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幕間 最悪の予想

 7月λ日の朝のことだ。

 世界の命運を握るG7+オンラインサミットの開幕まで、あと半日に迫っていた。


 俺――比護(ひご)徹心(てっしん)は、NIID(国立感染症研究所)の新宿庁舎内で朝を迎えていた。


 前々日――ι日からこの3日間は特に忙しかった。

 θ日に降って湧いた論文執筆と公開のラッシュをなんとか乗り切ったかと思えば、福島での新たな災害の勃発、山田前所長の急逝と凶事が続いた。


 κ日には、九州北部で新たに鯨類の集団死亡座礁が発生した。

 政府は現場にマニュアルを配布しているが、それだけで済むはずがない。NIIDからも職員を派遣する必要があった。


 一方で、「GRIM(グリム)」や「Acu-SHE(アクーシェ)」について複数の調査研究案件が並行して走っていた。

 更に、ゲノム・フロンティア社の本庄社長がピックアップした「Acu-SHE」対症薬候補の治験に関する調整も進めなければならなかった。

 それに加えて、サミットの準備だ。


 殺人的なスケジュールだったが、これらを主に田中新所長と分担して、なんとかどれも落とさずにこなしていた。

 ……ああ、俺にも優秀な秘書がほしい……


 ――せめて今日、サミットが始まるまでの間には何事も起こらないでほしい。


 切実に願うが、こればかりはなんとも言えない。

 あの黙示録のような「全球汚染シミュレーション」によれば、関東でいつまた次のアウトブレイクが起こっても不思議はない。


 俺は再びデスクのPCに向き合い、サミットに向けて用意した資料の確認を行う。


『NO MATCH FOUND』


 ――地球上に一致する遺伝情報なし。


 κ日の午前2時頃、前田研究員がもたらした最大の成果だ。


 当初、俺がやろうとしていたメタゲノム解析は、残念ながらサミットには間に合わない見込みだった。

 しかし、それを前田が提案した〝あの手法〟に置き換えることで、この短期間で結果を出すことができた。


 その始まりは、3日前――――




    †††




 θ日、金曜日の朝。

 この日も新宿庁舎に出勤していた俺は、前田からの電話に応答していた。


「何かあったのか?」

『――比護さん、シングルセルゲノム解析をやらせてもらえませんか?』


 「シングルセルゲノム解析」――それが前田からの提案だった。


 微生物の遺伝情報を調べるに当たって、メタゲノム解析は非常に強力な手段だ。ただし、時間がかかりすぎるという難点がある。

 サンプルに含まれる全微生物のDNAをしらみつぶしに解析するため、膨大な計算時間を必要とするのだ。


 これに対し、シングルセルゲノム解析とは言わば一点突破の手法だ。

 解析対象の微生物を培養することなく、たった1つの細胞からゲノム情報を解析する。確かにこれが上手く行けば、メタゲノム解析よりも圧倒的に早く結果を出せるだろう。


 問題は――


「〝X〟を、どうやって捕まえるつもりだ?」


 ――それが最大の難関だった。


 この日の午後から「GRIM(グリム)」と呼ばれることになったそれに対し、まだ純粋培養の手段が見えていなかった。この時点では、宇梶も超遠心分離を用いた濃縮精製法を考案していなかった。


 セルソーターやマイクロ流路デバイスによって「GRIM」を選り分けることができれば良いが、まだ「GRIM」の特性もロクにわかっていなかった。よって、これらの道具が機能するかも未知数だった。


手動(マニュアル)でやります』

「! ――本気か……?」


 前田は、光学顕微鏡下でマイクロマニピュレーターを用いて、マイクロメートルサイズの「GRIM」個体を手動で抽出すると言ってのけた。

 ――それは、砂漠に落としたミクロサイズの金粉を箸でつまみ上げるようなことだ。物理的に不可能ではないが、正気の沙汰とは思えない。


『難しいことはわかっています。……でも、チャレンジする価値はあると思います!』


 前田は力強い声で言った。確かに、それができれば価値は大きいが……


 前田にやってほしいことは、他にも山ほどあった。時間を無駄にされるのは困る。


「……今日1日だけなら許可する」


 それが、俺がここで出した結論だった。


『ありがとうございます!』


 それから数時間後。

 前田から飛び込んできた報告に、俺は耳を疑った。


『――やりましたよ、比護さん!』


 前田は神懸かり的な集中力を発揮し、マイクロマニピュレーターを用いて「GRIM」の単一個体をすくい上げたと言う。


 同じことをやれと言われても、とてもできるとは答えられない。そのレベルの神業だった。


 ――ちなみに、宇梶から「GRIM」の濃縮精製法のアイディアの情報を得たのは、前田のこの報告の少し後のことだった。


『うわぁ……。そ、それ、もう少し早く知りたかったですね……。その方法を使えば、もっとあっさりとアレを捕まえられたでしょうに。――ああ、でもなんで僕がそれを思いつかなかったんだろう……』


 この手法を知った前田は、そんなことを長々とボヤいていた。……が、それはまあ、些細な話だ。




    †††




 その後、得られた「GRIM」個体の持つごく微量のDNAをWGA法と呼ばれる手法で数万倍に増幅し、次世代シーケンサーに掛けた。ノイズのないきれいなDNA情報の解析は高速で進行した。


 最終的に全ゲノムの解読が完了したのが、あのシーカー博士とのオンライン会議の直後――κ日の午前2時だった、というわけだ。


 結果については、先に述べた通り。

 地球上のあらゆる生命の系統から逸脱した存在――即ち、地球外生命体であることが証明された。




 サミットの準備が一段落したところで、俺は熱いコーヒーを喉に流し込みながら、これまでの「Acu-SHE」患者の検体の調査・解析結果をチェックする。


 今までずっと引っかかっていた〝違和感〟。

 ――それが何なのかを確かめるために。


 俺はこれまでの実験結果から、検体の部位ごとに「GRIM」が検出された回数などのデータを表計算ソフトに整理していった。


 8割方の作業を終えたところで、〝違和感〟の正体がくっきりと浮かび上がってきた。


「脳付近の検体から『GRIM』が検出された回数は、たったの1回だけだと……?」


 その数値は、肺や肝臓など人体の他の臓器と比べて極端に少なかった。

 脳関係の検体の分析を最優先にしている――にも関わらず。


「なぜだ……」


 納得が行かない。


 「Acu-SHE」で亡くなった患者は、いずれも脳に多大な損傷を負っていた。

 初めは脳炎だと疑われたほどだ。

 それに、荻野医師が発見したサイトカインストーム。その発生源も脳だとされていた。


「『GRIM』が脳に侵入しているんじゃないのか……?」


 血液脳関門を突破した「GRIM」による激烈なサイトカインストームの発生――それが、現在AQUAチームで主流となっている考えだった。

 しかし、こうまで「GRIM」が見つからないとなると、その考えが間違っている可能性が浮上してくる。


 あるいは――


「――脳に侵入した後で消えた、か……?」


 俺は頭を左右に振って、思い浮かんだ考えを明後日の方へ追い払った。

 さすがにオカルト染みている。

 一度、思考をリセットした方がいいだろう。


 俺はひと通りの集計作業を終えたところで、席を立って研究施設の方に足を運ぶことにした。

 考えの整理も兼ねて、5日前に瑞篠山(みずしのやま)で確保した生体サンプルの様子を見るためだ。




 瑞篠山で捕獲した生物サンプルの多くは、群山(むらやま)庁舎の方に送られた。

 ここ新宿庁舎に現存するサンプルは、ごく一部だ。

 しかも、野鳥やトカゲは一昨日までに「Acu-SHE」によって全滅したので、残っているのは数匹のイワナだけだった。


『……ヤツらが、血中のヘモグロビンをエネルギー源としているのだとしたら――』


 脳内で、数日前の宇梶との会話を思い出す。


『――ほぼ全ての脊椎動物が「Acu-SHE」に罹るはずだ』


 その宇梶の推論には、何ら不自然なところはなかった。


 今はまだ発症していない魚類。そしてカエルなどの両生類。

 それらは単に生きながらえているだけで、既に「Acu-SHE」が潜伏していると考えてもおかしくはない。

 だから、こうしてBSL-3施設に隔離しているのだ。


 ……だが、なぜ種によって末期症状に至るまでの期間がこれほどまで異なる?

 ヒトだけがわずかな時間で死に至る。

 これではまるで――――


 そのとき、俺はふと天啓のような気づきを得た。


「…………まさか、知性か?」


 知性――あるいは、脳構造の複雑さと言い換えることもできるだろうか。

 ヒトのそれと魚との間には、非常に大きな隔たりがある。

 同じ哺乳類でも、もちろんヒトはトップクラスの知能を持つ。


「知性に反比例して、潜伏期間――いや、前駆期間が延びる……?」


 そう考えると納得が行く気がした。哺乳類の中でも、知能の高いクジラやイルカが早期に数多くの集団座礁を引き起こしている事実とも整合する。

 ……もちろん、罹患者の知能がどのように「Acu-SHE」に作用しているかまではわからないが。


 BSL-3施設の前室にたどり着いた俺は、急いで防護服を身に着ける。それから、イワナを飼育している水槽へ早足で歩いた。


 ……もしもこの仮定が正しければ、魚が「Acu-SHE」の発作を起こすのも時間の問題だ。

 爬虫類と、両生類や魚類の脳構造の複雑さには、大した差はなかったはず。


「――――」


 水槽の手前までたどり着いた俺は、そこで目を見開き、両手をだらんと真下に下ろした。


 水槽内にいた4匹のイワナ。

 昨日まで健康そうに見えたそれらが、腹を天井に向けてプカプカと水面に浮かんでいた。

 新雪のように白かったその腹には赤々と紫斑が走り、眼球も赤く濁って膨れ上がっていた。


 フラフラと水槽に近づいて目を()らすが、どこをどう見ても現実は変わらない。


 ……あぁ、……終わりの始まりだ……


 俺の脳裏には、次のような光景が浮かび上がっていた。



 ――(おびただ)しい数の魚の死骸が大群を成し、この星の海を埋め尽くしていく……



 そして、この残酷な光景が現実となる未来は、もう目前だ。


お読みいただきありがとうございます。

3章の主要パートはこれで終わりです。レポートと登場人物紹介を挟んで次章へ進みます。


脅威「GRIM」の正体が徐々に明らかになる一方で、それは日本列島に根を張り、そして海外にも広がりつつあります。

しかし人類も、わずかな日数でサミットの開催に至り、世界は団結の様相を見せました。


これからの「GRIM」と人類の戦いにご注目ください。


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