非常事態宣言の発令まで、あと7日。


第4章、開幕です。

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次話の投稿は来週の同じ時間となります(記:2026-01-05)。

活動報告に投稿頻度変更について記しました。

ご一読いただければ幸いです。

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