9. 叡智の輪
7月θ日、金曜日の午後一番の出来事だ。
俺――比護徹心は、感染研の新宿庁舎に出勤していた。
このとき、俺はオフィスの自席から1本の電話を掛けていた。
『――お電話代わりました。荻野です』
「感染研の比護です。その節は本当にありがとうございました」
『いえ……』
電話の相手は、医師の荻野博美先生だ。彼女は茨城大学病院に勤める集中治療医であり、初めて「Acu-SHE」の「死の発作」の原理を解明した人物だ。
「今回お電話したのは、先生に折り入ってお願いがあってのことです」
『お願い、ですか……?』
俺は受話器を耳に当てたまま、軽く頷いた。
「はい。先生が解き明かした『Acu-SHE』の末期症状――急激なサイトカインストームから患者の死亡に至るまでの一連のメカニズムについて、是非とも研究論文を認めていただきたいのです」
この依頼は、政府直轄のAQUAチームとしての正式な要請だ。
この日の朝にJAMSTECの魚渕研究員の提案から始まった、一連の災害対応に伴う科学的発見の公開ミッション。
それを進める上で、この時点までで最大の功績とも言える彼女の発見は絶対に外せない――俺はそう考えていた。
そして荻野博美という医師は、今回も俺の想像を軽々と上回って来た。
『――あの、実はもう論文は書いたんです。そちらにメールか何かでお送りすればよいでしょうか?』
「本当ですか!?」
俺は思わず腰を浮かせて大声を上げてしまった。そのせいで、やや周囲の職員の注目を集めてしまった気がする。
『はい。救えなかった患者さんの命を無駄にはできませんから……』
「――――」
どうやら荻野先生は、目の回るような忙しい勤務時間の隙間を縫って、「Acu-SHE」の臨床研究論文をまとめ上げていたそうだ。
俺は、彼女のどこまでも真摯な言葉と行動に、深い敬意と感謝を示した。
††
『なあ、比護先生よ。いったい、いつになったら俺らの論文はチェックに回せるんだ?』
『申し訳ないが、もう少し待ってほしい。いま前田に原稿の最終確認を頼んでいるところだ』
『仕方ねえなあ……』
同日の夜8時ごろ。俺はまだ新宿庁舎のオフィスにいた。
上のやりとりは、AQUAチームのチャット上で魚渕の苦言に応対したものだ。
荻野医師による症例集積研究の論文は、榊室長のチェックをパスした。形式上、政府による最終レビュー待ちとなっているが、指摘を受けることはまずないだろう。
99.9%という「Acu-SHE」の絶望的な致死率については、室長の判断でややボカすことにした。論文上では「非常に高い致死率」という表現になっている。
他の公開予定の論文の内、特に重要なものの1つが「GRIM」と名づけられた新種の未知微小物体の性質を記すものだ。
AQUAチーム内の議論を通じて、この論文には魚渕研究員の発見だけでなく、俺たち感染研の研究員らの手によって明かされた事実も含めることになった。
共著者には俺と魚渕の他、俺の部下である前田や小嶋の名が並ぶ予定だ。
前田には再び重要な作業を頼んでいるため、論文の執筆は主に俺が行い、彼には作業の合間に逐次原稿の確認をしてもらっていた。
結局、この論文が仕上がったのは夜10時前のことだ。
俺は榊室長にチャット上でレビューの依頼を上げた後、オフィスから退出した。
††
翌日――7月ι日。
この日の午前中いっぱいで、主要な3つの論文の公開準備が整った。
3つ目の論文は、主としてJAMSTECの六津豊理事が執筆した「虚潮」現象のメカニズムに関する論文だ。
『情報統制チームから許可が得られました。それぞれ論文の公開を進めてください』
榊室長の号令を合図に、俺は担当する2本の論文の公開作業を行う。
このミッションでは世界にいち早く危機を訴えるため、速報性が最も重視される。学会誌などへの掲載は、当初から二の次とされていた。
そこで公開先の媒体として選ばれたのが、インターネットを通して世界中で閲覧が可能なプレプリントサーバーだ。
学術分野にもよるが、近年では論文をまずプレプリントサーバー上で公開してから学会誌等への掲載を行うことも珍しくなくなっている。
プレプリントサーバーは1種類ではなく、大まかな科学の分野ごとにいくつかの種類が存在する。
俺たちはそれぞれ最も適切と考えられるプレプリントサーバーを選び、論文のデータをアップロードした。
†††
アメリカ、カリフォルニア州パサデナ市。
7月θ日の夜、宇宙生物学者のルイズ・シーカーは自宅でデスクに向かって作業をしていた。
最近、彼女は政府直轄の科学系のタスクフォースの一員に選ばれ、忙しい日々を過ごしていた。そのタスクフォースとは、近い将来にアメリカを襲うと考えられている脅威への対抗組織であり、日本政府内におけるAQUAチームに相当するものだ。
――ピコン、とPC画面の片隅にポップアップが表示される。
ルイズが登録している生物学系のプレプリントサーバーに、新しい論文が投稿されたことを示す通知だった。
「――来たわね」
いつもなら即応するような通知ではないが、このときのルイズは素早くポップアップをクリックした。
『――間もなく、AQUAチームから論文が世界中に公開される。それらに目を通してほしい』
日本の友人である宇梶慧から、事前にそう伝えられていたからだ。
慧はルイズに、論文の公開先であるプレプリントサーバーの種類まで伝えていた。
医学系、生物学系、海洋学系――ルイズは専門外の分野も含む3種の異質な論文の情報を、日本国外で誰よりも早く手に入れることができた。
以下が、その3つの論文の題名である。
『致死性感染症「Acu-SHE」の症例集積報告:脳を震源とするサイトカインストームの臨床的特徴』
『新種の微生物様体「GRIM」の多形態性と血液成分中での爆発的増殖の観察』
『海洋上での植物プランクトンの沈降現象とその発生原理について』
――まずは、ざっと概要を理解するに留めておこう。
最初はそう考えていたルイズだが、気づけば深夜に至るまで、論文の内容を食い入るように読み込んでいた。
†††
ドイツ、ブレーメン。
マックス・ヴィルヘルム海洋微生物学研究所(MWI-MM)。
7月ι日の早朝。MWI-MMの若手研究員であるエーリッヒ・クリューガーは、大きな欠伸をしながらオフィスの自席に戻っていた。
昨夜、エーリッヒはある実験のために研究所に泊まり込んでいたのだ。
電灯が消えたオフィスの暗がりを歩いていたエーリッヒは、自分のデスクまで来たところでギョッとして立ち止まった。
奥のデスクでPCモニターの明かりが煌々と輝き、ある男の顔を照らし出していた。
「――ハ、ハウゼン先生……。どうしたんですか、こんな朝早くから……?」
ロベルト・ハウゼン。
ここMWI-MMの所長にして、ブレーメン大学で教授職を兼任する古細菌研究の世界的先駆者だ。
エーリッヒにとっては、大学時代から今に至るまでその背中を追う「人生の師」と言うべき人物だ。
「……日本で大変なことが起こっている」
ハウゼンは視線をモニターに向けたまま、端的に応えた。
エーリッヒは、はてと首を傾げる。
日本といえば、海洋で観測されたという異常現象について一昨日アメリカと共同声明を発していた。また、ここ数日以内に原因不明の奇病で1万人以上の死者を出していた……と、エーリッヒは記憶していた。
しかし、ハウゼンがこういった世間的な出来事に関心を持つことは珍しい。エーリッヒが知る限り、ハウゼンの興味は常に学術的な探究のみに向けられていたからだ。
エーリッヒが不思議に思っていると、オフィス内でアイドル状態になっていた複合機が動き出し、何かを印刷し始めた。
ハウゼンがPCからプリンターを操作したのだろう。
「僕が取って来ましょうか」
「頼む」
エーリッヒが見守る前で、複合機はみっちりと印字されたA4の用紙を次々と排紙トレイ上に吐き出す。
どうやら何かの論文らしい。
エーリッヒは印刷されたヘッダーやフッターの情報から、それが生物学系のプレプリントサーバーにアップされたものだと気づいた。――それは、日本でAQUAチームの比護が公開した論文の1つだった。
ふと、その内の1枚がエーリッヒの目に止まった。
エーリッヒは思わず、それを抜き出して手に取った。
「なんだ、これは……」
そのページには、本文に大きく割り込む形で画像がプリントされていた。電子顕微鏡で撮影されたと思われる写真だ。
金属結晶のような、無機質な真球状の物体がそこに映っていた。
エーリッヒは目を凝らしてその表面を観察し、ぞくりとした。
複雑で精巧な幾何学模様が刻まれているが、いくら見返してもそこに規則性や法則らしきものを見出だせない。エーリッヒはそれを見続ける内に、根源的な恐怖に襲われた。
「――素晴らしい……」
そのとき、PC画面で論文を読みふけるハウゼンが感嘆の声を上げた。
振り向いたエーリッヒの表情が凍りつく。――師の顔に浮かぶ微笑みには、まるで狂気が入り混じっているかのようだった。




