7. 光と影(上)
陽菜を失った日の翌日からその2日後までの3日間、僕は帝都大学の研究室に籠もり、研究に没頭した。
その間の未咲の扱いについては、申し訳ないと思いつつ星江さんにお願いして、2晩ほど彼女のアパートで世話をしてもらった。
その甲斐あって、僕たちは〝X〟の正体と、それがもたらす未来に関する3つの成果を得ることができた。
また7月θ日には、AQUAチームの中で〝X〟の正式名称も決まった。
「GRIM(=Global Replicating Invasive Microbe、全球増殖性侵略的微生物)」というのがその名前だ。
ちなみに、この名称は僕が発案したものだ。
これから、この3日間で得られた3つの成果について、時系列に沿って流れを追いながら詳細を語ろう。
なお、以降の文では例の微小物体を指して、原則として〝X〟ではなく「GRIM」と称する。
†††
1日目――7月η日木曜。
朝9時前。僕は今後の実験のために、研究室がある宇宙工学研究棟から1本の電話を掛けていた。
「比護、頼む。例の微小物体の危険性は十二分に理解しているつもりだ。でも、BSL-2相当の施設でも感染リスクが低いことは、これまでの調査のプロセスで示されたと言えるんじゃないか?」
『それで試料をBSL-2で扱わせてくれってか? ……魚渕め、厄介な前例を作りやがって』
比護は聞こえよがしに毒づいた。
このときの僕は知らなかったのだが、BSL-2での実験については魚渕先生という前例があったらしい。
「頼むよ。学内のBSL-3施設ではすぐにはできない実験もあるんだ。その準備と調整の手間が惜しい」
僕が重ねて懇願すると、比護は深々と溜め息を吐いた。
『……わかった。実験計画をメールかチャットで送ってくれ。特例として承認する。くれぐれも安全には配慮してくれ』
「ああ。恩に着るよ」
ここで僕は、比護に追加であることを頼んだ。
「それと、――――――――を送ってほしい」
『おいおい。お前なあ……』
それを聞いた比護が呆れたような声を上げたが、これについても僕には譲る気が全くなかった。
「手は多い方がいいだろう? 感染研では思いもよらないやり方で手がかりが掴める可能性もある」
『チッ……――ったく』
比護が忌々しげに舌打ちをした。
『手配はしてやる。ただし、絶対に事故は起こすなよ。あと今度何か奢れ』
「ああ。……そのときに貨幣の価値がなくなっていなければ、ね」
僕がちょっとした不吉な冗談を言うと、比護はすぐに言い直した。
『じゃあ、貸し1つだ』
「いいだろう」
†
比護との電話と前後して、前日ζ日に瑞篠山で採取した各種試料が厳重に密封された状態で研究棟に運ばれて来た。
「全部、生命科学実験室へ運ぼう。手伝ってくれ」
「わかりました」
僕らの宇宙工学研究棟内には、複数の研究室で共同利用できるBSL-2準拠の実験室がある。それが生命科学実験室だ。
その実験室内には、試料を保存するための大型の冷蔵・冷凍庫も備えつけられている。
僕は研究室の主な男性メンバーの協力を得て、全ての試料を実験室内に運び込んだ。
そして、いずれも適切にラベリングを行った上で冷蔵・冷凍庫内の施錠可能な区画に格納して管理することにした。
それは当然、誤って他者に使われないための措置だ。
どの試料にも「GRIM」が含まれる危険性がある。用心に越したことはない。
それから僕らは、一度研究室に戻った。実験に参加するメンバー達に、その長い前処理の工程を説明するためだ。
「今回は作業を全てBSL-2実験室内で行うので、やったことがある人もよく聞いておいてください」
「はーい!」
僕が前置きとして注意をすると、研究室メンバーの列に紛れ込んだ未咲が元気よく返事をした。
みんなの表情と共に空気がほぐれた。
ここで僕がやろうとしている実験とは、科学の世界ではポピュラーな〝質量分析法〟というものだ。
この手法によって、試料に含まれる物質の種類や量を原子・分子レベルで計測することができる。
「曽根さんには現場監督をお願いします。作業は安全第一で」
「了解です」
曽根さんは僕の3つ歳下の助教で、この研究室に所属している。
優秀な研究者なので、僕が推薦して星江さんと共にAQUAチームのメンバーに入ってもらった。……が、あまり前に出て発言するタイプでないせいか、どうも影が薄いところがある。
「溝端君もサポートを頼めるかな? 君に手伝ってもらえると心強いのだけど」
「構いませんよ。……どう考えたって、こっちのが優先でしょうし」
続いて声を掛けたのは、博士課程1年目の大学院生、溝端彰宏君だ。
星江さんほどではないが、彼もまた優秀な学生の1人だ。
さて、ひと口に質量分析法といっても様々なやり方があるのだが、今回はその中でもICP-MS(誘導結合プラズマ質量分析法)を用いる。これは物質の元素組成を明らかにする上で有用な超高感度の分析手法だ。
分析対象の試料としては、前日に採取した那実川の源流水が最適だろう。
これに地球で見られないような元素組成が観察されれば、「GRIM」が地球外に由来する物体であることの間接的な証拠になると考えられる。
もちろん、「GRIM」そのものをピンポイントで抽出できれば、より確実な証拠が得られる。……が、残念ながらその手法はまだ確立されていない。
ICP-MSの前段階としての試料の準備には、最短でも5時間はかかる。
その工程の詳細については割愛するが、この作業を曽根さん率いる研究室の精鋭チームにやってもらうことにした。
ではその間、僕は何をするか。
僕が手がけるのは、地球全体が「GRIM」で汚染され尽くすまでの精細なコンピューターシミュレーションの作成だ。
以降、これを「全球汚染シミュレーション」と称する。
ζ日に陽菜を襲った非情な教訓によって、「GRIM」が生物ベクターによって想定を越える速度で拡散していることがわかった。
おそらく海洋では、初期の海流による拡散の予想よりも、もっと広範囲に汚染が広がっていると考えられる。
……そして、人類にとってもっとひどい、悪夢としか呼べないような予想があった。
――それは、海から上昇気流に乗って上空に舞い上がった「GRIM」が、雨となって再び地上に降り注ぐ、というものだ。
†††
「じゃあ、未咲ちゃんは私のアパートでお預かりしますね」
「ああ、すまない」
「パパ、お仕事がんばってね!」
1日目の夜8時ごろ。
星江さんと未咲を宇宙工学研究棟の入口で見送った後、僕は再び研究室に戻った。
曽根さんチームの奮闘によって、ICP-MSによる水試料の計測自体は既に完了していた。
ただし、得られたデータを解釈可能な形に処理するまでにはかなりの時間がかかる。各種の補正や濃度の再計算、そして試料を含まないブランクフィルターを分解した溶液との差分計算などの処理が必要になるのだ。
ふつうは1日がかりの仕事になるが、試料が地球外に起源することを示すための物質的特徴の候補には当たりがついている。
そこで曽根さんには、その辺りを優先してデータの処理を進めてもらっていた。
その進行状況を横目に見ながら、僕は僕で全球汚染シミュレーションのためのプログラミング作業に没頭していた。
降雨の影響を考慮するため、海流だけでなく大気の流動による拡散プロセスをもモデルに組み込んだ。JAXAの既存のシミュレーションモデルを流用することができたので、これらを組み込むのは比較的容易だった。
課題となったのは、生物ベクターの影響を組み込むことだ。
僕は生物・生態学については素人だ。取り掛かった時点では雲を掴むような話だった。
幸いにして、AQUAチームに属する生態学者の協力を得ることができ、なんとか目処が立った。
アホウドリやマグロなど、主要な長距離移動生物群に重点を置きつつ、生物の個体を「GRIM」を内包するベクターと見なしたモデルを実装した。
夜8時ごろといえば、この数日間の実際の汚染の拡散状況との適合を見ながら小規模のシミュレーションを回し、モデルを調整している頃だったか……。
少し時が進んで、夜10時。
この時までには、曽根さん以外のメンバーには帰宅してもらった。
曽根さんには申し訳なかったが、僕が全球汚染シミュレーションの方にかかりきりになってしまったので、ICP-MSで得られたデータの解析を続ける人員がどうしても1人必要だった。
「この非常時ですから。気にしないでください」
曽根さんは笑顔でそう言ってくれた。
僕らは星江さんが買ってきてくれた夜食をつまみながら、それぞれの作業を続けた。
††
「……見つけた」
2日目――7月θ日金曜。
未明に曽根さんがデータ処理を終えたICP-MSの解析結果を確認した僕は、目当てにしていた証拠のデータを掴んだ。
クロムの同位体比が、明らかに地球上のそれと異なっていた。
それだけではない。
試料には、通常あり得ない濃度のイリジウムやオスミウムが含まれていたこともわかった。
いずれも、地球外からの隕石で見られるような物質的特徴だ。
これで、「GRIM」が地球外から来たという仮説の信憑性が増す。
僕は結果を簡単にまとめて、速報としてAQUAチームのチャットで共有した。
「ありがとう、曽根さん」
僕は、ソファでいびきをかいていた曽根さんにぺこりと頭を下げた。




