8. プレアデス協定
7月θ日、金曜。午後2時ごろ。
首相官邸地下の危機管理センター、その中のある会議室にて。
重苦しい沈黙がその場を支配していた。
室内の大型スクリーンには、日本を中心とした横長の世界地図が表示されていた。
栃木県の東部にぽつんと浮かび上がった赤い点が、マーカーで線を引くように那実川の流れをなぞって太平洋に到達する。
その色合いは、「GRIM」による汚染の程度を表していた。
太平洋に達した赤色の汚染はやや薄く広がりつつも、黒潮の流れに沿うように急速に北上していく。
また陸上においても、汚染は生物ベクターの動きに呼応して東日本の広い範囲にまだら模様を作っていた。
シミュレーションの映像は続く。
火球の落下から20日が過ぎる頃には、日本国内で汚染されていない土地を探す方が難しい状態になっていた。
国内だけではない。
既にこの頃には、「GRIM」の汚染は北米や東南アジア、ユーラシア大陸にも広がっていた。更にジェット気流に乗った汚染が、ヨーロッパの一部にまで届いていた。
シミュレーションの世界で1か月半が経過した。
北半球の大陸は、壊滅的な状態になっていた。
最後まで汚染を免れていた地中海沿岸も赤く染まり、砂漠や高山などの不毛地帯を除いて、陸上にはおよそ安息の地と呼べる場所は見当たらなかった。
そして3か月が経つ頃には、南半球の陸地も全く同じ状態に陥っていた。
時間は加速する。
半年後――地球は、陸も海も真っ赤に染まり果てていた。それは一見して、死の星のようだった。
シミュレーションが停止してからしばらくの間、誰ひとり声を上げようとはしなかった。
『――以上が、宇梶先生による「全球汚染シミュレーション」の結果です』
ビデオ会議越しに画面を投影していた榊征士郎は、かすれかかった声音でそう締め括った。
その言葉が合図だったかのように、室内の中央の席に腰掛けた男――総理大臣の汐崎崇元がゆらりと頭をもたげた。
「……榊先生、これはあり得る中でも最悪のシナリオによる予想と考えて良いでしょうか……?」
汐崎のその問いは、まるで一縷の望みを求めるかのようだった。
しかし、榊は沈痛な面持ちで首を振る。
『いいえ、総理。これが最も起こり得る可能性の高いシナリオです』
榊が無情な事実を告げた直後、誰かの嘆きの声が室内に響き、別の誰かは顔面を両手で覆った。
『――決め手となったのは、地球の大気循環です』
榊はいま見せた「全球汚染シミュレーション」について、慧から聞き取った内容を元に汐崎や室内の閣僚らに説明を行う。
『これまで我々は、海流による汚染の拡大を中心に考えていました。これによって汚染が地球上に行き渡るには、数か月から年単位の時間が掛かるだろうと予想していたのです』
それがAQUAチーム――科学対策統括室による当初の見解だった。
しかし、ζ日に発見された「GRIM」の特徴や「Acu-SHE」の感染経路から、慧は気づいたのである。
――エアロゾル感染を起こすということは、上昇気流に乗った「GRIM」が大気中を高速に伝播していく可能性もある、ということに。
『……大気の循環は桁違いに高速です。海流が大陸間を移動するのに数週間から数か月を要するところ、ジェット気流はわずか数日で大陸間を横断します。例の微小物体――『GRIM』は、空の高速道路を得たのです』
これに加えて、生物ベクターの影響もある。
アホウドリの中には数日の採餌飛行で1,000km以上移動する種も存在する。マグロのような回遊魚も、1日で100km以上移動することがある。
そのほか多種多様な動物たちの複雑な動きによって、シミュレーション内の汚染は地球上を隈なく埋め尽くしていた。
そんな榊の説明を聞きながら、汐崎の隣の席にいた須山官房長官が汐崎に耳打ちする。
「……総理、もはや猶予はありません。やはり例の計画を――――」
「須山さん、その話はまた後で」
須山の話を遮った汐崎は、榊に次の行動を指示する。
「榊先生、このシミュレーションの情報をただちに『AEGIS』を通じてアメリカ政府に共有してください。須山さん、先生に協力を」
『AEGIS』――それは、日本とアメリカが先の緊急共同声明で発表した、情報戦略のための両国の合同タスクフォースのことだ。その日本側の代表者が、須山官房長官である。
会議は終わり、出席した閣僚らは再び慌ただしく動き始めた。
独り会議室に残った汐崎は、今夜催されるある重大な会合を想定して、しばらく黙考を続けた。
†††
ワシントンDC。ホワイトハウスの居住区にあたる本棟にて。
深夜2時。大統領のケネス・ハリソンは、『AEGIS』を通じてもたらされた緊急連絡によって叩き起こされていた。
日本の官邸危機管理センターで衝撃的な全球汚染シミュレーションの結果が明かされてから、約1時間後の出来事だった。
ガウンを羽織って応接室に出たケネスの前には、緊張した面持ちの国家安全保障担当補佐官が立っていた。
ケネスは、手渡されたタブレットの画面で再生されるシミュレーションの映像を無言で凝視していた。その映像は、1時間前に日本の官邸危機管理センターで流されたものと全く同じだ。
動画を観終わったケネスが問う。
「……悪い冗談だ。我々の機関による検証は済んでいるのか?」
「なにぶん深夜ですから、完全なクロスチェックには至っておりません。しかし、NASAやNOAA(アメリカ海洋大気庁)の担当官によれば、『一定の妥当性はある』とのことです」
そう聞いて、ケネスの口から舌打ちが漏れる。
「タカモトめ……。今日の会合に爆弾を持ち込むつもりか」
ケネスは数秒考えた後、補佐官に指示を出す。
「日本側にシミュレーションの基礎となった全てのデータを要求してくれ。会合までに、我が国の科学者チームによるクロスチェックを済ませられるように動いてほしい」
ケネスの指示はそれだけに留まらなかった。
「それと、早朝ブリーフィングの手配をしてほしい。メンバーは私、ワイズマン博士、国務長官、国防長官、……。このシミュレーション結果を前提に、会合での我が国のスタンスについて話し合いたい」
「イエス、サー」
補佐官が退室した後も、ケネスが再び眠りに就くことはなかった。
ケネスは窓の外に広がるワシントンの夜景を眺めながら、数時間後に迫る会合やその後の地球の未来について思いを馳せた。
†††
日本時間で、夜の10時になる頃。
最高レベルのセキュリティで保護されたオンライン会議空間に、日米を含む7か国の指導者たちが集結していた。
日米以外の参加国はイギリス、ドイツ、フランス、カナダ、オーストラリアの5か国。いずれもG7、またはファイブ・アイズに属する枢軸国家だ。
この会合は記録には残らない、非公式のものである。
7か国は、水面下で『プレアデス協定』という秘密同盟を結んだ。
これまで主に日本で発見され、日米間で共有されてきた「GRIM」や「Acu-SHE」に関する非公式情報の数々。その情報の共有範囲を広げ、世界の危機に備えるための秘密同盟である。
会議の前半、汐崎総理は日中に榊から示された全球汚染シミュレーションの映像を共有し、説明を行った。
――それは正しく、世界を震撼させる爆弾だった。
今後の半年間で地球がたどる絶望の未来をまざまざと見せつけられ、各国の指導者らの表情が蒼白となった。
『……とても信じられん。あまりに悲観的な予想ではないか?』
ドイツの首相が疑問の声を上げた。しかし、ケネス米大統領が「我々の科学チームでも同じ結論が出た。日本のシミュレーションは極めて精度が高い未来予測だ」と述べたことで、再び沈黙した。
葬式のような重々しい沈黙が続く中、ケネスはあえて力強い声で言う。
『諸君、おわかりいただけただろうか』
その声に、各国のリーダー達がばらばらと顔を上げる。
『我々の戦いは、この脅威にいかに立ち向かうかではない。ましてや、いかに勝利するかでもない。――いかに生き残るのかの戦いなのだと』
その言葉には、悲壮な覚悟が込められていた。
これまでの文明社会は終わりを告げ、壮絶なサバイバルが幕を開ける――。
人類史のゲームが変わったことを、この場の7名が理解した。いや、理解させられた。
『そのためにも、まずは目前に迫ったサミット。ここで妙な横槍を許すことなく、世界が一致団結する必要がある』




