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バイオレント・ピーク  作者: 夏人
第一章 餌食の本懐
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 あずさは坐射の姿勢で足音を聞いていた。

 あずさは草むらの中にいた。つま先を立てた状態で膝をついていた。身体の向きは林道と並行になるように。夏の間に延びたのであろう草木がちょうどひざまずいたあずさの頭までをすっぽりと覆い隠していた。注意深く見ればスーツの生地やまとめられた後ろ髪がちらちらと葉の隙間から覗けただろう。しかし、足音の主にその様子はなかった。なぜか上機嫌で林道の土の上をざくざくと歩いてくる。全くの無警戒だ。

 無理もなかったかもしれない。

 今のあずさからは一切、殺気が漏れ出ていなかったからだ。いや、漏れていないと言うよりもそもそも殺気自体が皆無であったと言ってもいい。

 あずさはぼうっと、自分の曲げた膝の先を見つめていた。そこにあるのは草が生い茂った、なんてことはない地面である。だが、あずさの目には、それが木製の床に映っていた。数多の人間が足袋で歩き回り、磨き上げられた黒光りする床。弓道場の床板。

 足音が、あずさの側に近づき、そして、通過した。

 あずさは弓を顔の前に掲げるように上げた。目の前で右手に持っていた矢を弦につがえる。その姿勢のまますっと立ち上がった。無駄のないその動作に、足下の土も、生い茂る草でさえ、なんの音も立てなかった。

 男の背中が見えた。迷彩服のジャケットを着た背中だ。片手にクロスボウを持ち、もう片方の手にトランシーバーを握っている。

 あずさはその男をぼおっと見ながら、身体の向きを調整した。自分の左肩の先に男が来る立ち位置を見つけた瞬間、あずさの目にその男は白く丸い的に映った。

 あずさはその的を見据え、幾度となく幾百となく繰り返してきた射法八節の動きを淡々と行った。

 足踏み。胴造り。弓構え。打ち起し。引き分け。会。

 その後に及んでも、あずさからは一切の殺気というものが発せられることはなかった。当然だ。

 あずさは的に向けて弓を引くだけなのだから。

 冷静だった。あまりに沈着だった。落ち着きが過ぎていた。

 緊張から無縁で、迷いなど一切なく、やると決まったことをやるだけ。

 あの日、会場の選手全員を、観客をも飲み込み、三ツ矢葉月を戦慄させた、まるで機械を思わせる無表情。無関心とまで思える一切揺るがない視線。

 本当の、本来の神城あずさという人間が、そこにいた。

 離れ。

 和弓より幾分鈍い音とともに矢が放たれた。

 的中。

「あ!? ぐあ、あ、ああ! ぎゃあああああああああ」

 随分変わった的中音だなと、あずさは残心の姿勢をとりながら思った。




 はっと我に返ったあずさはすぐさまその場にしゃがみこんだ。ほぼ同時にさっきまであずさの頭があった箇所をクロスボウの矢が通過し、背後の木の幹に突き刺さった。

 危ない。

 あずさは先ほど見ていた、意識の外でははっきりと見えていた光景を脳内で再生した。後ろから右太ももを貫いた矢に驚愕の表情を浮かべる男。道端に落ちたトランシーバー。赤黒く染まっていくズボン。そして、男は叫びながらクロスボウをあずさに向けた。

 相手はまだ生きているのだ。残身の型で固まっている場合ではなかった。

 あずさはしゃがみこんだまますぐさま次の矢を準備する。こんなことなら二本目の矢、弓道でいうところの乙矢もあらかじめ指に挟んでおけばよかった。

 腰に縛り付けた筒に手を伸ばす。富士の水のペットボトルつなぎ合わせて作った。矢筒だ。抜き取った矢を弓につがえる。

 顔を出した瞬間、撃ち合いになるかもしれない。

 早撃ちでは分が悪い。

 そう判断したあずさは矢をつがえた弓を腰だめに構えたまま一気に道に躍り出た。道に転がった姿勢では、一カ所を狙い続けることは出来ても、動く目標に対して瞬時に狙いを定めることは難しいと読んだのだ。

 しかし、スライディングさながらに道に飛び出して弓を構えたあずさは面食らった。

 いない。

 林道の土の上には転がったトランシーバーとまき散らされた血痕が残るのみだった。

 どこだ。どこに行った。

 あずさは血痕に目をこらした。わずかに左側に滴った痕がある。

 視線を伸ばすと、足を引きずりながら必死に林をかき分けるヨシツネの姿が木々の間に見えた。

 あずさはその背に向けて瞬時に構えて矢を放った。射法八節をおろそかにしたせいか矢はわずかにそれ、ヨシツネの隣の木に突き刺さった。ヨシツネが「ひい!」と声を上げる。

 逃がすものか。

 あずさも林に飛び込んだ。

 鬼ごっこが始まった。




 ヨシツネは叫んでいた。自分が何を叫んでいるのか、意味のある言葉になっているのかもわからなかった。それほどの痛みと恐怖だった。

 ちくしょう。俺だったんだ。始めから俺が狙いだったんだ。

 発信機の囮はおびき出すためではない。引き離すためだったのだ。相手が複数だったら勝ち目がないから。あえてばればれの囮を川に放って。あとは唯一、判明している敵のアジトの山小屋の近くに潜んで。じっと、息を潜めて人数が減るのを待っていたんだ。しびれを切らした俺が、単独行動に出るのをひたすら待っていやがったんだ。

 ヨシツネは自分の右の太ももを貫通している黒い矢を見た。長い矢。クロスボウの矢としては異例に長い70センチのカーボン製の矢。

 俺の矢じゃないかちくしょう。

 さっきちらりと見えた女は弓を構えていた。弓だぞ。何でそんなものを持っている。どこに隠し持っていた。意味不明だ。

 助けを求めるべきだ。だが、トランシーバーを落としてしまった。連絡がとれない。

 仲間たちは今、森にいる。遠隔で見張っているタケルたちも、今は森にあるカメラの映像を血眼で見ているに違いない。だって予想できるはずがない。あの女が、獲物の兎が、森から逃げないどころか、逆に山を登ってきているなんて。

 反撃するべきか。クロスボウは手に持っている。だが撃つためには矢を装填しなければならない。矢自体は走りながらも銃身に挟み込むことが出来た。問題は弦を引けるかどうかだ。足で先端を踏んで、両手で引っ張って。

 ヨシツネは後ろを振り向き、目を見開いた。

 女がすぐ側まで迫っていた。

 なんてスピードしてやがる。

 一か八かだ。

 ヨシツネは立ち止まるとクロスボウの銃身を下げ、フットスティラップを右足で踏みつけた。力を入れると、体重が右足に集中し、矢が刺さった太ももから血が噴き出した。

 痛え痛え痛え痛え痛え!

 弦を両手で引っ張る。ぐうっと両手が上がるが、あと一歩のところで力が入らない。通常の矢ならもうカチリと音が鳴っているはずなのに。

 長い矢にしたせいで。

「ぐあああああ!」

 カチリ。

 入った。ヨシツネが涙目で安堵したその瞬間、追いついたあずさの跳び蹴りがヨシツネの胸に直撃した。

 もんどりうって倒れる。しかも背後は急勾配になっており、ヨシツネは木々にぶつかりながら数回転した。一際大きい木の幹に背中がぶつかり、回転が止まる。しかし、その最後の衝撃でクロスボウの引き金を引いてしまい、矢はあさっての方向に飛んでいった。

 女はゆっくりと降りてきた。矢を弓につがえ、ヨシツネから数メートルのところで立ち止まり、弓と矢を持った両手を頭上に上げたかと思うと、ゆっくりと降ろしながら引き分ける。

「ま、待て。待ってくれ」

 女が待つはずがなかった。矢じりが、ヨシツネが鋭さを追求して選んだ特注品の矢じりが、鈍く光りながらヨシツネに先端を向ける。

 それを見たヨシツネの口から出たのは、恐怖のあまりであろう、まるで幼子のような単純な言葉だった。ただ忌避の感情を意味する二音。

「やだ。やだやだやだ。ヤだヤだヤだヤだヤだヤだヤだ!」

 女は眉をひそめた。

「矢だ? 駄洒落? 上手くないわよ」

 それだけ言うと女はヨシツネをまっすぐ睨め付け、ぐうっと弦を引き絞った。

 パアアアン!

 弦がすさまじい音を立てた。

 ヨシツネは「ひいいいい」と頭を抱え、身を縮まらせる。

 だが、おかしい。痛みを感じない。外したのか?

 おそるおそる目をあげると、女は呆然と自らの弓を見ていた。弓はしなっていた曲線から、木、本来の直線に形を戻していた。その両端から、麻紐で作られた糸がだらんと垂れていた。

 弦が、切れたのか。

 二人の間に沈黙が降りる。

「ふ、ふはは」

 笑い声が静寂を破った。

「ふははははは。はっはっは」

 ヨシツネは笑っていた。愉快でならなかった。バカが。そんなおままごとみたいな工作の弓で、俺のクロスボウに勝てると本気で思ったのか。

 ヨシツネは背後の木に掴まりながらゆっくりと立ち上がった。相手の弓もどきはもう使いものにならない。対して俺の手には近代武器クロスボウがある。ゆっくり装填してやるよ。

 さあ。逃げ惑え。狩りの始まりだ。

 だが、女は逃げなかった。

 それどころか、まるで予定されていたかのような落ち着きで、ちぎれた弦を弓の両端から外し始めた。

 あ? なんのつもりだ。

 弦の切れ端を除去した女は、あたりをさっと見回し、自分の側の木を見つめたかと思うと、その木の幹の腰ほどの高さにあった小さな洞、空洞に、弓の先端を突っ込んだ。その弓の先にはどこから出したのか新しい麻紐が引っかけられていた。

 こいつ、この状況で、弦を張り直すつもりか。

 間に合うわけないだろ。

 ヨシツネは笑い出しそうになった。笑いたかった。だが、笑えなかった。

 その女の動作にあまりにも無駄がなく、なんの迷いもなかったから。

 ヨシツネは急いで腰の矢筒から矢を抜き取った。

 大丈夫。俺の方が速い。あの状態の相手に装填のスピードで負ける訳がない。

 矢を銃身にセットし、先端を降ろして右足で踏みつける。

 見ると、女は先端を洞に引っかけた弓の反対側に全体重をかけ、弓をぐうううとしならせていた。

 やばいやばいやばい。

 ヨシツネは両手で弦を持ち上げた。右足に激痛が走る。ちくしょうが。

 びいいんと、女の弓に弦が引っかかる音がヨシツネの耳に入った。弦が張り直ったのだ。

「ふうううううううう!」

 ヨシツネは目から血が出るのではないかと言うぐらい顔を真っ赤にして弦を渾身の力で引いた。

 カチリ。

 入ったあああああ!

 ヨシツネは即座にクロスボウを構えた。

 女は、矢を弓につがえた所だった。弦を引いてもいない。

 勝った。

 薄ら笑いを浮かべかけたヨシツネは戦慄した。

 女はクロスボウを向けられているにもかかわらず、意に関しないと言った様子で弓を頭上に上げ、弦を引き分け始めたのだ。

 撃たれる。相打ちになる。先に撃たなければ。撃たなければ。

 ヨシツネは叫んだ。叫びながら引き金を引いた。

 タアアン!

「え?」

 ヨシツネは呆然と呟いた。

 ヨシツネの放った矢は、あずさの頭から数十センチもはなれた隣の木に突き刺さり、ビイインと振動していた。

 え? え? なんで?

「ああ。やっぱり外した? 緊張するとそうなる人、多いのよ。いつもは絶対外さないって距離でも、なぜかあたらなくなっちゃう」

 女は眉一つ動かさずに言った。

 弓が完全に引き分けられる。

「まあ。私は外さないけど」

 ヨシツネはすとんとその場に崩れ落ちた。クロスボウが手から離れ、地面に転がる。

 弓の何倍も狙いやすいクロスボウが外れたのだ。女の矢も外れる可能性は当然あった。理論上は。

だが、女の視線と、すでにヨシツネを射貫く視線に、ヨシツネは確信した。確信させられてしまった。

 この女は、絶対に外さない。

「ねえ。三島明って知ってる?」

 弓を完全に引き分けた状態の女に突然尋ねられ、ヨシツネは「は?」と声を漏らし、すぐに思い出した。牡鹿だ。俺が追い回したあげく、見失った一月前の獲物。

 ヨシツネの表情を読んだのだろう。「やっぱりあなただったのね」と女は続けた。

「あなた、この矢で、彼のどこを射貫いたか、覚えてる?」

 どこを? 矢が突き刺さったまま逃げていった光景は記憶にあるが、身体のどこに刺さったなんか、そんなこと覚えてるわけ・・・・・・

「教えてあげる。右の太もも。それから左の二の腕。つまり、そう」

 刹那、女の右手から矢が消えた。ぽかんと口を開けたヨシツネは、数瞬たって、その矢が自分の左の二の腕を背後の木に縫い付けていることに気がついた。

「そこよ」

 ヨシツネは絶叫した。



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