➂
「お姉さま、お兄さま!」
リュスティは庭の片隅に無言で立ち尽くす姉と、蒼白な顔をした兄を見つけた。
巣穴の近くには、兄の愛犬グルドが口の周りを血に染めた状態で立っていた。その足元には、成獣と思しき二羽の兎が血に染まって倒れている。庭に住んでいた野ウサギの一家は、親ウサギが二羽に子ウサギが七羽の“九羽家族”だとメイドは言っていた。
ということは、倒れているのは親兎だろうか。
野ウサギ一家はモルゲンレード家のペットというわけではないが、野生にしては人懐こい彼ら一家に、姉リューセンデは人参や葉物野菜などを手ずから与え非常に可愛がっていたらしい。
「あ、姉上……! 申し訳ございません……!」
兄は震えながら姉に頭を下げ、顔を上げると同時に胸元から薄い銀の刃を取り出した。
「グルド! 座れ!」
主の叱責に、グルドは耳をぺたんと伏せながら大人しく指示に従い座る。そんな愛犬に目がけて、兄は手に持っていた銀色の刃を迷いなく投げた。
「……っ!? 待ちなさい、シルヴェル!」
庭に響き渡る姉の叫び声。だが時すでに遅く、刃は空中を真っ直ぐに飛び吸い込まれるようにグルドの首元へと突き刺さっていく。
グルドはキャン、と一声悲鳴をあげ、そのまま地面にゆっくりと横倒しに倒れ込んだ。
「きゃあぁ、グルド! シルヴェルあなた、なんてことを……!」
「仕方がありません。俺の犬の不始末です。姉上の可愛がっているウサギを殺した。主人である俺が、その責任を取らなければなりません」
兄は青褪めながらも、両足を真っ直ぐに踏ん張り倒れた愛犬を睨みつけている。
「馬鹿! よく見なさい!」
姉は倒れた犬に駆け寄り、ドレスが血に染まるのも構わずハンカチを首元に押しつけている。そして“野ウサギ”の亡骸に厳しい眼差しを向けた。リュスティと兄は、困惑しつつ姉の視線を追う。
巣穴の前で、ぴくりとも動かない二羽の兎。茶色の毛並みに、半分閉じられた蒼い目。額の中心にあるその目は、虚ろで光を宿していない。
「こ、これは野ウサギじゃない……! 氷目兎だ……!」
──氷目兎。
人間が持ち得ない氷雪系の魔力を宿す一つ目の魔獣。単眼であるというだけで見た目は普通の兎と変わらないが、唯一にして絶対的に異なる部分が一つだけある。
それはこの魔獣が肉食だということだ。
「グ、グルド、まさか、お前は……」
兄はぶるぶると震え出した。その顔色は蒼白を通りこし、紙のように真っ白になっている。
「……グルドは野ウサギたちを守ってくれていたのよ。ほら、見てごらんなさい」
巣穴の中から、恐る恐る顔を出している野ウサギの親子。九羽すべて揃っている。
「あぁ、俺はなんてことを……! グルド、グルド! すまない、お前が理由なく弱いものを嬲るなど、あるはずもなかったのに……!」
愛犬の亡骸に駆け寄って取り縋り、声をあげて泣く兄と失望と悲しみの入り混じった複雑な顔で目を伏せる姉。悲痛な表情の二人を見つめるうちに、幼いながらもリュスティは自分もなにかしなければ、と考えた。
だがどうすればいいのだろう。
(泣かないでお兄さま。悲しまないで、お姉さま。それから起きて、グルド)
迷った末に、リュスティは祈った。
こんなことをしたところでなんにもならないことは、リュスティにもよくわかっている。けれど、ただひたすら一生懸命祈りを捧げていた。
(……?)
目を閉じて必死に祈るリュスティの瞼の裏へ、次第に不思議な光景が映る。
今よりも幼い兄の顔。
ふかふかの布が敷き詰められた籠。
爽やかな風が吹く屋敷裏の森。
遠くに投げられ、放物線を描く木の棒。
か弱い野ウサギ一家を狙う魔獣。
恐怖に怯えるウサギたち。
怒りの眼差しでこちらを見つめる兄。
飛んでくる、銀の刃。
「あ……」
リュスティは祈りの手をほどき、両目を大きく見開いた。
心に、何者かの感情が流れ込んでくる。
番犬としての誇り。か弱きものを襲う輩に対する怒り。討伐を成し遂げた達成感。褒められる、と思っていた期待。困惑と恐怖。そして、絶望。
「これはグルドが見たものと、グルドの気持ち……?」
その時リュスティは兄の愛犬と記憶と視界を共有し、そして感じ取った。
──胸を締めつけられるような、忠犬の悲しみと無念さを。
「グルド、あなたはこんなにもお兄さまを思ってくれていたのね。……おいで、大丈夫だから」
そう呟いたとたん、リュスティの両手から黒と白、灰色が混じったような靄が生み出された。
靄はまるで生き物のように地を這い、呆然とする兄と姉をすり抜け、動かないグルドを包み込んでいく。
「リュ、リュスティ? これは一体なんなの?」
「な、なんだ、この煙のようなものは」
戸惑う兄と姉の前で、靄はグルドの身体に吸い込まれていく。そして完全に吸収された直後、魂が虹の橋を渡っていたはずのグルドが静かに目を開けた。
「グルド!? グルド、お前、大丈夫なのか……!?」
兄シルヴェルは声をあげて泣きながら、いまだ血に染まった愛犬の首にしがみついた。グルドはくうん、と甘えたように鳴き、主の頬に流れる涙をペロペロと舐めている。
「リュスティ、あなた……」
姉リューセンデは蘇った弟の愛犬と妹の間で視線を往復させていた。リュスティは姉の顔に浮かぶ驚愕と困惑に怯みながら、なんとか説明をしようと試みる。
「わ、私、お兄さまとお姉さまが悲しそうにしているから一生懸命お祈りしていただけなの。そうしたら、グルドがとってもお兄さまを好きだって気持ちが流れ込んできたわ。……でも、グルドがすごく泣いていて」
実際には泣き声を聞いたわけではない。だが、あの悲しみを表現するには“泣いていた”というのが一番だと思った。
「泣いていた、か。そうだろうな、グルドは野ウサギ一家を守るために奮闘したというのに浅はかで愚かな俺に裏切られ、無残に殺されたのだから」
兄は涙声で呟きながら、震える指でグルドの暗灰色の毛並みを撫でている。
「ううん、違います。そんなのじゃないの。グルドが泣いていたのは、もう二度とお兄さまの側にいられないと思ったから」
「……俺の、側にいられないことを、気にして?」
「はい、そうです」
「すまないグルド、許してくれ……! もう二度と、お前を裏切らないと誓うから……!」
庭に響き渡る、兄の慟哭。
それなのに、護衛やメイドが誰も近づいてこない。それどころか、いつの間にか遠くへ離れていたことにリュスティはようやく気づいた。
「お姉さま?」
姉リューセンデが片手を後ろに回している。自分たち三人のもとに誰も近づかないよう、素早く指示を出していたらしい。
「これは大変なことになったわ。リュスティの闇属性がもたらす能力がまさか、“死者蘇生”だったなんて」