11. 侵食
7月δ日、午後4時。
永田町、首相官邸――総理執務室。
「――以上が、本日15時時点の茨城県における被害状況です。死者数は1,500名を突破。現場の臨床医、及び、検体や病原を含むと思しき物体を調査した感染研や科捜研においても、未だ原因の特定には至っておりません」
内閣危機管理監の堀田は、各所から集めた情報をまとめ、発生中の異常災害についての報告を上げていた。
「…………」
その目前に立つ熟年の男こそ、この国の首相――第104代内閣総理大臣の汐崎崇元だ。
汐崎は指でこめかみを押さえ、何度かまばたきを繰り返した。
彼はこれまで、外務省時代の経験を活かしつつ堅実な政権運営を行ってきた。が、自分の中で積み上げた何かが、ガラガラと音を立てて崩れ始めたような気がした。
文字通り降って湧いた、前代未聞の災害。
初めに報告を聞いた汐崎の胸に浮かんだ疑問はこうだ。――いったい、どこの国のテロリストだ、と。
しかし、報告をよく聞けば、那実川の水が上流から下流に至るまで正体不明の毒物で汚染されているらしい。
……さすがにそれは、同じ人間のすることとは思えない。
この時点で彼は、原因について思考することを放棄した。
「それで、先ほどの報告の中にあったJAXAの件とは何だね?」
汐崎の問いに対し、堀田は背広の内ポケットからスマートフォンを取り出す。
「少々お待ちを」
堀田は素早く端末を操作し、榊からのメールに目を通す。榊は総理に直接説明することも辞さない態度だったが、電話を受けた堀田は「まずは要点をまとめてメールで送ってくれ」と伝えたのだ。
「……眉唾な話ですが、JAXAの榊理事によれば、今回の大量死亡事件の原因物質は宇宙由来のものの可能性が高いとのことです」
「……なに? ――いや。一旦、最後まで聞こう。続けてくれ」
「はい。理事は、教え子であり世界的に有名な研究者である宇梶准教授から報告を受けたそうで――」
「……まるでSFだな」
話を聞いた後、汐崎はひと言つぶやいた。
榊からのメールは、短い要約のあとに長い本文が続いており、結局汐崎は一通りの話を聞くことになった。その感想がこれだった。
ですね、と堀田も同意を示す。
「どうされますか?」
「そうだな……」
汐崎は数秒ほど間を置いて、次のように決断した。
「榊理事の提言に従おう。緊急災害対策本部を立ち上げる。本部長は私だ」
その言葉に、秘書官たちが驚きの声を上げた。
「……よろしいんですね?」
堀田の念押しに対し、汐崎ははっきりと頷く。
「そもそも、状況は既に最悪に近い。それに海だ。もし彼らの言うことが正しければ、外交問題にも発展し得る」
――こうして官邸は、慌ただしく動き出した。
†††
同日、午後7時。
埼玉県、JAXA地球観測センター内。
「茨城沖ですか……」
「そうだ。榊理事からの厳命だ。わずかな異常も見逃すな、だとよ」
モニターが林立する管制室の中で、野本は数時間前の上司とのやりとりを思い返した。
――茨城県那実川河口付近の近海の異常を観測せよ。
それは、異例の緊急依頼だった。
榊理事といえば、JAXAの全部門の宇宙科学技術を統括する立場の人物。一介のチームリーダーに過ぎない野本から見れば、理事長に近い雲上人だ。
急な残業を命じられたわけだが、返事は「はい」か「YES」しかなかった。
(茨城――今日、信じられないような事件が起こってるけど、それと関係があるのかしら……?)
突如として発生した、原因不明の出血症による大量死亡事件。
病原は那実川の水らしく、近隣住民は水道を使えない状況だそうだ。
野本が見た夕方のネットニュースは、その話題で持ち切りだった。
午後6時時点で、死者数は2,900人に上る、と出ていた。
野本が知る限り、一度にこれだけの数の人が死んだのは、あの東日本大震災以来、初めてのことだ。
『化学物質流出の疑いアリ』
あるスポーツ新聞社のニュースサイトには、原因としてそう書かれていた。
ただし、果たしてその疑いにどれだけの根拠があるのか、野本にはわからなかった……。
「――どう、何かわかった? 藤枝君」
給湯室から戻って来た野本は、残業仲間の青年に声を掛けた。
彼は野本の部下であり、上司に巻き込まれた哀れな若手の解析官だ。
「あ……ちょっと待ってください。さっき『いろどり』の最新データが届いたので」
野本は自販機で買って来た缶コーヒーを、藤枝のデスクに置いた。コツン、と硬質な音が響いた。
『いろどり』というのはJAXAが所有する海洋観測衛星で、およそ2日間かけて地球を隈なく走査する能力を持っている。それがつい先ほど関東近海を通過したのだ。異常が起きているとしたら、これではっきりするだろう。
「…………特に異常ありませんね」
藤枝はカチカチとマウスを操作して、海面の水温や塩分濃度などのデータをチェックする。野本から見ても、確かにそれらには異常はなさそうだ。
「クロロフィル濃度はどうかな?」
野本は何の気なしにそう訊ねた。クロロフィル濃度は、海中の植物プランクトンの分布を示す重要指標だ。
「はい……――え?」
「――は?」
藤枝が画面を切り替えた瞬間、2人の眼前に明らかな異常が映っていた。
海にぽっかりと「穴」が空いていた。
植物プランクトンの生命活動を示す色が、ごっそりと抜け落ちていた。
グラフの色は黒。即ち、プランクトン濃度の激減を表す。
「ふ、藤枝君! それ、1番モニターに映して! あと、他にも異常がないか確認して!」
「は、はい!」
野本は矢継ぎ早に指示を出すと、自分のデスクに走って戻る。
彼女はPCの画面ロックを解除し、高速でキーボードに指を走らせる。そして、2日前の同じ海域のクロロフィル濃度の分布図を、藤枝が用いた管制室の特大モニターの隣――2番モニターに映す。
一目瞭然だった。
2日前には健康な豊穣のゆりかごだった海に、黒い「死の穴」――いや、「死の川」が広がっていた。
それは那実川の河口から、黒潮の流れに沿って北に伸びていた。まるで、悪魔が爪で引っ掻いたかのような傷跡だった。
「な、何が起こってるっていうの……?」
野本のその問いに対して答えられる者は、この時点では世界のどこにもいなかった。
後に、日本のある海洋学者は、この現象を指して次のように名付けた。
――虚潮、と。




