がんばれ、が聞こえた日
そこに、応援は存在しない。観客席はほぼ空っぽ。応援団もいない。
六月の生暖かく、水分を含んだ重い空気が吹き抜ける。しんと静まり返った地に響くのは、今俺の名を呼ぶ影アナウンスの声だけ。だが、俺の名が呼ばれたところで誰からも歓声は上がらず、代わりに小鳥が囀った。
名前を呼ばれた俺はネクストバッターズサークルの白線から外へと足を進め、次の配球を考えている相手投手の約二十メートル先にある、これもまた白線で囲まれたバッターボックスの中に立つ。二十メートルも距離があるはずなのに、相手投手の凄まじい力量が伝わってくる様だ。
相手投手はこんな平凡な俺とは違う。ただ単純に人数がオーバーしてしまい、監督からの指示でなくなくスタメンから外された、本当は実力に満ち溢れた投手なのだ。
「プレイボール!!」
俺のすぐ後ろに立つ球審がやけに大きな野太い声で勝負開始の合図を告げた。俺は握り締めた金属製のバットを薄曇りの空に向かって伸ばした。
一球目。気づくと細い幻影を描いてもうすでに手から放たれた球は捕手のグローブの中に収まっていた。「ストラーイク!!」と再び野太い声が言う。
二球目。先程とは違って、今度はしっかりと俺はそのボールの軌跡を目で捉えた。構えたバッドを強くフルスイングした。腕から肩、腰にかけて金属の重みが伝わってくる。
俺はその球にバッドの先を当てた。なんとかして当てた。ボールが転がったのを確認して一塁ベースに向かって全力で走る。しかし結果及ばず。内野――二塁手からの好送球に捕まり、俺は一塁ベースを踏むよりも先にアウトを宣告された。
「朝霧くん、お疲れ」
ベンチに戻ると最初に出迎えてくれたのは、この底辺チームのマネージャーをしている斉藤さんだ。ひとまとめにした長い茶髪が揺れる。華奢な体型とは裏腹に、太陽の光から発せられる紫外線で茶色く焼けた腕が、ゆったりしたユニフォームの袖口から伸びていた。
手渡されたペットボトル。冷蔵庫の中でよく冷えた冷気が、不快な空気の中で動いたせいで熱の籠りかけた掌に伝わっていく。
「はぁ……またアウトか……」
独り言の様に俺はボソリと口にした。
ペットボトルの中の水を口に含む。よく冷えたそれが汗で流れ出て乾き切った体の中を満たしていく。
「でも成長しているとは思いますよ、ね、監督」
斉藤さんは楽観的主義というカケラを隠すこともない口調で、後ろに控える監督に向かって声をかけた。
「そうだな。あの球に食らいついていけたのも成長だな。それにまだお前には一軍登録させてもらえる見込み、チャンスも十分あると思っている」
俺は監督の優しくも少し厳しくもある言葉に曖昧に頷いた。上手く言葉が見つからずにいた。
ここ、私立青崎高校はこの周辺に設立されている他の高校などに比べて規模が大きい。それに元々男子校ということもあって男子の比率の方が共学になって五、六年経っても女子の比率を上回っている。それ故、野球部の部員も多い傾向にある。
何故その話をするのか。簡単なことである。
人数が多いことの利点……それは試合が円滑に回るということ。誰かが怪我をしてダウンしても、出場選手登録入りしてベンチにいる代わりの選手をすぐに出せる。しかしデメリットは、人数が多すぎるということだ。
出場できる選手の枠は決まっている。だから当然実力の無い選手には出場する権利を与えてもらえない。今の俺の様に。
俺が所属しているこのチームは、公式の大会への出場登録から外された者が集まった集団。言い換えると二軍だ。二軍であっても一応他の高校の野球部を招いて行う練習試合はある。だから特に文句はない。しかし、大会に出れる選手とは違ってかなり存在感が薄くなりがちであり、大人数から応援されるなんてことは滅多にない。
大会の無い日は部員は合流こそするものの、大きな格差を感じてしまう。大会のある日は、校内から出て行った後の誰もいない静かな校庭で練習に励む日々である。
俺は流れていく試合を、相手投手の力量に倒れていくチームメイトを、ベンチの影からぼんやりと見つめた。
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
「大会の方の試合は勝利したそうですよ」
試合後。グラウンドの整備をしていると、隣に俺と同じ二軍チームに所属しているチームメイトの渡辺から声がかかった。その言葉を聞いて俺はトンボを動かしていた手を止める。
「そうなのか。まあ、当然だろうな。神がいる以上」
一軍には俺達と同世代にして最強と言われている部員がいる。神 拓也。彼はこの部活に入ってからずっとスタメン固定。その名前故に他の女子や部員達から「神様〜!!」などと呼ばれてはチヤホヤされている奴である。女子からの黄色い歓声、大勢の歓声。その全てを手にしている。
その報告を聞く度に思う。この違いはなんだろうと。最近はそういったことをいちいち考えてしまうから、大会の結果も見る気はしないし、下手したら応援する気力すらなくなっていることもある。
「いいよな、彼。大勢に応援されるってどんな感覚なんだろうな」
「きっと、気持ちいいと思うよ。周囲の暑苦しさなど忘れるぐらいに」
俺もいつか必ず、神くんに追い付きたい。一度でもいいから大会に出たい。ずっとずっとそう思っている。誰かに応援されることが俺の中では一番求めていることなのかもしれない。だからなのだろう。だから自然と大人数から応援されて輝いている彼の姿を見る度に、悔しさが込み上げてくるのだ。
「でも、朝霧くん最近随分変わったと思う。以前は空振りばかりだったけれど最近はかなり球を捉えられる様になっていると思うよ。今日の試合の相手投手は普段大会でエースをやることもあるぐらいの選手だけれど、君はそのボールを捉えられていたもの。監督もそう言っていたでしょう……?」
「うん、まあ。確かに」
確かに彼らの言う通り成長したとは思う。だが、まだまだ何か重要な何かが俺には足りていない。欲求を満たすための何かが。
「渡邊くん。今日はこれからどうするのか」
「僕は今日ちょっと用事があって帰らないといけないんだ。朝霧くんは?」
「俺は少し残って……練習、しようかな」
変わる為に何が必要かなんて、明確な答えは分からない。だが少しでも練習できるならしておく。その積み重ねが大事だと言うことは分かっていた。
「いいね、その意気だよ。僕は先帰るけど、頑張って」
彼はそう言って帰っていった。
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
薄曇の隙間から、少し傾いた太陽の光が降り注がれる。グラウンドには、俺と他の部活の部員の生徒数人だけが残っている。休日の午前練習を終えて皆帰ってしまったらしい。
先程よりもさらに静けさが増したグラウンドの隅で俺は金属バットを構える。木製のそれよりも少しだけ重いそれを、一回大きめに素振りをした。感覚がまだ正直分からない。
分かるまで、定着するまで振る。そうすれば体で少しずつ覚えてくる、と昔よく練習に付き合ってくれていた時、神くんはそう言っていた。今はもう練習に付き合ってくれることすら無いけれど、その時の声音と真剣な目付きは今でも記憶の中にはっきり残っている。
何回も何回も、時々自分の体の動きを観察しながらも素振りをし続ける。静寂に包まれた空気の中で、それは確かな音を刻んでいった。
そのことを繰り返していた時……俺の目の端でこちらを眺める誰かと目が合った。そちらを振り向く。立っていたのはまだ背も小さく幼い一人の少女とその母親だった。緑の柵の隙間をその小さな手で握り締め、身を乗り出すようにしながら、その純粋で透き通った茶色い瞳をこちらに向けている。そして、少女は小さくも大きな声で「がんばれー!」と言った。
小さい子特有の高めの声。俺はその声を聞いた瞬間、何かが変化したのを感じた。バットを握り締める力が僅かに強まる。そのままさらに素振りを繰り返す。少女の瞳は俺の姿をしっかりと捉えていた。
俺は我に帰った。俺が欲しかったのは、大人数からチヤホヤされることではない。名前を連呼されることでもない。そう、たった一つの『心からのエール』だ、と。
斉藤さんも、監督も、渡邊も。みんな俺を見てくれていた。それでも俺は、大勢の声ばかりを求めて、目の前の“本物”を見失っていたのかもしれない。
あの少女の一言が、教えてくれた。
心からのエールは、小さくても、確かに届く。
「ありがとう」
俺は一度振り返って、少女に向かって素直にその五文字を吐き出した。
俺は少し青空が覗いた空に向けて、いつか夢見るホームランを見据えるようにそのバットを伸ばした。