3. 別れの朝
――――7月α日、金曜。
僕は助手である星江新葉さんと共に、長野の天文台の中にいた。
そう。今夜は、待ちに待ったミザール流星群を観測する夜だ。
「きれい……」
星江さんが感嘆の吐息を漏らした。
0時前から続く流星ショーは、空に無数の軌跡を描いていた。
――ピロピロピピロロロ……
2時45分。僕のスマホから特徴的なアラーム音が鳴った。
大学にある研究室のサーバーが異常な天体の挙動を確認したのだ。僕はアラームを一瞥した後、すぐにPCで詳細を確認する。
「何かあったんですか?」
様子に気づいた星江さんが歩み寄って来た。
「うん。小さな天体が地球に接近しているみたいだ。――主成分は、氷と塵か。……まあ、大気圏突入時の摩擦熱で燃え尽きるだろうね」
「へえ……変わったスペクトル分布ですね」
「そうなんだよ! 後でしっかり解析しないと」
「ふふ。新しい発見につながるかもしれませんね」
それから10分あまりが経った頃。
――僕らは、異様な暑さを感じていた。
「せ、先生……アレは何ですか……?」
「さっきの天体――にしては、大きすぎるね……」
地球まであと50,000kmほどの距離まで接近して来たソレは、肉眼で見て月よりも大きく膨張していた。
――あり得ない。直径5メートルほどだった天体が、たった10分で10万倍の大きさに膨れ上がるなんて……
謎の天体は見るからに真っ赤に燃え盛り、ますます大きく膨れ上がっていた。
……なぜだ……。氷と塵じゃなかったのか……
観測機器は故障してしまったのか、どれも狂ったような値を指し示していた。
空が、大地が、赫く染め上げられる。
それは非現実的な光景だった。
「いけない……。――星江さん、逃げよう」
「は、はい!」
僕は星江さんのわずかな逡巡を無視し、その手をしっかりと握る。
赤い天体はもはや空を覆い尽くすほどに接近し、膨張していた。正確な大きさはもう計算できない。
――先生……!
そんな彼女の叫び声が聴こえたかと思うと、星江さんの全身が一瞬で激しく燃え上がり、灰すら残らず消えてしまう。
「そん、な……」
呆然とする僕の視線の向こうで、森が、都市が、次々と炎に巻かれていく。
僕は、その中に陽菜と未咲が眠る自宅があることを感じ取る。
「陽菜ーーッッ!! 未咲ーーッッ!!」
喉を嗄らして叫んでも、決して2人に声が届くことはない。
見上げる空は、マグマが沸騰する灼熱の海に変わり果てた。それはもう、目と鼻の先まで迫っていた。
体は金縛りにあったようで、空を見上げたまま指一本動かせない。
そして、赤い巨星が地球をどぷりと飲み込んで、世界は終わりを告げる――
†††
目を覚ますと、喉がカラカラだった。
ドクンドクンと、心臓が早鐘を打つ音が聴こえる。
――また、例の夢か……。
「う……ん……」
隣で寝ていた妻の陽菜が小さな唸り声を上げた。寝つきの良い彼女は、ちょっとやそっとでは起きない。うらやましい。
時刻は4時40分。
目覚ましよりも、やや早く起きてしまった。
今日は7月ζ日、水曜。
例の瑞篠山へ合同調査に行く日だ。
――どうせ装備は向こうだし、それ以外の準備は済ませてある。
とはいえ、もうひと眠りするには半端な時間だったため、僕は起きることにした。
寝間着が汗で貼り付いて気持ち悪い。
……まずは、シャワーを浴びよう。
シャワーを浴びてダイニングに出ると、陽菜ももう起きていた。テーブルには、僕のために簡単な朝食が用意されていた。
「ありがとう。……旅行の準備は終わった?」
リビングで荷物の整理をしている陽菜に問いかけると、寝起きの気だるげな声がかえって来る。
「うん。日帰りだし」
「いいなあ。僕も涼里でのんびりしたかったよ」
「……行っちゃう?」
僕が叶わぬ望みをこぼすと、陽菜は目を細めておどけたように言った。
涼里とは長野県の東端にある市で、自然豊かな避暑地として有名だ。
陽菜は今日、未咲と母娘2人で涼里へ日帰り旅行に行くのだ。
『……死者1万5千人に上る茨城県の水質汚染災害ですが、エレメント・マテリアルズ社から流出したジオキソラン-F7との関連が強く疑われており、……』
ボリュームを絞ったテレビの音が、静かなリビング・ダイニングに響く。
ジオキソラン-F7――茨城で発生した奇病「Acu-SHE」とよく似た症状を引き起こす化学物質らしい。なんでも、5日前のあの火球の爆発の余波によって流出してしまったのだとか。
なんとも不幸で、悪魔めいた作為を感じさせる事故だ。
AQUAチーム――科学対策統括室に属している僕たちは知っている。〝ジオキソラン-F7は「Acu-SHE」の発生とは無関係だ〟と。
『――感染研か厚労省あたりから、公式の見解を発表できないのかい?』
『――「原因不明でお手上げです」……ってか? 火に油を注ぐようなもんだろ』
感染研――国立感染症研究所に勤める比護徹心に僕が訊ねたところ、そんな返事をもらったのは昨日のことだ。
「ケイ君」
気づけば、陽菜が神妙な顔をして僕の前に立っていた。
「危険な場所に行くんだよね……?」
「ああ……」
今日の調査のあらましは陽菜にも共有していた。
茨城の集団死亡事件の汚染源と考えられる場所に行く――それだけ言えば、陽菜がその危険性を理解するには十分だった。
「大丈夫、僕は後方部隊だよ。現場には自衛隊や感染症対策のプロも同行するから、安全は十分に確保されてる」
「でも、ケイ君に何かあったら、私……」
僕は食事の手を止め、立ち上がって陽菜を抱き寄せた。
「ちゃんと帰って来るから、安心して」
「うん……」
自衛隊から迎えの車が来たのは、小一時間後のことだった。
僕が家を出る直前に未咲も起きて来て、眠い目をこすりながら僕の出発を見送ってくれた。
車のドアを閉め、集合場所である自衛隊基地に向かって出発するとき、僕はふと胸騒ぎを感じた。
振り返り、リアウィンドウの向こう側に目を凝らす。妻と娘の姿はもう見えなかった。
「――忘れ物ですか?」
助手席の自衛隊員に訊ねられ、僕は姿勢を前向きに戻す。
「いや……。大丈夫、何でもないよ」
僕がそう答えると、自衛隊員も視線を前方に戻した。
(――群馬や長野では、まだ何の被害も出ていない。……涼里は、安全なはず)
そう理解しているのに、なぜか不安は消えなかった。
 




