2. 悪夢が現実になった日
『速報です。昨夜、茨城県白里町にあるアパートで住民の7割が激しい出血性の症状を発症し、現時点で30名の死亡が確認されています』
――その朝のニュースこそ、僕にとって悪夢が現実になった瞬間だった。
†
少しだけ、時を戻そう。
この日は7月■日、月曜日。
小学校では終業式が終わり、世間では子供たちが長い夏休みの始まりに浮かれていた頃だ。
僕の名前は宇梶慧。宇宙物理学を専門とする大学の教員だ。
こう見えても学界では割と名の通った存在なのだが……まあ、きっと君たちにとっては縁遠い世界の話だろう。
「ママ、お醤油もうちょっとかけて」
「駄目よ。それでまた調子悪くなっちゃったらどうするの」
「ぶぅ……」
朝の自宅にて。食卓での妻と娘のなにげない会話だ。
僕は愛娘の未咲が薄味のおかずをついばむ様子を、微笑ましく見守っていた。
このところ僕の頭の中は、この前の金曜に観測したある「火球」の不審な挙動についての思索で占められていた。――ああ、火球というのは流れ星の中で特に明るいものを指す天文学用語だ。
とはいえ、この日が平穏な1日になることを疑っていたわけじゃない。……その期待は、このあと見事に裏切られるわけだが。
「パパ、今日は早く帰って来れる? 夏休みの宿題、見てほしいの!」
食事を終えた未咲が可愛らしいお願いをしてきた。従って、僕の頬はだらしなく緩んだ。
「ああ、いいとも。今夜は特に用事もないから、6時には帰って来れるよ」
「やったあ!」
僕がにっこりと笑って頷くと、未咲は両手を挙げて喜んだ。
火球の件は気になるが、この娘の笑顔と比べたらハナクソみたいなものだ。火球よりも火急――……いいや、止めておこう。
「ケイ君。コーヒー淹れたよ」
「うん、ありがとう」
妻の陽菜が、熱いコーヒーを入れたカップを差し出してくれた。
少し寝不足気味だったのでありがたい。実は先日の火球を見てから毎晩、嫌な夢を見るようになったのだ。それもあって、この週末はどうしてもあの火球のことが頭から離れなかった。……まったく、忌々しい火球だ。
「あぢっ!」
「だ、大丈夫? ……ごめんね。熱かった?」
「い、いや、大丈夫。問題ないよ」
うっかりしていた。僕は猫舌なのだ。
……ううむ。これは軽い火傷になるかもしれないな。……やれやれ。
さて、時刻は大学に出勤するために家を出るまであと30分、というところだった。
『――速報です』
そのニュースは、僕たち3人による一家団らんの空気をぶち壊し、やけにはっきりと聞こえた。
『昨夜、茨城県白里町にあるアパートで住民の7割が激しい出血性の症状を発症し、現時点で30名の死亡が確認されています』
30人だって?
僕は思わず画面のテロップの数字を確かめた。
だって、日本でこれだけの死者が出るような事件は珍しいじゃないか。
「ひどいわね。こんなに大勢の人が……」
「ああ。何があったんだろう」
陽菜がため息をつき、僕も同調を示した。
そんな大人2人の顔を見比べて、10歳の未咲はきょとんと首を傾げていた。……うーん、まだあまりニュースの内容はピンと来ないみたいだね。
「食中毒とかかなぁ?」
「……どうだろうね。O157なんかでは腸管出血が起こるはずだけど、この報道だけじゃ、はっきりとはわからないな」
陽菜に答えつつ、僕の思考は奇妙な引っかかりを覚えていた。
――……食中毒?
……だとしたら、原因は何で、それはどこから来た……?
僕の脳裏では、また例の火球が不吉な軌跡を描き、そして夜空に閃光を放って弾け飛んだ。
そう、あの火球は上空で爆発して消えた。だが僕の計算が正しければ、ひょっとしたら――
……まさか、な。
僕は頭を振って、脳裏を過った曖昧な想像を否定した。
いくら何でも、短絡的すぎる。原因の可能性は他にいくらでも考えられる。きっと、火球のことに頭が囚われすぎているんだ。
『……症状の原因については不明のままです。それでは、次のニュースです――』
それは悼ましいニュースではあったが、まだかろうじて、日々のニュースの中に埋没してしまえる程度の規模でもあったと言える。
「――ごちそうさま」
カップの中のコーヒーはまだ半分以上も残っていたが、僕は席を立つことにした。
「もう行くの?」
「ああ」
陽菜の問いに僕は小さく首肯を返し、鞄を手に取る。
……決して、猫舌だからコーヒーを諦めたわけじゃないぞ。
「気になることが出来た。急いだ方が良さそうだ」
先ほどの愚かな妄想を否定するためにも、あれの結果を早めに確認した方がいい。――僕はそう考えていた。
その後、僕は愛する2人に見送られて家を出た。
「パパ、お仕事がんばってね!」
「熱中症に気をつけて」
外へ出ると、灼熱の太陽が僕をジリリと出迎えてくれた。
――こちらこそ、文字通りの「火球」だな。
僕はハンカチで汗を押さえながら、愛車のスポーツワゴンに乗り込んだ。