2. 再誕
7月η日、早朝。
俺――比護徹心は、NIID(国立感染症研究所)の群山庁舎に出勤していた。
ここ群山市内の庁舎では、前田匡浩を含む数名の研究員が、夜を徹して解析作業を続けてくれていた。前田は、例の異常な微小物体の増殖を成功させた人物だ。
彼らのおかげで、再調査した患者の検体からも例の微小物体――面倒なので以降では〝X〟と呼ぶ――が発見され、「Acu-SHE」と〝X〟のつながりが濃厚になった。
俺が今日こちらの庁舎に来たのは、彼らから直接の報告を聞き、その上で追加の調査・解析の指示を出すためだ。
「ご苦労だった。本当に助かったよ」
一通りの報告を聞いた後で、前田たち徹夜組は帰宅させることにした。
……前田は「まだ行けますよ!」などと言っていたが、こんなところで倒れられたら逆に困る。
「――試料はどこに?」
「BSL-3実験室の保管庫に。デシケーターに入れてラベリングしてあります」
俺の質問に答えたのは小嶋という、俺より少し若い女性の研究員だ。彼女は前田の増殖実験の裏で例の海水サンプルを電子顕微鏡にかけ、あの魚渕と同様に真球構造の微粒子を発見した。
それは、これまでに確認された〝X〟の3形態の内の1つ――ある意味で最も特異なもの――だ。
俺は、彼女が何枚も撮影したその微粒子の全ての画像に目を通した。
表面に若干の起伏がある点を除けば、ほぼ完璧な真球。表面は金属のように硬質で滑らかだが、名状しがたい複雑な幾何学模様がびっしりと刻み込まれている。
――これは果たして、生きているのか?
それは純粋な科学的疑問でもあり、感染症対策の専門家として避けては通れない問題でもあった。
この粒子が不活性状態ならば問題ない。むしろ、そう願いたい。
もしも、そうでないとしたら――……
俺は小嶋に次の指示を与えた。
「昨日の前田と全く同じやり方で、12種の培地を作ってくれ。――で、この微粒子を含むサンプルをそれぞれに入れて観察してくれ」
「え? それって……」
「一種の活性試験だな。こいつが何なのかもまだ何もわかっちゃいないが……もしこれで何も起こらなかったとしても、それを確かめることには間違いなく意義がある」
「わかりました」
指示を受けた小嶋が実験室に向かう。
その後、俺は新宿庁舎にいるはずのNIIDの山田所長に、ビデオ会議で連絡を取った。
『ああ、比護君。ご苦労』
時刻はまだ8時を回ったばかりだったが、所長も既に出勤していた。この災難が始まってから、みんな勤務時間が長くなっている。
「――あの未知物質のメタゲノム解析をやらせてください」
挨拶もそこそこに、俺は用件をストレートに伝えた。
メタゲノム解析――微生物遺伝子解析の鬼札。解析対象を含む試料中に生息する全微生物の遺伝子情報を一括して取得する手法だ。
時間もコストも掛かる手段だが、だからこそ早期に取り掛かる必要がある。
『……この非常時だからね。調整はできると思う。ただ、責任者として理由を聞かせてもらえるかい?』
「もちろん、それはあの物体が全ての元凶である可能性が疑わしく、時間が経てば経つほど状況が悪くなる一方だからです」
「Acu-SHE」の人的被害の増加ペースは3日前に比べて著しく鈍化した。が、その傍らで汚染の範囲は日を追うごとに拡大し続けている。放っておけば日本中に蔓延し、国民の何割が生き残れるかも怪しい。
悠長に〝X〟だけを純粋培養する手法を探しているような時間はなかった。
〝X〟が地球外生命体だろうが、生命体でなかろうが構わない。いずれにせよ、ゲノム解析によって得られる情報は必ず今後の対策を練る上で鍵になる――俺はそう確信していた。
『――わかった。段取りは任せてくれ。いつでも輸送できるようにサンプルの用意は頼むよ』
「了解です」
これでいい。
数日後には、解析結果が得られるはずだ。
他の研究員にも手伝ってもらって、メタゲノム解析用のサンプルの用意を終えた頃、陸上自衛隊の車両が庁舎内に入って来た。
積み荷から取り出されたのは、バイオハザードマークが貼られた保冷ボックスだ。その中身は、三陸海岸に漂着したクジラとイルカの死骸から取り出された検体だ。
災害認定がなされたことで、これらは自衛隊のヘリによって朝一番でこちらに空輸されて来た。
「――いやがったな……」
「こちらでも、アメーバ状の微小物体を確認しました!」
BSL-3実験室の中で、俺も自ら位相差顕微鏡を操作し、イルカの血液検体の中で活動する〝X〟の姿を確認した。クジラの方でも〝X〟の活動が確かめられた。
――やはり、間違いない。「Acu-SHE」を引き起こしているのは〝X〟だ。
ただし、その詳しいメカニズムについては未だ謎に包まれていた。
†
気づけば時刻は正午を回り、俺は昼食を取り損ねていた。
俺宛てに内線電話が掛かってきたのは、そんなときだ。
『比護主任! あ、あのキュウの中身が出てきて、か、カラが消えちゃいました……!』
小嶋の声だ。彼女は激しく動揺していた。
……どうにも要領を得ないが、とにかくあの真球構造体に何か動きがあったらしい。
「わかった。すぐ行く」
既にこの時点で、嫌な予感はあった。
BSL-3実験室と隣接する顕微鏡制御室。
中では数名の研究員が小嶋の近くに集まり、青白い顔を浮かべていた。
「……どうした、みんな? 幽霊でも見たような顔をして」
そう声を掛けてみたが、反応は乏しかった。
「幽霊の方が、まだ可愛げがあるかもしれませんね……」
ある若手の研究員がそんなことを言った。
それほどのものを見たのか……。
「小嶋さん、主任に動画を見てもらいましょう」
モニターの前に座ったまま、血の気の失せた顔で自分の肩を抱く小嶋に対し、別の研究員が行動を促す。
「は、はい……!」
小嶋がPCのマウスを操作するが、その手は明らかに震えていた。彼女はカチカチと、画面のあらぬ位置を何度かクリックした。
俺はそれを見て、彼女からPCの操作を奪うことを決める。
「……貸してくれ。念のため最初から見たい。――これだな」
俺はキャプチャ画像が保存されたフォルダを見つけ、コマ送り動画を見るようにして高速で中身をチェックする。タイムラプス動画を生成するために数秒おきに撮影された画像だ。
……位相差顕微鏡のレンズが、5分おきに培地を巡回していく。マルチウェルプレートの12の窪みの底を転がる〝X〟――真球状の粒子が画面の中央に映し出される。
観察が開始された10時過ぎ頃から約2時間に渡って、画像にはほとんど変化が見られなかった。
そこで俺は、直近20分間の映像を記録した録画ファイルに目をつける。
「……はい。そちらです」
小嶋の確認を受けて、ファイルを開く。誰かが唾を飲む音が聴こえた。
その動画内の時刻が12時半を過ぎる頃、変化は起こった。
培地の番号は10。そこに用意された環境は、前田が昨日〝X〟の増殖を確認したものと全く同じだ。このときには自動ステージ機能のローテーションは停止され、カメラはこの培地の様子だけを映し続けた。
溶血赤血球の茶色い残骸が漂うモノクロームの世界の中に、薄く淡い光輪を纏った人工的な球体が鎮座している。――〝X〟の真球構造体は、明らかにこの世界にとっての異物だった。
その球体がわずかに身動ぎしたかと思うと、ヴェールのような光輪がふっと消失した。
「なっ……」
思わず俺は声を上げた。
〝X〟の金属のように硬質で揺るぎなかった表面は、ひと呼吸ほどの時間で、ぐにゃりと柔らかく変質したようだった。変化後のその物体はまるで有機的な細胞のようで、内部が徐々に透けて見えつつあった。
俺はその部分を巻き戻し、動画をスローで再生した。
変化の起点は明確にはわからない。ただ何か、触媒によって一気に化学反応が進んだような、そんな変化を感じさせた。
約3秒。たったそれだけの時間で、劇的な変化が起こった。言うなればそれは、機械から生物への「変身」だった。
再生速度を0.5倍速に上げる。
〝X〟の構造体は更に変質を続ける。表面はグズグズと更に柔らかくなっているようで、ラグビーボールかおはじきの玉のように形状を不安定に変えていた。内部は未だ鮮明には見えないものの、透明度は増していた。
ぼこっ
実際に音が鳴ったわけではないが、言葉にすればそんな擬態語が適当だろう。
表面から触手のような何かが一瞬、盛り上がっては沈むのが見えた。
ぼこっぼこぼこぼこっ
それは一度だけで終わらず、表面の至る所で次々に生じた。
「ひ、ひぃぃっ……!」
生理的な嫌悪感を催したのか、小嶋が自分の両肩を抱えて震えていた。
……確かに、これは気味が悪い。
「これは……」
このときには、俺は結論に気づいていた。
なにせ、30分ほど前に自分の目で見たばかりだ。
気づけば〝X〟の中心には、黒ずんだ核らしき物体が見えていた。
――それは、先ほど俺たちが検体中に観察した〝X〟のアメーバ形態そのものだった。
〝X〟は何らかの手段で金属質の外殻を変質させて吸収し、アメーバ形態となって活動を再開したのだ。
一連の変態過程を終えた〝X〟はモゾモゾと仮足を動かし、やがて画面の外へとフレームアウトしていった。
動画を観終わった俺は、ゆっくりと大きな溜め息を吐いた。部下たちの前ではあったが、そのひと呼吸を押し殺すことはできなかった。
…………ああ。やはりオマエらは、生きているのか…………
このどうしようもない現実を、受け入れるために。
 




