5. 海際の悲劇
茨城県大岸市。
那実川下流の北側を占めるこの市には、県内最大の海水浴場である大岸ビーチがある。
今日もビーチは開放されており、朝から続く那実川流域における怪死事件の影響は見られなかった。少なくとも、これから描かれる3名の高校生にとっては、それはまだ対岸の火事でしかなかった。のだが――
†
「――お腹痛い……」
大岸ビーチの一角にて。
1人の女子高生が、パラソルの下でレジャーシートの上に腰を下ろしていた。
井ノ瀬眞弓。地元、大岸高校に通う高校1年生だ。
じっとりとした彼女の目線の先には、水着姿でビーチバレーもどきに興じる2人の男女の姿があった。
「……萩原君。もう、何やってるのよ〜」
「……ごめーん。あれぇ? なんでだろ……」
眞弓の耳に、海風に乗って楽しげな2人の声が聴こえて来た。
萩原健流と小木野恭子。共に大岸高校の1年生で、眞弓のクラスメートだ。
先ほどから健流は、彼らしくないミスを連発していた。
眞弓は2人のやりとりに興味がないフリをしながら、家から持ってきた文庫本の続きに目を通し始めた。
この日も猛暑だったが、眞弓の座る場所は日陰で風もあり、辛うじて不快ではないレベルだった。
(やっぱり、来なきゃ良かったかな……)
文庫本の内容は、さっきから全く頭に入っていなかった。
眞弓の視線はこの間、ずっと同じ見開き2ページの文字列を追いかけ続けている。
『――今日の午後、小木野さんと大岸ビーチに行くことになったんだけど、眞弓もどう?』
チャットアプリで健流から連絡が来たのは、今朝のことだった。
生理2日目の眞弓は本来、家で大人しくしているつもりだった。
『――行く』
が、そう返事をせざるを得なかった。
なぜなら――
(……私が行かなかったら、2人っきりってことじゃない!)
その事実に気づいてしまったからだ。
眞弓と健流は小学校からの腐れ縁。いわゆる幼馴染というやつだ。
眞弓にとって健流は長らく恋愛対象外だったが、中学3年時に健流の身長が急に伸びてから、見る目が変わった。
(ずっと、生意気な弟みたいに思ってたのに……)
眞弓自身も思春期を迎え、それまでのように気安く接することが難しくなっていた。
「――体調、どう?」
ふと気づけば、眞弓の隣で砂の上に健流が腰を下ろしていた。
水泳部の彼はこんがりと日焼けしており、すらっとした筋肉質の体をさらしている。今朝もこの海でひと泳ぎしていたらしい。
「……駄目かも」
眞弓はちらっと健流の上半身の筋肉を流し見してから、目線を正面に戻した。
「無理しなくて良かったのに」
「……別に、気にしなくていいよ。今日は海辺で読書な気分だっただけだから」
「はあ」
――こいつはわかってやっているのか。と、眞弓は思う。
(恭子と約束しておいて、私にも声を掛けるなんて……)
どちらにも気を持たせているのか、はたまた何も考えてないのか。
幼馴染とは言っても、健流の思考を読み解くことは眞弓には難しかった。
……とはいえ、露骨にそれを聞くような真似もできない。
(私だけが意識してたら、赤っ恥じゃない!)
――そんな風に思い悩む眞弓は、健流が気づかれないようにちらちらと眞弓の姿を盗み見ていることに気づかない。
眞弓は今日、フリルのついたビキニのトップにホットパンツを合わせていた。生理で水着を着られない彼女なりの「攻め」であり、それはしっかりと効果を発揮していた。……眞弓自身に、それに気づく余裕がないだけで。
「恭子はどうしたの?」
「あー……何か買って来るって。海の家の方に行ったよ」
「そっか」
恭子は、眞弓や健流とは別の中学出身で、高校で初めて知り合った。
明るく朗らかで、目鼻立ちのはっきりした美人だ――と、眞弓は思っていた。
(健流もああいう子が好みなのかな)
健流と恭子は、知り合ってからのこの4か月間でかなり仲良くなっていた。
眞弓は恭子を悪く思ってはいないが、何を考えているのかわからないところはあった。
「今度また、2人でここに来ない?」
それは不意打ちだった。
眞弓の呼吸が止まった。
眞弓は目を丸くして、その言葉の主――健流を見る。顔を背けて海を見る彼の左耳は、赤く染まっていた。
眞弓はふっと笑って、健流の肩を小突いた。
「……って! 何すんだよ」
「ププッ! また今度ね!」
「お、おう……」
気恥ずかしそうに視線を泳がせる健流に対し、眞弓はドキドキと鳴る心臓の音を意識しないように、再びすまし顔で文庫本に視線を戻した。……が、やはり内容は全く頭に入らず。気づけば眞弓は、ページの中に隠れた、恋愛を感じさせる語句を探すゲームを始めていた。
「俺、もう1回泳いで来るよ」
「行ってらっしゃい」
そう言って、眞弓は笑顔で健流を送り出した。
すると、歩きだした健流の上体がふらりと流れて、そのまま砂浜に倒れ込んだ。
「健流!?」
眞弓は血相を変え、文庫本から手を放して立ち上がる。
「……やべえ、頭痛え」
健流は再び上体を起こしかけたが、痛みに耐えかねるようにして再び砂浜に寝転がった。
眞弓はすぐさま健流のそばへ駆け寄り、その肩に触れる。
(すごい熱……!)
「いでえっ、いでえよ……!」
健流は頭を両手で抑え、ごろごろと砂の上を転がった。血の涙を浮かべ、鼻から血を滴らさせていた。
尋常な事態ではない。眞弓の顔色は蒼白になった。
「誰かっ!! 助けてっ!!」
眞弓は周囲を見回し、あらん限りの声を張って叫んだ。
ちょうど彼女の声の先に、ビーチの監視員の男がいた。叫び声を聞いた彼は、眞弓たちの方を振り向いた。
――良かった。気づいてくれた。
眞弓が安心できたのは、ほんの一瞬のことだった。
「……ひっ」
苦しみもがく健流を見下ろした眞弓は、喉の奥で小さな悲鳴を押し殺した。
ポツポツ、と赤い斑点が健流の体中に浮かび上がっていた。それを目にした眞弓は、背筋が凍るような不吉さを感じた。
同時に、眞弓の鼻をツンと刺激する臭いがあった。
(――血のにおいだ)
直後、健流はどろっとした血の塊を口から吐き出した。
ざわざわと周囲で様子を見守っていた人々が、それを見て一斉に騒然となった。
(なんなの、これっ!?)
「健流! しっかりして! 健流ッ!!」
眞弓は泣きそうになった。健流が少しでも楽な姿勢になれるように寝かせ、自分の背中で健流を日光から遮るような姿勢をとった。
――もし、彼女がもっと注意深くニュースを聞いていたら、那実川で発生した奇病とこの症状を結びつけることができたかもしれない。
赤い斑点は地面に降る雨のように健流の全身を覆い尽くし、あちこちで寄り集まっては、四方八方に広がる斑模様の染みとなった。
何かが健流を侵食している。あるいは、それは人を蝕む呪いのようだった。
「……死にだぐない……」
健流はくぐもった小さな声を漏らした。
その彼の最期の言葉を聴いたのは、すぐ傍にいた眞弓だけだった。
「健流……?」
このときの眞弓には、「死」というものを実感することができなかった。つい少し前まで、ふつうに会話していたのだ。やっと気持ちが通じ合ったような気さえしていた。それなのに――
眞弓の眼下には、変わり果てた幼馴染の姿が映っていた。
誰かが呼んだ救急車の音が、海辺に近づいていた。
悲劇は、続く。