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バイオレント・ピーク  作者: 夏人
第一章 餌食の本懐
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八歳 夏


 八歳 夏


 齢八歳の少女、神城あずさの朝は早い。

 早朝、五時。鶏小屋の雄鶏が鳴き声を上げるのとほぼ同時にベッドから起き上がる。祖母の真似をして首を左右にひねり(さすがに祖母のようなボキボキという音はしないが)、土間に向かう。あずさはそこにいつも自分の運動靴とつっかけを並べて置いていた。あずさは両足を運動靴に押し込み、土間の土の床をすたすたと歩いた。

 壁には昔ながらかまどが設置してある。二口あり、それぞれに大きな釜がはまっている。土でできたそれは祖母の父、つまりあずさのひいおじいちゃんが作ったと聞いた。いまだに現役なのだから、とても良い出来なのだろう。あいにく、現在はほとんど使われていない。あずさと祖母が二人分の米を炊くには大がかりすぎるのだ。今はもっぱら電気炊飯器を使っている。ただ、祖母は時折、無性に本物の釜で炊いた米を食べたくなるらしく、いつでも使用できるようにと手入れを欠かしていない。

 あずさはそのかまどの隣にとってつけられたように新設されているシンクの蛇口をひねった。井戸水から引かれた冷たい水が勢いよく吹き出し、あずさはその冷水を顔に叩き付けた。これまた祖母の真似をして両の頬を手の平でパンパンと叩く。

「よし!」

 一人気合いを入れた少女は引き戸を開けて外に出るとやおら走り出した。

 家の周りを毎朝三週すること。祖母に言いつけられたあずさの習慣だった。たかが三週と侮ることなかれ。祖母の言う家の周りというのはあずさと祖母が二人で住む古民家をぐるりと囲むように並んでいる畑の外側である。あずさがどんなに頑張っても一週に十分はかかってしまうのだ。

 あずさは水路に足を踏み外さないように注意しながら畑の周りのあぜ道を軽快に走った。夏は良い。みずみずしい野菜が毎日のように実る。あずさは一周目、畑に目を配り、食べ頃の野菜に目星を付けた。

ゴールは家と畑の間に立つ不格好のかかしだった。木の棒を紐で組み合わせただけの雑な作りの骨組みに、あずさの着なくなったお古の服を引っかけるように着せてある。頭は藁を詰めた麻袋だ。鳥よけのためのあずさの手作りである。あずさとほとんど同じ背格好になったこのかかしを、あずさはかかしの直訳「スケアクロウ」と「あずさ」で、「アズサクロウ」と安直に名付けていた。

 三週目に入る際、家の軒下から竹のカゴと剪定ばさみをかすめ取るように手にして、その目を付けていた野菜を走りながら収穫していく。あぜ道から手を伸ばし、スピードをほとんど緩めずにひっつかみ、時にちぎり、時に切りとっていくのだ。トマト。なす。きゅうり。こうしてあずさがマラソンがてらに収穫できるよう、祖母は夏野菜を畑の外側に集中して植えていた。

 三週目を終える頃には竹のカゴは新鮮な夏野菜でいっぱいになっていた。

 あずさはゴールがてらアズサクロウの肩をぱしりと叩くと、家の裏手にある井戸に向かった。たらいに井戸水をくみ、そこに夏野菜をぶち込んだ。冷水の上に鮮やかな野菜がぷかぷかと浮かぶ。実に美味しそうだ。

 あずさは空になった竹のカゴを小脇に鶏小屋に向かった。入り口の金網を開けると、鶏たちは喜び勇んで外に飛び出していく。日光浴が大好きなのだ。鶏は良い。庭の虫をことごとく食べてくれるから、家の中にムカデやらなんやらが入ってこない。

 十数匹の鶏が出払い、がらんとした小屋にあずさは入っていき、エサを追加し、水を交換した。そして巣箱を確認する。一羽の牝が外には目も向けず、巣箱の中でまんじりともせずに座っていた。

「ごめんね」

 そう言ってあずさはその鶏の両の羽を押さえ込むようにして両手で抱えた。鶏は抵抗しようとするが、羽を押さえられてるので首を振ることしか出来ない。あずさがひょいっと床に投げるとバサバサと羽ばたいて高い鳴き声を上げた。あずさに抗議しているのだろう。

「ごめんて」と言いながら、あずさはさっきまで牝が座っていた藁の上を確認した。卵が三つ。あずさはそれを掴むとカゴに入れ、小屋を後にした。


 あずさがキッチンに置かれたガスコンロで目玉焼きを二つ作り終えたところで、祖母が土間からリビングに入ってきた。

「お帰り。山?」

 あずさの問いに祖母は「山だ」と簡潔に答えた。

 祖母は齢八十を超えた今でも、現役の猟師だった。痩せ型で背筋がしゃんとしているので、全く八十代には見えない。あずさは近所の他の八十代の老人を見たことがあるが、皆、足腰が立たなくなっている人ばかりだ。祖母は特殊な人種なのだろう。

 そんな祖母についてくるように、黒と茶色の毛並みを持つ猟犬の「コテツ」が尻尾を振りながらあずさの足にすり寄ってきた。

「こら。コテツ。外にいなきゃだめでしょ。め!」

 叱られたコテツはしゅんと尻尾を降ろしてトボトボと庭の犬小屋に戻っていった。後で目一杯遊んであげよう。

祖母は流石に早朝に銃を持っていきはしなかったようだが、手に膨らんだ麻袋を持っていた。山菜にしては重みがありそうだ。その袋を「ん」とあずさに渡す。

 あずさは想像以上にずしりとしたその袋を受け取り、袋の入り口からチラリと中を覗いた。一匹の黒々とした蛇が、袋の中でとぐろをまいていた。

「なんだ。アオダイショウか」

 祖母はどかりとテーブルの椅子に腰掛け、「マムシよりうまい」と鼻を鳴らした。

「マムシの方がおいしいよ」

「所詮、子どもの舌だな」

 あずさは「はいはい。どうせ子どもですよ」と呟きながら麻袋の入り口を縛って閉じた。こうするだけで蛇は逃げる事が出来なくなる。捌くのは食べる前でいい。

 あずさは袋を調理台の隅に置くと、目玉焼きを皿に取り分けた。皿の隅には朝に収穫したトマトとキュウリの輪切りがのせてある。それをリビングのテーブルに運ぶ。祖母はまたふんと鼻を鳴らした。今の鳴らし方はご満悦な時のやつだ。卵がうまいぐらいに半熟に出来ていたから嬉しかったのだろう。

「あ、ちょっとおばあちゃん! 勝手に醤油かけないでよ。今日はソースにしようと思ってたのに」

 あずさはご飯を炊飯器から取り分けながら叫んだ。祖母が卓上の醤油瓶をあずさの皿にまで傾けていたのだ。

「目玉焼きは醤油と決まっているんだよあずさ」

「勝手に決めないで」

 ご飯とお箸を机に並べ、二人で手を合わせる。

「いただきます」

 数秒間、揃って目を閉じたあと、二人は食事を開始した。祖母は「いただきます」と「ごちそうさま」にはことさら厳しい。うっかり無言で食べ始めて平手打ちを食らったこともあった。「命を食うんだ。それぐらいはやれ」と鼻を鳴らして祖母は言ったものだ。

 あずさは目玉焼きをぱくりと一口で頬張ると、余った三つ目の卵で好物の卵かけご飯を作る。

「あずさ。私のはないのかい」

 あずさは目玉焼きをごくんと飲み込むと「ないよ」と答えた。

「三つしか産んでなかったんだもん」

「老い先短い、年寄りを優先しないのかい」

「未来ある、育ち盛りの子どもが優先です」

 祖母は「はっ」と笑った。

「言うようになったねえ」

 こういうとき、祖母は面白いものを見るような目であずさを眺める。祖母は子どもに言い負かされても腹を立てることはなかった。

 何気ない会話だった。なんのこともない朝だった。

 それが、あずさにとって数少ない、本当に数えるほども無い、家族との幸せな記憶だった。



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