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バイオレント・ピーク  作者: 夏人
第一章 餌食の本懐
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 なんか、おかしくねえか。

 ベンケイのそのふと胸中をよぎった感情に特に根拠はなかった。強いて言うなれば、山小屋への帰り道の途中。車の助手席からなんとなしに土の上を眺めていたベンケイは一カ所、不自然に濡れそぼっている地面があることに気がついた。

 まるで何かを洗い流したかのようだった。だが、先日まで雨が降っていたことを考えると、頭上の木の葉にでもたまった水が何かの拍子で落ちてきたり、山のちょっとしたくぼみにたまっていたのが傾斜を伝って流れ出てきたりしたのだと考えられないこともなかったので、特にその場では気にならなかった。

 だが、車を降り、クロダと別れて山小屋の玄関の前にまで来たとき、急にベンケイの一抹の不安というか、ちょっとした胸騒ぎというか、とにかく落ち着かないものが大きく膨れ上がった。それがなんであるかはわからなかったが。

 ベンケイは無線を取り出し、呼び掛けた。

「おい。ヨシツネ」

 返答がない。代わりに返答したのはタケルだった。

『ヨシツネなら、山小屋にいるよ』

「連絡があったのか」

『いや、GPSだよ。さっきまで林の中をうろうろしてたんだけどね。一時間ほど前に山小屋に戻ったよ。位置的に、多分寝室かな』

ベンケイは無線を切った。

 あの後、ベンケイはクロダとともに来るまで森中を探し回った。とはいえ、車が通れるコースは限られている。遠隔で見張っているタケルとヒジカタからも連絡がなかったことから、兎はまた一旦身を隠したのだろうと言う結論になった。

 午後からは徒歩で探索する。各自休んでおけとクロダは伝令を出し、ベンケイをここまで送った後、車で山頂に戻っていった。

 ヨシツネはもともと昼寝が多いやつだ。とりあえず目についた林を探索してみたが歩き疲れ、休んでおけと指示があったから素直に仮眠をとっている。別に不自然でも何でもない。

 だが、さっきから一度も無線に反応していない。寝ているとしても、仕事中は枕元にトランシーバーを置いておくやつだったはずだ。

 ベンケイは猟銃を構えた。上下二連式の散弾銃だ。ベンケイの猟師としてのキャリアはもうすぐ十年になる。

 ベンケイはどこにでもいる中年の男だった。若い頃はその巨体を生かしてラグビーに打ち込み、社会人になってから趣味でクレー射撃を始めた。勿論、猟銃所持の許可証も持っている。数年後に狩猟免許も所得した。今ではシーズンに地元の友人と鹿や猪を撃ちにいくこともしばしばだ。充実した人生と言える。しかし、金遣いが荒いのと、賭け事に目がないのが欠点であった。

 ギャンブルの借金で首が回らなくなっていたベンケイにとって、この仕事はあくまでも闇営業。割りのいい裏バイト、出稼ぎのようなものだ。

 鹿のように逃げ足が速いわけでも、猪のように危険があるわけでもない。ただ逃げ惑う人間を撮影しながら撃てばいいのだ。こんなに簡単な仕事はなかった。

 だが、今回は何かが違う。

 ベンケイは扉のドアノブを睨み付けた。

 いつもなら開けていただろう。

 躊躇なく室内に入り、まっすぐ寝室に向かい、「おい。ヨシツネ。いつまで寝てんだこら」と本名も知らない相方をストレス解消がてらにたたき起こしていただろう。

 だが、ベンケイの顔面は今、火傷でただれていた。

 この仕事が片付くまでは病院にも行けない。傷は常にじくじくと痛み、ついに膿も出てきた。

 何の危険もないはずの牝の兎だった。ただの無力な獲物であったはずのやせっぽちの女に、ベンケイはこの顔を焼かれたのだ。

 その経験は、豪胆なはずのベンケイの警戒心を大幅に引き上げていた。

 ベンケイはすっと扉から離れた。

 抜き足差し足で、玄関の側面に回る。一カ所、顔を押しつければわずかな隙間から玄関の様子を探れるはめ殺しの小窓があるのだ。

 ベンケイは気配を殺して、小窓に近寄り、そっと玄関を覗いた。

 正面扉の内側のドアノブには、一本の紐が括り付けられていた。だらんと弛緩したその紐は、廊下へと伸びている。廊下はリビングへとまっすぐ延びている。その途中に寝室のドアがあるのだ。たるんだ紐はそれを通り越してリビングの入り口まで続いていた。

 なんだ? ありゃあ。

 ベンケイは廊下に続く紐を目で追っていき、そして戦慄した。

 廊下の奥にはリビングテーブルがせり出されていた。その上にクロスボウが置かれている。そのクロスボウに紐は繋がっていた。

 クロスボウはガムテープで机の上に固定され、その引き金に紐がつながれていた。いったんテーブルの脚などに紐を経由させることで、紐が引かれると引き金も引かれる仕組みになっていた。そしてクロスボウの先端はまっすぐに入り口に向けられている。

 つまり、扉を開けると、たゆんだ紐が徐々に引かれ、ドアを開けきったところでピンと張った紐がクロスボウの引き金を引き、扉を開けた人物に矢が放たれるのだ。

 なんてものを作ってやがる。

 ベンケイは猟銃を握りしめた。兎だ。森を逃げ回っているとばかり思っていたあの女が、実際は山を登ってきてやがったんだ。

 そして、クロスボウがこのように使われていることからわかる揺るぎない事実。

 ヨシツネが、やられた。

 おそらくヨシツネの発信機をつけたあの女が、リビングと玄関の間に位置する寝室で息を殺してベンケイを待ち受けている。

 このトラップで仕留めきれるとは思っていまい。きっと他に武器を用意していているに違いない。トラップの作動音を聞いた瞬間、寝室から廊下に飛び出して、トラップで負傷して動けなくなったベンケイにとどめを刺すつもりなのだ。

 ふざけやがって。そうはさせるかよ。

 ベンケイは再び忍び足で動き始めた。窓に映らぬよう、その大きな身体を丸めて、家の周りを移動する。

 うまいこと罠をはったつもりだろうが、現実は映画のようにはいかないんだよ。

 家の周りを回りながら、ベンケイは無線でクロダたちに連絡を取ろうかと考えたが、すぐにかぶりを振った。ヨシツネがやられたと言うことは、相手も無線を傍受できる。玄関の罠に感づいたことがバレてしまう。

 ベンケイは裏口に回った。正面玄関のちょうど反対側だ。リビングに直接繋がっている。

 正面玄関と同じようにベンケイは小窓からリビングの様子を伺った。リビングはテーブルを廊下に動かされたせいでがらんとしていた。よし。トラップも待ち伏せもない。裏口に回られることは予想していなかったのだろう。きっと、女は寝室の扉に耳をあて、正面玄関が開くのをいまいまかと待っている。そこを前触れもなく襲ってやる。

 ベンケイは慎重にゆっくりと裏口のドアノブを回した。しかし、鍵がかかっている。まめなヨシツネが小まめに施錠していたことを思い出す。

 ベンケイは舌打ちをしてしまいそうになるのを押さえ、銃を片手で保持し、もう片方の手でポケットを探る。音を出さないように細心の注意を払いながら黒革のキーケースを取り出した。片手の手探りでつながれた鍵の一本を選び、ドアノブの鍵穴に差し込む。

 しかし、なかなか鍵が穴に入らない。鍵を間違えたか?

 ベンケイは苛立ちながら猟銃を壁にそっと立てかけた。キーケースを確認した。鍵は合っている。

 ベンケイは困惑して鍵穴を見た。そして、その鍵穴に砂が詰め込まれていることにようやく気がついた。

「あんた、バカでしょ」

 突然の背後からの声に、びくりと反射的に振り返る。たった数メートル後ろにあの女が立っていた。思わず見入ってしまうような美しい姿勢で弓を構える彼女は、なんの表情も作らずに言った。

「罠に気がついたんでしょ」

 ベンケイの目はあずさの構える矢に釘付けになった。矢じりがギラリと光る。

「逃げなさいよ」

 次の瞬間、ベンケイの右肩に矢が突き刺さった。

「ぐああ!」

 後ろに倒れそうになるほどの衝撃。そして激痛だった。とっさに身をよじらなければこの矢は心臓に突き刺さっていたのだろう。

 女は少し驚いた顔をしていた。まるで的が動くなど想定していなかったように。しかしすぐに表情を消して、次の矢をつがえる。

「なめんなあああああ!」

 ベンケイは身体を起して女に突進した。女はベンケイが到達するまでに矢を放った。それはベンケイの左肩に直撃したが、ラグビーで鍛えたベンケイの足腰は止まらなかった。そのまま女にタックルをかます。女は車に轢かれた小動物のように一瞬宙に浮き、間髪入れずにベンケイの巨体とともに地面に叩き付けられた。弓がどこかに飛んでいく。

 女に馬乗りになり、その顔面にベンケイは拳を叩き込んだ。鼻血が吹き出す。

 もう一発と振りかぶったベンケイの足に衝撃が走った。見ると女の右手に握られた折りたたみナイフがベンケイの左の太ももの側面に突き刺さっていた。

 女はそのナイフを引き抜こうと右手に力を込めたが、その上腕をベンケイが殴りつけた。たまらず女が手を離す。続けてベンケイは女の腹に渾身の拳を叩き込んだ。女は息がつまる音を出し、やがてベンケイの身体の下でぐったりと動かなくなった。

 手間かけさせやがって。

 ベンケイは立ち上がると、女の後ろで何重にもまとめられた黒髪を右手で掴んだ。そして山小屋へと引きずる。

 髪を掴まれて引きずられる痛みで目を覚ましたのか。女が暴れ出した。どこから出したのかはさみを手にしていて、それで何度もベンケイの髪を掴む手をガッガッと攻撃した。

 だが、そのはさみは刃の先端が丸くなった子ども用の小さなものだった。ベンケイは当然手を離すことはない。

 正直、あのまま庭先で殴り殺してもよかった。しかし、ベンケイは今、火傷のせいで頭にカメラをつけることができなくなっていた。どうせならカメラの前でなぶり殺しにして金に換えてやりたい。山小屋のリビングの天井の隅にはカメラが設置してあった。獲物を生け捕りにしてリビングに運び、ゆっくり嬲る時のためのカメラだ。ちょうどいい。

 ベンケイは裏口の扉を蹴りつけた。薄い扉はあっけなく開放される。ベンケイは天井の隅のカメラに撮影中の赤いランプがついていることを確認しながら、リビングに土足で上がった。相変わらず女は暴れている。活きがいいじゃねえか。お客さんも喜ぶぜ。

 ベンケイがカメラに向けてニタリと笑みを浮かべたときだった。ベンケイのブーツが柔らかいものを踏みつけてずるりと滑った。慌てて左手をついた先にも同じものがあり、ベンケイはもんどり打って床に倒れた。

 ベンケイは自分の左の手の平についたものを見て瞠目した。

 オムライスだ。今朝、ベンケイ自身が作った半熟とろとろのオムライス。それが無造作に床に置かれていたのだ。小窓からは確認出来ない、裏口から考えなしに入ればちょうど踏みつけてしまうような絶妙な位置に。

 この女。よくも俺のオムライスを。

 床に派手に転倒したベンケイだが、右の手に握った女の髪は意地でも離さなかった。うなり声を上げてその髪を思いっきり引き寄せた。この左手についたオムライスを女の口に押し込んでやる。そう思ったのだ。

 しかし、ベンケイは再び床の上を転がった。引っ張った髪にかかるはずの女の体重が全くなく、バランスを崩したのだ。ベンケイは握っていた髪の束を見て唖然とした。その数十センチはあろうかという黒髪は根元から先がなくなっていた。ちぎれたのではない。切り離されていた。

 あのアマ、はさみで自分の髪を切りやがった。

 ベンケイはとっさに裏玄関の方を振り返った。いない。裏玄関を飛び出して行ったのか。

 慌てて立ち上がろうとしたベンケイは、背後から思いっきり顔面を殴りつけられた。

 背中に回られたのか。いつの間に。

 振り返るベンケイの顔を再び女が殴りつける。ベンケイは体勢を立て直そうとしたが、オムライスで滑ってなかなか立ち上がれない。女はそんなベンケイを、うなり声を上げながら殴り続けた。短くなった黒髪が女の頬で揺れる。一発。二発。三発。

「うがああ!」

 ようやく立ち上がったベンケイはがむしゃらに腕を振り回した。女が体勢を落とし、ベンケイの腰にしがみつく。だが、当然のようにベンケイの巨体は女の体重ではびくともしない。

 この俺とタックル勝負しようってのか。バカが。

 しかし、女の目的はベンケイを押し倒すことではなかった。女はベンケイの太ももに刺さったナイフを逆手に掴むと、一気に引き抜いた。

「ぐああああ!」

 血が吹き出る。女はそのナイフをベンケイの脇腹めがけて振りかぶった。刃が到達するよりも一瞬早く、ベンケイの蹴りが女の腹に直撃した。

 女がもんどり打って倒れる。ベンケイも尻餅をついた。蹴りを食らった衝撃で、折りたたみナイフは女の手を離れ、リビングの床の隅に滑るように転がっていった。

 一瞬の沈黙が走る。

 ナイフへの距離は、女の方が幾分近い。

 女の目は、部屋の隅のナイフを捉えていた。その目を、ベンケイは捉えていた。

 女がやおら体勢を起した。その顔にベンケイは右手に握っていた黒髪の束を投げつけた。縄のようにうねった髪は女の顔を打ち、女が一瞬ひるむ。

 その隙に、ベンケイはナイフに突進した。ラグビーで培った瞬発力だ。

 先にナイフを拾い、後ろから追いすがる女を串刺しにしてやる。

 女が動いた。だが、ベンケイの方が速かった。

 ベンケイは女を追い抜いた。女は追ってきたが、完全にベンケイの背後だった。ベンケイは勝利を確信して床に手を伸ばす。さあ、終わりだ。

 あと数センチでナイフを掴む。そのタイミングで、ベンケイの動きが止まった。身体が後ろに引っ張られる。

 そこに来てようやく、ベンケイは女の目的に気がついた。女の狙いはナイフという武器ではなかった。自分に背中を向けたベンケイそのものだったのだ。

 だって、もう、武器は手にしていたのだから。ご丁寧にベンケイ自身が投げて渡したのだから。

 ベンケイの首に、長い黒髪の束が蛇のように巻き付いていた。

 ベンケイの喉を締め付け、首の後ろでクロスさせた黒髪の両端を握りしめ、女は渾身の力で引っ張った。たまらずベンケイはナイフを掴もうと出していた両手で宙をかきむしりながら後ろ向きに倒れる。女も自然、背中から床に叩きつけられたが、一切怯まない。それどころか体勢を変え、両の足の裏でベンケイの肩甲骨を踏みしめるようにして、女は全体重を両腕にかけた。

 気道を完全に塞がれたベンケイがもがく。身体を起そうとのたうち回る。だが、床一面に散らばったオムライスで両手足は滑るばかりだった。

 女は荒い呼吸の中、ベンケイの耳元で呟いた。

「よかったじゃない。好きなんでしょ。オムライス」

 ベンケイが声にならないうなり声を上げる。バタバタと手足がうねり、力任せに女の手や足を打つ。だが、女の力が緩まることはなかった。

「よかったじゃない」

 ただの獲物であったはずの女、神城あずさは静かに呟いた。

「好きなんでしょ。黒髪ロング」

 次の瞬間、脛骨の折れる音とともに、ベンケイはその意識の全てを喪失した。


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