死者と令嬢
真円の満月が夜空に浮かぶ、深夜の森。
獣の遠吠えと、空気を切り裂く鋭い音。固い何かが砕けるような、破壊音。
「ご令嬢、ここはあまり安全とは言えません。どうかもう少し後ろに下がっていただけないでしょうか」
溜め息をつきながら、煙水晶の眼鏡縁でできた単眼鏡を指で押し上げる青年。神経質そうな顔に、爆風にあおられ乱れた緑の髪がはらりとかかっている。
「ノールは心配性ね。大丈夫。エルスカーは距離感とかそういうの、きちんとわかっているもの。私に被害がないように考えているはずよ。ね? シェーリヘット」
“ご令嬢”と呼ばれた少女は青みがかった桃色、薊色の長い髪を人差し指にくるくると巻きつけながら澄ました顔で隣に立つ女性に目を向けた。
「えぇっと、どうでしょう。エルは夢中になると周りが見えなくなることがあったりなかったりですので……」
茶色の髪をした妙齢の女性は、両手の指を組んだまま気まずそうに首を縮めている。
「いやー、あれは確実にこっちのことなんて気にしてないよね。見てよ、スティエルネなんてめちゃくちゃ楽しそうに笑ってるもん。ノールの言う通り、避難すべきだと思うよー、リュスティさん」
大げさに両手を広げ、肩を竦めているのは黒髪の娘。意志の強そうな紫の目には、呆れが浮かんでいる。
「ポラーリス。ご令嬢に対してその口の利き方はどうかと思うぞ」
「別にいいじゃん、本人が名前で呼んでいいって言ってんだしさぁ」
「まったく、十八歳にもなってその子供っぽい物言いはなんだ。恥ずかしいと思わないのか」
「十六歳の成人すぎたらキレイな言葉使いをしなきゃいけないって法律でもあんの? ないでしょ? あんたムカつくんだよ。だから友達いないんじゃん」
「うるさい! 大体、友達とやらがなんの役に立つ? 役に立たない者など、いないほうがマシだな」
「ちょっと二人とも、喧嘩なんかしないでちょうだいよ」
もめる緑髪の青年と黒髪の娘の間に、茶髪の女性が割って入る。
薊色の少女は苦笑を浮かべながら、そっと背後を振り返る。
視線の先には、フード付きの黒い外套を羽織った人物が木に寄りかかっているのが確認できた。フードをかなり深くかぶっているせいで、どんな表情をしているのかよく見えない。
「……あなたもお手伝いしたらどうかしら?」
薊色の少女が声をかけると、フードの人物が顔をあげた。左耳に、青く輝く蒼玉の耳飾りが揺れているのが見える。
「いやー、俺の出番はないんじゃないかな。人狼クンと聖女サマで充分でしょ」
ヘラヘラと笑うフード男をひと睨みしたあと、少女は顔を前に戻す。特に怒ってはいない。彼の言っていることは、間違いではないからだ。
少女が静かに見つめる中、二つの人影が躍る。
一つはしなやかな体つきの女性。黒と白の尼僧服を着ている。しかし、その手に持つのは神の守護印ではなく、漆黒の鎖。その先には、大きな鉄球が繋がれている。女性はその巨大鉄球を軽々と振り回し、群がる魔獣をなぎ倒していく。
その動きは恐ろしさを感じるほど優雅で、神聖さすら覚える。
「スティエルネ、そいつらを一掃しろ!」
もう一つの人影は、明らかに人のものではない。その人影が発する指示に従うように、尼僧服の女性は静かに呪文を唱え始めた。女性の全身を星屑のような銀の光が包み、鉄球が淡く光り始める。鎖はまるで波打つように上下に動き、鉄球の輝きはますます増していく。
女性は魔物に向かって鉄球を放った。鉄球は疾風のように空を切り裂き、魔物の群れに向かって真っすぐに突っ込む。信じ難い攻撃を受けた魔獣たちは、まるで風に舞う木の葉のように次々と吹き飛んでいく。
「あとはオレに任せろ」
「あら、もういいんですの?」
残念そうな声を無視するかのように、ひと際大きな咆哮が響き渡る。
満月を背後に空中に飛び上がった人影は、巨大なかぎ爪を眼下に向かって振りおろした。肉が切り裂かれる音とともに、深紅の血飛沫が吹き上がっていく。
「エルスカー! スティエルネ! あと五分以内で片づけてくれるかしら!」
少女が叫んだ直後、激しい地響きとともに土煙があがった。
「五分もいりませんわ、もう終わりました」
「すまない、つい夢中になった」
土煙の向こうから現れたのは、鉄球を担ぐ尼僧服の女性と二足歩行をする筋骨たくましい狼の二人。
「お疲れさま、エルスカーにスティエルネ。当分はこの森も安全ね」
薊色の少女は二人に労いの言葉をかける。
「とんでもございませんわ。お嬢さまの安眠を妨げる輩は、すべからくぶっ殺すべきですもの」
尼僧服の女はおっとりとした表情を崩さないまま、自身の水色の髪についた埃を片手で払っている。
「お帰りなさい、エルスカー」
「ただいま、シェリー。怪我はなかったか?」
灰銀の毛並みを持つ狼は、駆け寄ってくる茶髪の女性をしっかりと抱き締めた。
嬉しそうに目を細めながら厚い胸板に頬をすり寄せる女性の髪を撫でる狼の手が、どんどん人間のそれに変化していく。
「……まったく、ウルヴ君は相変わらずだな。ご令嬢の御身を気遣うよりも細君の怪我を気にするとは」
「なに今さら。あの人、最初からそんな感じだったじゃん。大体、人狼族ってそういう種族でしょ」
渋い顔をする緑髪の青年の脇腹を、黒髪の娘が肘でつっつく。
「しかし、我々は傷を負ったところでなんのダメージもないんだぞ? この中でもっとも傷ついてはいけない御方をないがしろにするとは──」
「はいはい、わかったわかった。っていうか、あんたって本当に頭固いね」
──周囲は一気ににぎやかになる。
その光景を見つめながら、薊色の髪の少女リュスティ・モルゲンレードはかすかに笑みを浮かべた。
“もっとも傷ついてはいけない御方”
それは自身の公爵令嬢という身分とはまったく別のところにある。リュスティ以外のここにいる全員はどれだけ身体が傷ついても、痛みや苦しみを感じることはない。
なぜならば、彼らは死者だからだ。
リュスティは王命により、とある事件を解決するために、こうして死者の軍団を率いている。