幕間 ホワイトハウスの動揺
――約2日前。
アメリカ東部時間で、7月δ日の午前10時半頃のことだ。
アメリカ合衆国、首都ワシントン。
ホワイトハウス内はこの時、極東から飛んで来た奇妙な情報によって揺れていた。
「――どうやら日本のタカモト総理は、意外とユーモアのセンスがあるらしい」
第48代目のアメリカ大統領、ケネス・ハリソンはホットラインによる日本の汐崎首相との会談を終えた後、側近たちに向かってそう言った。
ケネスは汐崎より1歳歳上の56歳だ。年齢が近いこともあって、両首脳間の仲は良好と噂されていた。
「……どのようなお話だったので?」
首席補佐官のダグラスが訊ねると、ケネスは拳を握りしめて言う。
「すごいぞ。宇宙から来た未知の脅威が、太平洋を渡って我が国に接近しているそうだ」
「それはまた……壮大なジョークですね」
ダグラスは困惑した。
――なんだその話は。日本の首相は、SF狂いにでもなってしまったのか。
小芝居染みた動きを見せていたケネスは、そこで真顔に戻った。
「だが『冗談を言っているわけではない』と言っていたな。彼の英語は優れているから、言い間違いなどではなさそうだ。……こっちは笑いをこらえるのに必死だったが。
その証拠となる科学的なデータを、これから所定のパスで送るとのことだ。確認し、データが届いたらワイズマンに見せてほしい。その後、対応を協議しよう」
「承知しました」
――30分後。
大統領執務室には、ケネスとダグラスに加えて、首席科学顧問であるワイズマンが揃っていた。ワイズマンはケネスより3つほど年長で、彫りの深い顔立ちが彼の実直さを窺わせていた。
「……で、どうだった?」
執務机に腰掛けたまま、ケネスは率直に訊ねた。
ワイズマンはPCを操作して、大型スクリーンに画面を投影する。
「こちらが日本のJAXAが観測したという、植物プランクトン濃度の分布図です」
映し出された画像は約1時間前、汐崎総理が首相官邸で見たものと同じだ。
「へえ……」
まじまじと観察していたケネスは、日本列島の腹に当たる部分から北東に向かって伸びる違和感に気づく。
「……ん? この黒いひげのような物は何かな?」
「それが彼らが危惧しているものの正体です。植物プランクトンが激減しているエリアを表していますな」
ワイズマンの返答を聞いて、ケネスは汐崎から聞いた話を思い出した。
『――日本の茨城で起こった植物プランクトンの急減が海流に沿って広がっている』
汐崎は確かにそう言っていた。
ワイズマンは画面を切り替え、動画を表示する。
「そしてこれが、JAXAが行ったというシミュレーションの映像です」
映像内で時間が加速する。
ケネスに「黒いひげ」と称されたプランクトンの激減エリアが、文字通りの黒い潮流となって太平洋の西端を北上していく。
1日、2日、……9日目になって、黒色の侵食はアラスカのアリューシャン列島に到達した。
「……博士、これはSFではないんだな?」
ケネスが念を押すようにワイズマンに訊ねた。
「大統領、それはあまりにタチの悪いイタズラです。エイプリルフールならあり得たかもしれませんが……シミュレーションの結果は妥当なものです」
「そうか……」
執務机に腰掛けていたケネスは、両肘を突いてわずかに考え込む。
「最悪の場合、これはどれほどの脅威だと考えられる?」
「…………」
ワイズマンは口を開き、逡巡した。
だが1秒ほど瞑目した後、意を決して科学者としての見解を述べる。
「1年以内に地球が死の星に変わる可能性があります」
室内に無音の衝撃が走った。
ワイズマンは地球環境において植物プランクトンが果たしている役割を説明し、それが失われた場合のリスクを一切の誇張なく語った。
それは執務室内の面々に、日本の一部の者らが抱いた危機感を十分に理解させるものだった。
「……タカモトの気持ちが少しだけ理解できたような気がするよ」
「どうされますか?」
首席補佐官の言葉を受けて、ケネスは大統領として方針を示す。
「又聞きの情報だけで動くのは軽率だな。ワイズマン、君の方で関係機関を束ねて日本のレポートを検証するチームを作ってくれ。そして、最優先で事実を確認してくれ」
「わかりました」
日本からもたらされた情報はこれだけではない。
ケネスはもう1つの脅威について、次のように指示を出した。
「ダグラス、保健福祉省を通してCDCを動かしてくれ。日本で突発的に発生したという奇病の情報を調べさせるんだ」
「イエス、サー」
ホワイトハウスの1日は、いつもより忙しくなりつつあった。
†††
同日、夕刻――日本では一夜明けて、メディアが茨城で発生した奇病に那実川病という暫定的な呼称をつけて被害状況を報じていた頃――。
ホワイトハウスの地下にある危機管理室には、米国の国家運営に関わるトップクラスの重要人物らが一同に会していた。
「ワイズマン博士、報告をお願いします」
この緊急ブリーフィングの進行を務めるのは、国家安全保障担当の大統領補佐官だ。
「例の暗黒潮をNASAの海洋観測衛星でも確認しました。日本のデータより侵食が進んでいたため、より信頼性の高いシミュレーション結果が得られました。日本のシミュレーションは正確です。アリューシャン列島への到達予測は、今から8日と15時間後。誤差は3時間以内です」
数名が驚きの声を漏らす。
「……お静かに。続いて保健福祉長官、お願いします」
指名を受けた保健福祉長官が、手元の資料を確認しながら報告を行う。
「日本時間で7月γ日の夜に初めて発症が確認された奇病によって、翌日の24時間での死者数は6,000名に達しました。これは過去のあらゆる感染症や生物兵器を凌駕する恐ろしいペースです。致死率も99%以上と推定されます」
再び驚きの声が上がる。
保健福祉長官の手や声は震えていた。
情報を調べれば調べるほど、後に「Acu-SHE」の名で知られるこの奇病の異常さが浮き彫りになったのだ。
――悪夢なら早く醒めてほしい。彼女はそう願っていた。
その後、NASAがカリフォルニア工科大のルイズ・シーカー博士を通して得た、日本の宇梶准教授による情報が補足として挙げられた。
それから一同は、喧々諤々の議論を行った。
米国の利益と安全を最優先すべきだと言う者、日本への最大級の支援を訴える者、国際連合との早急な連携を進言する者、某国の陰謀を疑う者、…………。
1時間に及ぶ白熱した議論の末、決断をするのは大統領の役割だ。
「――国防長官、在日米軍司令に本件を共有し、日本国内の治安維持など、求められる協力に可能な限り応じてくれ。彼らのためだけではない。彼らの対応プロトコルを知ることが、いつかこの脅威が我が国を襲ったときの助けになる」
「わかりました」
そして、もう1つの重大な決定が下される。
「国務長官、事は環太平洋地域の全ての国々、ひいては地球全体に関わる。だが俄には信じがたい話だ。サミットの前に足場固めをしておくべきだろう。ファイブ・アイズの首脳陣に情報を共有するための段取りを進めてくれ」
――黒いうねりが、世界を動かそうとしていた。
 




