12. 星火燎原
――時を遡ること2日前。
7月η日、木曜日の朝。
日米が緊急の共同声明により、G7+オンラインサミットの開催を発表するよりも前の話である。
韓国の首都ソウル、その大統領府にて。
鄭本赫大統領がこの日の執務を開始した直後、秘書室長が内線で連絡をして来た。
『日本の首相から、ホットラインの入電です』
「汐崎総理から?」
鄭本赫の思考に緊張が混じった。
日本といえば、3日前――δ日から不可解な災禍に見舞われている最中だ。昨日から東北地方の太平洋側で起こっている鯨類の大量死亡座礁についても、鄭本赫は把握していた。
――そんな〝大火事〟の最中に隣国へホットラインで連絡して来るとは、ただ事ではない。
そこまで思考した上で、鄭本赫は汐崎からの電話に応答した。
『おはようございます、鄭大統領』
汐崎総理は通訳を介すことなく、流暢な英語で語りかけてきた。
それを聞いて、鄭本赫も脳裏で会話を英語モードに切り替える。
「――総理。大変な災害が起こっているそうですね。我が国に何かできることはありますかな?」
鄭本赫は1つ会話を先回りして、軽い提案を投げてみた。恩を売れるチャンスかもしれないと考えたのだ。
しかし、汐崎の用件は支援の要請ではなかった。
『大変ありがたい申し出です。――が、その前に現在、我が国を襲っている災害の詳細について、説明をさせていただきたい』
その言葉に続く汐崎の説明は、鄭本赫にとって未知の衝撃の連続だった。
9割以上の致死率を持つ死病「Acu-SHE」には、未だ有効な治療法が見つかっていないという。
更に、昨日から発生している鯨類の死因も「Acu-SHE」と目されているとのことだ。
つまり、この病は感染症であり、それが海を通じて拡大を続けているということだ。
鄭本赫の脳内で最悪の予想が展開されるまで、時間は掛からなかった。
「……我が国にもそれが近づいて来ていると……?」
――どうか、この予想が外れてくれ。
鄭本赫の祈りは、続く汐崎の答えによって断ち切られた。
『ご賢察の通りです』
鄭本赫は理解した。
――対岸の火事は、もう目の前まで迫っていると。
日本の科学者が予測した、韓国南岸一帯への大量の鯨類の漂着。
汐崎の用件の1つは、その警告だった。
そして、もう1つ。
『4日後に開催を予定しているG7+オンラインサミットに、貴国もご参加いただきたい』
†††
その日から瞬く間に3日間が過ぎ、7月κ日を迎えた。
鄭本赫大統領は、早朝から大統領府地下の危機管理センターで待機していた。
「――釜山南沖、漂流するイルカの死骸有り!」
「――巨済島南東にも現れました! 列をなして島に向かっています!」
オペレーターの切迫した報告の声に、居並ぶ閣僚らがどよめきの声を発した。その中には、今この瞬間まで災害の到来に半信半疑だった者もいた。
「遂に来たか……」
〝火事〟の火の手は、今まさにこちら側に燃え移った。
鄭本赫は再度、認識を改めた。
「海岸を封鎖しろ。地元の猟師がいたら陸に戻せ。現場の対応者には、化学防護服か個人防護具の着用を徹底させるんだ」
鄭本赫は、日本から共有を受けた「Acu-SHE」への対応プロトコルに沿って指示を発した。
その中には、漁業制限や海産物の出荷制限も含まれていた。
(……明日には、もっと多くの鯨類が漂着するという予測が出ている。そして、それさえもこの「Acu-SHE」との戦いにおける前哨戦に過ぎない――)
サミットを目前にして、鄭本赫の胸中に悲壮な覚悟が芽生えつつあった。
――こうして、死神は朝鮮半島の南側でその牙を剥いた。
本件は、日本で始まった「GRIM」関連被害に連なる、初の大規模国際被害として記録されることになる。
――海洋汚染のアリューシャン列島到達まで、あと3日。
――中国沿岸での大規模アウトブレイクまで、あと6日。




