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「本当だ、温かいカスタードクリームなんて、と思ったけどこんなに美味しいとは思わなかった」
「でしょう? あ、もう、クレムったら。唇にクリームがついているじゃない。取ってあげるから、こっちを向いて」
「わ、ごめん」
華やかな大広間の片隅。
優雅な調べが流れ貴族たちの談笑が聞こえる中、リュスティはイスクレムとの久しぶりの語らいに胸を弾ませていた。見つめ合う二人に周囲も気を利かせているのか、額がつくほど互いに近づきじゃれ合っているというのに視線の一つも感じない。
「はい、取れた。じゃあクレム、次はこれを食べてみて?」
リュスティが手にしたのは、ごく薄く焼いたパンケーキに二種類のジャムを挟んだお菓子。
これはヴェルシグネルセ王国の伝統的な菓子だが、黄金色のラズベリーと黒紫色のベリーのジャムを挟んだものは、王妃主催の夜会でしか食べることができない。
「ん、これは美味しいな。僕はさっきのパイ皮よりもこっちのほうが好きかも」
「王妃陛下の夜会で出るお菓子はどれも絶品ですもの。王妃陛下ご自身ですら、夜会の時しかお召しあがりにならないのよ?」
「母上は、こういうことにこだわるからね」
頷きながら、リュスティはカスタードクリームを小さなスプーンで掬う。卵の風味がしっかりしているこのクリームは、なにもつけずにこのまま食べてもすごく美味しい。舌の上で溶ける豊かな味わいに、自然と頬がほころんでいく。
「……次に、こうしてリーシャと向かい合って静かに話せるのはいつになるのかな。来年は結婚式だし、それまでにはなんとか人狼すべての一族と同盟をまとめたいところだよ」
「そうね。でも無理はしないで欲しいわ。結婚したら私も王太子妃としてクレムの手助けができるし、そう焦る必要はないのではないかしら」
「ふふ、そうだね。リーシャが側にいてくれるなら、僕はなんだってできる気がするよ」
イスクレムはどこか安堵したように笑った。
「私も同じ。あなたのためなら、どんな困難が襲いかかってきても乗り越えてみせるわ。人々が恐れるこの力で、あなたを絶対に守ってあげる」
「うーん、嬉しいけど、その台詞は僕が言いたかったなぁ」
「ほら、言ったでしょう? やっぱりあなたは王道を外す人なのよ」
リュスティとイスクレムは顔を見合わせて笑い合う。
「リーシャ、来月になんとか時間を作るよ。今度は二人きりで会おう?」
「本当!? 嬉しい! あ、でも無理はしないでね?」
「大丈夫だよ。リーシャに会えるっていうご褒美があれば、頑張れるからね」
「……うん。愛してる、クレム」
「僕もだよ」
見つめ合う二人の間には、お菓子の甘い香りと愛に満ちた穏やかな時間が流れていく。
(私は、王国一の幸せ者だわ)
リュスティは幸福な時間を堪能しながら、うっとりと目を閉じた。
これが嵐の前の静けさであったことを、知る由もなく。
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「お嬢さま、いつまで拗ねていらっしゃるのですか?」
「……」
「王太子殿下、とても悲しそうな顔をなさっておられましたよ? お嬢さまのお気持ちは重々承知しておりますが、贈り物を突き返すのはいかがなものかと」
窓辺に突っ伏していたリュスティは、咎めるようなメイド長フェリの言葉にゆっくりと顔をあげた。綺麗に化粧をほどこしてもらった顔は、涙でひどい有様になっている。
「……だって、楽しみにしていたの」
「えぇ、それはもう、わかっております」
「……私、無理をしないでと言ったのよ? こんなにすぐ帰ってしまうのなら最初から来ないで欲しかった。期待させるなんてひどいじゃない」
──夜会の時に言っていたとおり、イスクレムはなんとか都合をつけて時間を作ってくれた。リュスティはモルゲンレード家に招待することを提案し、一日ゆっくり過ごすつもりでいたのだ。
それなのに。
「お嬢さま、王宮使者の慌てぶりをご覧になりましたでしょう? きっとなにか大事なお仕事が急に入ってしまわれたのですよ。今は王太子殿下の正念場ですから、人任せにするわけにはいかなかったのではないでしょうか?」
「そんなこと、わかっているわよ!」
張り切ってイスクレムを出迎えたリュスティに、イスクレムは金の鎖に自身の目と同じ色のサファイアが埋め込まれた懐中時計を贈ってくれた。
『リーシャと会えなくても時間を共有している気分に浸りたくて、特別に作らせたんだ。気に入ってくれるといいのだけど』
受け取った懐中時計の蓋を開けると、裏にはイスクレムの紋章“黄金羊”とリュスティの名前が刻まれている。
『僕のは、こっち』
そう微笑むイスクレムの手には、薊色の尖晶石が埋め込まれた緑の孔雀石で作られた懐中時計が握られていた。
自分の色を持ってくれていることが嬉しくて、護衛官に囲まれた状態で遠慮なく飛びつき頬に口づけを落とした。
だが、幸せな時間は始まる前に終わった。お茶の席について五分も経たないうちに、王宮から急ぎの使いが慌てふためいた様子で現れたのだ。
婚約者と言えど、耳に入れていいことと悪いことがある。
使者がイスクレムのもとに駆け寄ってきた時点で、リュスティは素早く立ち上がり二人から距離を取った。何事かを伝える使者の言葉を聞いたイスクレムの顔が、遠目から見てもわかるほど真っ青になっていく。
その顔を見たとたん、リュスティは二人きりの時間がなくなってしまったことを悟った。
『……ごめん、リーシャ。戻らないといけなくなった』
『ど、どうして!? だって、今来たばかりじゃない……! 一体、なにがあったの?』
『それは、ごめん。今は言えない』
イスクレムは眉根を寄せ、人差し指をこめかみに押し当てながら端正な顔を歪めている。
その顔をしっかりと見ていれば、イスクレムがあり得ないほど動揺していたことがすぐにわかっただろう。けれどリュスティは楽しみにしていた時間が土壇場でなくなったことへの悲しみと失望で、周りが見えなくなってしまっていた。
気づくと、感情のままにイスクレムへ一度は受け取った懐中時計を押しつけるようにして返し、呼び止める声に振り向くことなくその場をあとにしてしまった。
そして自室に閉じこもり、今の今までひたすら泣き続けていたのだ。
「……私、ひどい婚約者だわ。クレムは今日のためにきっとお仕事を必死で頑張ってくれた。もしかしたら、少し無理だってしたかもしれない。その中で私にすら言えないなにかが起こったということは、クレムはこれから休む間もなくその事態に対処することになる。それなのに、私は自分のことばかり。これでは王太子妃になんてなれるはずがないわ」
「お嬢さま、そんな弱気になってはいけません。お嬢さまほど王太子妃に相応しい令嬢なんていやしませんよ。今は殿下を信じて待って、次の時に改めて懐中時計をお受け取りになったらいかがですか?」
次から次へと湧きあがる後悔。メイド長の労りに満ちた言葉が、今はむしろ辛く感じる。
どうして自分は、もっと大人になって物事を考えられなかったのだろう。こんなにも自分勝手で醜い姿を、たった一人で必死に頑張っているイスクレムに見せるべきではなかった。
リュスティは立ち上がり、部屋の奥にあるベッドに倒れ込む。
自責の念と、それでもまだ二人きりの逢瀬を諦めきれない自分自身に対する失望。いつの間にか、メイド長は側からいなくなっていた。
「クレム、ごめんなさい……」
先ほどの身勝手なものとは違う涙が、両目からあふれて頬を濡らす。リュスティは後悔と罪悪感を抱えたまま、ただ涙を流し続けていた。