幕間 忘れられた論文
――アメリカ、カリフォルニア州パサデナ市。
7月〓日、日曜日の夜。
宇宙科学研究者のルイズ・シーカーは、自宅で静かなひと時を過ごしていた。
(――本当に不思議……このスペクトル分布は、いったい何を表しているのかしら?)
彼女はこの日、日本の関東地方で観測された火球のデータに夢中になっていた。慧が観測し、栃木上空で閃光爆発を起こしたあの火球だ。
ルイズの夫と一人息子は今日、父子水入らずでキャンプに出掛けている。帰りは明日の日中だ。よってルイズは一日中、自由に過ごすことができた。
ルイズは自室でピザを頬張りながら、デスクトップのPCを操作していた。ふだん夫や息子の前では良き妻、良き母として振る舞っているのだが、今夜は特別だった。
――今は、この未知を解き明かすことに集中したい。
それが、彼女の言い分だった。
ピコン、と大型ディスプレイの片隅にポップアップが表示されたのはそんなときだった。
ビデオ会議アプリの招待通知だった。
招待者の名は、「UKAJI Kei」――慧だ。
「ワオ!」
ルイズは思わず声を上げた。
彼女が金曜に送った「ビデオ会議をしないか?」というメールを見てくれたのだろう。日本はいま、月曜の午前中か――。
すぐに招待に応じようとして、ルイズはふと動きを止める。
「……私、この格好で出て大丈夫かしら?」
彼女は今、すっぴん、タンクトップ、お団子ヘアという出で立ちだった。おまけに、口元にはピザソースが付いている。
(でも今日は休日だし、ケイは友人で妻帯者……うん、何も問題はないわね)
ためらいは一瞬だった。
カメラをオフにするなどという選択肢はない。
せっかく友人と顔を合わせるチャンスなのだ。フェイス・トゥ・フェイスはコミュニケーションの基本だ。
それでもルイズは大人として、ピザソースをきちんとティッシュで拭い取ってから通話ボタンをクリックした。
「ハーイ、ケイ。久しぶりね」
『ああ、すまないね。そっちは休日だろう? ジャスティンとアレックスは元気かい?』
画面に大きく映し出された慧は、流暢な英語でルイズに語りかけてきた。
「ダディとハニーはキャンプよ。だから、私は自由の身ってわけ」
『それは心が踊るね』
気さくな会話はそこまでだった。
ルイズは慧の微妙な表情の変化やその振る舞いから、常にはない緊張感を感じ取っていた。
「――何かあったの?」
ルイズが訊ねると、慧はそれまでの取り繕った態度を脱ぎ捨て、硬い表情でカメラを真正面から見据えた。思わず、ルイズも居住まいを正す。
『1つの思考実験だと思って聞いてほしいのだけど、――』
そう前置きした上で、慧は大学で講義をするようにゆっくりと丁寧に語りだした。
その内容は、ルイズの心胆を寒からしめるものだった。
――もし宇宙からやって来た有害物質を含む隕石が、大気圏で燃え尽きずに地球に侵入してきたら――
「Back Contamination……」
無意識の内に、ルイズの口からそのキーワードが飛び出していた。
慧はそれを聞いて、ますます表情を曇らせた。
日本語で「逆汚染」を意味するその言葉は、宇宙探査に関わる者であれば誰でも知っているリスクを指す用語だ。
即ち、地球外からもたらされた生物や物質が、人類を含む地球の生態系に悪影響を及ぼす現象を意味する。
「ケイ、あなたならわかってると思うけど、その場合の脅威は計り知れないわ。この問題について、NASAはJAXAよりもよっぽど神経を尖らせてる。将来、火星から未知の危険を持ち帰らないためにね」
『…………』
ひどい思考実験だ。
まるで、性質の悪いSF映画のような。
でも、大丈夫。ここは映画の中じゃない。現実だ。
実際にはそんなこと、起こるわけがない。
「どうしたの、ケイ? あなたらしくないわ。こんな突飛な話をするなんて」
『それは、有害物質を含む隕石が落ちて来るわけがないってことかい?』
「そりゃあ、未来永劫起こらないとは言い切れないけど……。少なくとも、これまで地表に到達した隕石が地球環境を汚染した事実はないわ」
ルイズが断言すると、慧は一瞬ためらうような仕草を見せた後、更に次の仮定を付け加えた。
『例えば、隕石が硬い外殻に覆われた2層構造になっていたとしたらどうだい?』
「それって――」
ルイズはその仮定から、かつて読んだある論文の内容を想起した。
「15年ぐらい前にも、そんな想像をした科学者がいたわ。論文が『ICARUS』に載ったの。あまりにSFじみていたから、誰も相手にしなかったけど」
ルイズがその情報を発したところ、画面の向こう側で慧が身を乗り出していた。
『――その論文! それの情報を教えてくれ、ルイズ! 今すぐに!』
「は、ハイ! ちょっと待ってね。えーと、確か……」
ルイズは慧の豹変ぶりに驚きつつ、ウェブブラウザで学術論文データベースにアクセスする。そして記憶を手繰り寄せながら、キーワードを打ち込んだ。
「あった……これね。『Earth Contamination by a Meteorite (隕石による地球環境汚染)』」
『ありがとう』
ルイズがビデオ会議のチャット機能で論文のURLを送ると、慧は食い入るような視線でそれに目を通し始めた。
「ねえ、ケイ。そんなSF論文のことなんかより、私はあの火球のことが気になっているのだけど。そちらで何かわかったことはある?」
『ああ……』
生返事を返した慧だったが、次の瞬間にはカメラに目線を合わせていた。その表情は真剣そのものだった。
『君にだけは話しておこう。あの火球は、この論文が語る危険性を示す最初の事例になる可能性がある』
「――え?」
慧のその台詞を聞いて、ルイズはまるで時間が止まったかのように感じた。
『これから忙しくなりそうだ。また連絡するよ』
そんなルイズの動揺を置き去りにして、慧はあっさりとビデオ通話を終えた。
ショックが抜け切れないルイズの脳内に、慧の言葉の意味が徐々に浸透していく。それが意味する危険性と共に。
「――冗談でしょう、ケイ……?」
ややあって、ルイズはぽつりと問いを発した。
室内は、しんと静まり返っていた。
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