10. 不可視の悪魔
俺の名前は比護徹心。NIID――国立感染症研究所に主任研究官として勤務している。
これから、7月δ日月曜に降って湧いたクソッタレな災難の話をしよう。
この日、俺はいつものようにNIIDの新宿庁舎に出勤していた。茨城で起きた怪死事件のニュースを知ったのは出勤直後だ。
「死者100人だと!?」
「はい。所長から比護さんに対応の指揮を取ってほしい、と……」
俺は目まいを感じた。
病原は何で、経路はどこだ? 被害はどこまで広がってる?
もう既に厄介事の匂いがプンプンしていた。
……あとは、これをどれだけ小さな「火事」に収められるか。
とにかく、現場と上手く連携して事に当たらなければ。
「……第1会議室を本件の対策室として使う。所長に言って、全部の情報を集めさせてくれ」
「わかりました!」
俺は暗澹たる気持ちで対応に取り掛かった。
半日が経った頃、俺は無力感に打ちひしがれていた。
検体は手に入った。
群山のラボで検査にも掛けた。
――しかし、病原の手がかりは何も得られなかった。
ウイルス検査も、細菌検査も役に立たなかった。俺自身も目を皿のようにして電子顕微鏡の映像を繰り返し見たが、ただ破壊された細胞や赤血球の断片が焼け野原のように広がるばかりで、想定されたウイルスや細菌の姿は影も形もなかった。
「……なんだって言うんだ、畜生……」
大型のディスプレイに映る拡大された細胞の映像を見ながら、俺は両手で頭を抱えた。
午後3時時点で、死者数は1,500人を数えていた。
……病院やクリニックなどの現場は、控えめに言って、地獄らしい。
感染症として、この死者数の急伸は異常だ。新型コロナはもちろん、これがスペイン風邪やエボラ出血熱だったとしても、前触れもなくこれほど死者が急増するなんて考えられない。
わかっていることはたった1つ。水が怪しい。これだけだ。
(――まさか、感染症じゃない……?)
その考えは、俺にとってはごく自然な発想だった。
現在のところ、患者との接触によって医師や看護師が出血症を起こしたという事実は確認されていない。潜伏期間にもよるから、まだ確定ではないが……。
(水がそれだけの毒性を持った――何ものかによって汚染されたのか……?)
一方で、午後に入ってから海岸付近でも被害が発生していた。河口じゃない。海岸だ。このことから、単純な毒性を持った化学物質という説は否定される。
那実川流域と海岸の被害は、ひょっとしたらそれぞれ原因が別なのかもしれない。しかし、症状は酷似している。
それに、海で希釈されずに毒性を発揮しているのは事実だ。
いったい、原因は何だ?
(例えば、プリオン。狂牛病の原因物質だが、あんな風に水中の成分を次々と変異させていくとか……。あるいは、自己増殖する生物兵器か――)
狂牛病といえば、致死率ほぼ100%の感染症として知られる。
今回の症状も、発作が起こった際の致死率は確認されている事例で100%。加えて、恐ろしいほどの拡散力を持っている。
悪夢のような病気だ。
俺がそんな風にあれこれと思考を巡らせていた頃、デスクに置きっ放しにしていた俺のスマートフォンがブルルルと震えだした。
着信だ。表示された発信者の名前を見て、驚く。
「宇梶……」
宇梶慧。もう何年も連絡を取っていなかった、大学時代の友人だ。
最後に会ったのは、確かあいつがサークルの後輩と結婚したとき……もう13年も前のことか。
この非常時に何だ、とは思いつつ、俺は足早に会議室から外へ出ながら、スマートフォンの通話ボタンを押す。
「……はい。こちら比護」
『比護、久しぶりだね』
その声を聴いた途端、俺はまるで大学時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。
……ああ、まったく。懐かしいな。
「何の用だ? こっちはいま戦場なんだが」
つい昔のようにぞんざいな口を利いてしまったのは、きっと疲れていたからだけじゃない。こんな状況じゃなきゃ、もっとこいつと無駄話をしていたい気分だった。
今の言葉だけでこちらの状況が伝わるとは思わなかったが、国内有数の頭脳を持つ天才はやはり一味違った。
『知ってる。茨城の件だろ?』
「! なぜそれを……――いや、ニュースを見てればわかるか……」
報道に出ている数字だけでも、異常があることはわかる。
俺が――というか、感染研が――対応に当たっていることぐらい、こいつなら察して当然か。
だがそれなら、いったい何の用で?
ちょうど俺がそう思ったとき、宇梶は核心を衝く一言を述べた。
『元凶は「火球」だ』
「は……?」
――何言ってんだ、こいつ?
最初の感想はそれだった。
人が少しでも被害を抑えようとあれこれやってるってのに、言うに事欠いて「火球」だと?
俺はついカッとなりかけたが、そこでふと冷静さを取り戻した。
(……いや。「火球」といえば、隕石のことだったな。――そういえば……)
「まさか……」
『そう。君なら覚えているだろう。3日前のあの流星爆発さ』
覚えていた。
ミザール流星群のピークが過ぎた頃、彗星のごとく現れた流星が栃木の山の方で爆発した、とニュースになっていた。被害がなかったと知って安堵したものだ。
宇梶の話によれば、火球を構成していた成分の大半が大雨によって那実川の源流地域に降り注いだ、とのことだ。
「……偶然じゃないのか?」
いくら宇梶の言葉とはいえ、あまりにもぶっ飛んだ話だった。
立場上、鵜呑みにはできなかった。
すると宇梶は語気を強め、堰を切ったかのように喋り出した。
『もちろん「偶然」さ。そうに決まってる! たまたま地球の近くまでやって来た流星が、たまたま大気圏を通り抜け、たまたま日本の栃木の上空で爆発して、何かをこの辺りにばら撒いたんだ。これは幾重もの天文学的な確率の偶然が重なり合って起こった、神のいたずらと言うほかないよ』
「…………」
俺は宇梶が喋っている間、口を挟むことができなかった。
……それは何とも、性質の悪い神さまがいたもんだ。
「……ふざけた話だな」
『――だが現実だ』
……なるほど。
その何かが、この透明な悪魔の正体か。
今の話だけで納得できたわけじゃないが、それなら既存の手法で病原を突き止められないこととも辻褄が合うような気がした。宇宙由来の、未知の化合物または生物兵器――そんな元凶が考えられそうだ。
ともあれ、それが那実川の水に溶け込み、浄水場の濾過装置をすり抜けて人を殺傷する劇毒と化したわけだ。しかも、おそらくそれが沿岸でも猛威を振るっている。
俺はようやく、今回の事件の全貌がおぼろげに浮かんで来たような気がした。
だが実際には、このときの俺の想像よりも事態はより急速かつ深刻に進行していた――と、後にわかった。
「それで、用件はその情報提供だけか?」
『いや、実はもう1つあるんだ』
その次に宇梶が発した言葉は、科学者の彼らしい、重要な一手となり得る提案だった。
『火球が墜ちた場所を調査したい。君の手を貸してくれ。――きっとそこに、最大の手がかりがあるはずだ』
俺は息を飲みつつ、宇梶の頼みを実現するための算段を頭の中で考えていた。
――こうして俺と宇梶は、この見えない悪魔との戦いに身を投じていくことになる。
 




