8. 喪失(下)
どのくらい、そうしていただろうか。
――――やるべきことを、やらなくては……。
正気に返った僕は、まず涙を両手で拭った。
(未咲を、現場から離さないと……)
未咲には「ママは?」と何度も訊かれた。僕はそれには答えず、再び彼女を洗面所へ連れて行き、2人で再び念入りに手洗いとうがいをした。
「少し休んでいなさい」
「…………」
段々口数が減った未咲のことは心配だったが、今は優先すべきことがある。
しばらく自分の部屋にいてもらうことにした。
――個人防護具を手配していなかったのは、迂闊だったかもしれない。僕はとりあえずマスクとポリエチレンの手袋をして、陽菜の遺体にシーツを被せた。
それからリビング・ダイニングの扉を閉め、レッドゾーンと見なすことにした。迷ったが、エアコンは点けたままにしておいた。遺体の腐敗を抑えるためだが、この措置は間違っていたと後にわかった。
マスクと手袋を廃棄した後、念のためもう一度手洗いうがいをして、僕はケータイを手に取った。
『どうした?』
電話の向こうから聞こえたのは、比護の声だ。
「……比護、聞いてくれ。さっき陽菜が……妻が『Acu-SHE』の発作を起こして、死んだ……」
『なんだと!』
比護は驚いて大声を上げた。
「妻は、娘と涼里に行ってたんだ。日帰りの旅行で。……そこで感染したんだろうか?」
僕は冷静になったつもりだったが、まだ現実を正しく認識できていなかったんだろう。
わかりきったことを訊ねて、もうひとつの恐ろしい可能性から必死に目を背けていた。
『涼里だと? 長野だろう。なぜ、そんなとこで……』
比護は困惑していた。
――そうだ。なぜ長野に病原が…………
「とりあえず、最低限の隔離はした。今から娘とシャワーを浴びる。諸々の手配を頼む。他に何か、やっておくべきことはあるかい?」
『……そうだな。……奥さんと接触したときに着ていた服は、処分すべきだな』
「わかった」
比護との通話を終えた後、未咲を起こし、交互にシャワーを浴びた。
服を処分すると言うと未咲は眉をしかめたが、納得してくれた。
「――……ここにいてもいい?」
比護が来るまでの間、未咲は僕と陽菜の寝室の方にやって来た。
僕らは壁を背にして、ベッドの上に隣り合って座った。
「未咲――」
「……なに?」
僕の胸を枕にする未咲に問い掛けようとしたそのとき、インターホンの音が鳴った。
僕は話を後にして、来訪者を確認する。個人防護具を身に着けた比護が、玄関の前に立っていた。
「……大丈夫か? ……入るぞ」
比護を家に上げる。
彼はレッドゾーンであるリビング・ダイニングへ続くドアを少しだけ開いて中を確かめ、そのままドアを閉じた。
「エアコンを止める。スイッチを教えてくれ」
比護が言うには、エアコンを止めるのは病原のエアロゾル化を防ぐためだそうだ。僕はPPEを着用していないから、彼にやってもらうしかない。
その後、比護の指示でリビングのドアの隙間をタオルやテープで塞いだ後、家の他の空間の換気をした。これでレッドゾーン以外は安全だろう、という話だ。
「感染研の対応班を手配してる。しばらく待っていてくれ」
比護は先行して駆けつけてくれたようだ。……これは、しばらく彼に頭が上がらないな。
僕と未咲は比護の指示でそれぞれ体温を計り、簡単な診察を受けた。
「未咲ちゃんの体調は問題なさそうだね」
そう聞いて僕は、膝から崩れそうになるほど安心した。
「Acu-SHE」による犠牲者の多くは、事前に体調不良を訴えていたという。その兆候がない未咲は、この病に罹患してはいないと考えられる。
これで、恐れていた最大の不安――目を背けていた最悪の可能性――は解消した。
悪魔は僕から、娘までは奪わなかったのだ。
「それにしても、一体どこで『Acu-SHE』に罹ったんだろうな」
不思議そうに首をひねる比護に対し、僕の脳裏には瑞篠山の光景がフラッシュバックしていた。死体に集る虫の群れ、ミンミンゼミの大合唱、僕らを遠巻きに見る鳥たち……。
――僕の頭の中で、全てがある1つの仮説に結びつく。
「……感染症の〝キャリア〟ってやつじゃないのか……?」
僕の言葉に、比護はハッと息を呑んだ。
「そうか……。虫と、鳥――〝生物ベクター〟だ……!」
比護の言葉はおよそ、僕が意図したものと同じだった。
〝媒介者〟と〝運搬者〟。言葉は違うが、いずれも病原体を保有し、移動によって病原体を運ぶことで病気を拡大させる存在のことだ。
一般に、キャリアは病原体に感染しながらも発症しない宿主そのものを指し、ベクターは病気を能動的に媒介する運び屋を指す。
瑞篠山で水を飲んだ虫か鳥が、涼里まで飛んで、汚染を広げた。
――おそらく、これが真相だ。
2地点間の距離は、直線にして約160kmほどになるが、汚染が始まった時期を考えれば、十分に考えられる話だ。
僕らは水系の汚染災害ということから、水中の生物が病原体を宿し、〝ベクター〟化する危険性については十分に認識していた。その最たる例が、今朝から三陸で発生しているというクジラやイルカたちの大量死亡事件だ。
だが、脅威はそれだけではなかった。
虫も鳥も、他の動物たちも。汚染された水を飲んで生き長らえた全ての生物が、「Acu-SHE」という死神の運び手となるのだ。
「……こいつは、やべぇな……」
比護は青い顔をしていた。
無理もない。
悲観的な想像をすれば、瑞篠山から数百km以内のどこで「Acu-SHE」が発症してもおかしくないのだから。
〝ベクター〟ないし〝キャリア〟の存在に思い至っていれば、僕は陽菜たちを決して涼里へ行かせはしなかっただろう。
敵の脅威を見誤り、みすみす妻と娘を危険に曝してしまった。
(…………何が「天才」宇宙物理学者だ。……僕は、度し難い愚か者だ……。陽菜――――)
自分で自分が許せない。
どんなに悔やんでも、悔やみきれない。
僕は両拳を、痛いほど強く握り締めた。
 




