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5. 知を力に

 魚渕虎吾郎は物事をシンプルに考える。

 魚渕にとって、科学的発見とは学術論文の執筆・公開とセットであった。

 それは彼が尊敬する海洋学研究者の六津(むつ)豊が、かつて筆不精だった魚渕に口を酸っぱくして言い聞かせたことでもあった。


『いいかい、シャチ君。どんなに優れた発見も、世に出なければそれまでなんだ』


 従って、謎に包まれた新種の微小物体――〝X〟を世界で誰よりも早く発見した魚渕がこの発見について論文を書こうとするのは、彼にとってはごく当たり前の行いだった。


「あー、くそ。やっぱ〝X〟じゃ決まりが(わり)ぃな」


 魚渕はノートPCの前で悪態を吐いた。

 13インチのPCは、魚渕の体格に比してやけに小さく華奢(きゃしゃ)に見えた。


 日米共同会見の翌日、7月θ日金曜。

 この日、魚渕は早朝から横須賀のJAMSTEC(ジャムステック)本部を訪れていた。


虚潮(うつしお)のシミュレーションモデルが完成した』


 未明に届いた六津からの連絡に、居ても立っても居られなくなったのだ。

 2人はいま六津の理事室の中にいた。


「……あれ、シャチ君。きみ、ひょっとして論文でも書いてるのかい?」


 目の下に隈をつけた六津が、濃いコーヒーを片手にデスクから歩きがてら問いかけた。

 魚渕は当然のように頷く。


「はい。それが何か?」

「いや……。誰かに許可は取ったのかい?」

「特にまだ取っちゃいませんが」


 泰然とした魚渕の態度に、六津は目を剥いた。手に持ったコーヒーの水面が揺れて、危うくこぼれるところだった。


「まだどこにも出してないだろうね!?」


 六津の大声を聞いても、魚渕は変わらず平然としていた。


「そうですね。さすがに例のアレの名前が〝X〟のままじゃ格好がつきませんから。――六津さん、何かいい名前の案はありますかね?」

「ええ? そうだなあ……って、そうじゃない! 僕らが扱ってる情報は政府の機密になるって、ちゃんと説明したでしょう! 勝手に公開しちゃ駄目だよ!」

「あ」


 まくし立てるような六津の台詞(せりふ)を聞いて、魚渕はやっとその事実に思い至った。

 もし微小物体の名前が決まっていたとしたら、勝手にプレプリントを公開していたかもしれなかった。


「……そうすると、六津さんはあの虚潮(うつしお)のシミュレーションモデルを発表しないんですかい?」


 改めて魚渕が問い掛けると、六津はコーヒーをテーブルに置いて黙考した。


「もちろん勝手な真似はできないが……。それを提案してみるのはアリだね。日本だけで抱え込むべき問題じゃないのは確かだし」

「それじゃあ――」


 魚渕が確認の問いを投げるより早く、六津は頷く。


「うん。僕から(さかき)先生に提案してみよう。シャチ君、よく言ってくれた」


 魚渕は手を打って歓声を上げる。


「よっしゃ! じゃあ、俺はAQUAチームのみんなに〝X〟の名前を募集してみますぜ」

「そうだね。それはいい考えだと思う」




    †††




 時計の針はこの日の9時40分に進む。

 この時、AQUAチームのリーダーである(さかき)征士郎は首相官邸を訪れ、汐崎総理と面会していた。


「学術論文の公開、ですか……」

「はい。何名かのメンバーから『我々が知り得たことを世界に伝えたい』と要望が上がっています。私や宇梶君も同じ気持ちです」


 この2、3時間の間で、六津から提案を受けた榊はAQUAチームの主だったメンバーから意見を集めていた。


 汐崎は榊の提言を受けて、脇に控えていた人物に視線を移した。


「どう思います?」


 その人物とは、須山官房長官だ。

 須山は1つ頷いて答える。


「世界に危機を訴える有効な一手かと。もちろん、公開する内容は吟味する必要がありますが」


 汐崎も頷いてそれに同意を示す。


「サミットへの布石にもなる。――ですよね、榊先生?」


 榊も汐崎のその言葉に顎を引いた。

 2日前、この3者に橋詰外相を交えてサミットの開催について議論したことは、まだ記憶に新しい出来事だった。


「榊先生、あなた方が発見した事実から何を公開するか、まずはリーダーとしてあなた自身が監督してください。その後、須山さんの情報統制チームにチェックを受けてください。――全てお任せします」


 汐崎はその場で結論を出した。


(餅は餅屋だ。この先生に任せておけば、悪いことにはなるまい)


 榊はこれまでの遣り取りによって、たった数日で汐崎にそう思わせるだけの信頼を勝ち取っていた。


 こうして、科学的発見の情報公開についてはAQUAチームの裁量に委ねられた。


「総理、そろそろ……」


 須山が時計を見た。時刻は9時50分になろうとしていた。


「うん。では、先生も行きましょうか」

「はい」


 3人は揃って総理執務室を後にし、官邸内の記者会見室へ向かった。



    †



 多数の報道陣が詰め掛けた記者会見室は、異様な熱気に包まれていた。

 以降、会見の詳しい進行の模様については割愛し、要点のみに触れる。


 汐崎と榊は、この会見の中でいくつかの重要な発表を行った。

 主だった発表の内容は、下記の通りである。



①「Acu-SHE(アクーシェ)」の病原は、科学的な調査により新種の微小物質(仮称〝X〟)と判明した。これにより、噂されていた「ジオキソラン-F7」との関係を改めて否定した。


②ζ日から東北〜北海道の太平洋沿岸で見られている鯨類(げいるい)の死骸についても、死因が「Acu-SHE」とほぼ特定された。


③海産物の摂取によって「Acu-SHE」を発症する食中毒が起こっているが、陸上生物も〝X〟のキャリアやベクターとして振る舞うことがわかっている。茨城・栃木の住民には移動自粛の要請に理解をいただきたい。また、近くに見慣れない生物が現れた場合は警戒すること。特に、動物の死骸を見た際は不用意に近づかず、最寄りの保健所や警察に連絡をすること。


④「Acu-SHE」の致死発作のメカニズム(致死性のサイトカインストーム)が判明した。現在、既存薬の中から発作の予防に有効なものの選定と治験の準備を進めている。


⑤特に被災地の住民には苦しい状況が続くが、アメリカや国際社会と協力し、問題の解決に全力を注いでいる。3日後には、G7他数か国と緊急オンラインサミットを実施予定である。希望を捨てず、冷静な対応をお願いしたい。



 特に、鯨類の死因と「Acu-SHE」の治療薬については新規の情報だったため、記者団から大きな反響があった。


 質疑応答については、全体で3問のみに絞られた。

 須山官房長官は、その内の1問をアメリカの大手メディアの記者に割り当てた。


「The news of the deadly disease spreading through the ocean is shocking. It's a relief that you're finding a cure, but can we help marine life? (海洋で死の病が拡散しているというのは衝撃的なニュースです。治療薬の情報には希望がありますが、海の生命を救うことはできるのでしょうか?)」


 事態の核心を()く、鋭い質問だった。


 榊は次のように回答した。


「正直、現時点では難しいと言わざるを得ません。しかし、これからの国際会議で世界各国と連携し、最大限の努力を尽くす所存です」


 こうして、国際的にも注目を集めた記者会見は幕を閉じた。


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