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バイオレント・ピーク  作者: 夏人
第一章 餌食の本懐
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十六歳 秋 二


 十六歳 秋 二


 女子個人決勝は射詰競射で行われた。

 決勝に進出した八人の選手は順番に一本ずつ矢を射ていく。的を外せば、即退場。的中した者は残り、次の矢を射る。つまり、生き残り戦だ。

 一射目で二人が的を外して脱落した。残り六人。

 社会人の試合だと、派手な声援は御法度らしいが、高校試合は随分と賑やかだった。射の途中は流石にみんな静まりかえるが、射が終わった瞬間、「よし!」「いいぞ!」「がんばった!」など威勢のいいかけ声が飛んだ。

 二射目で一人が外した。残り五人。

 三射目、全員的中。

 四射目で、一気に三人が外した。残りは、神城あずさと三ツ矢葉月のみになった。

 五射目。両者的中。

 六射目。両者的中。

 七射目。両者的中。

 八射目。両者的中。

 九射目。両者的中。

 あずさは会場の空気が変わっていくのを感じた。四射目まではあんなに盛り上がっていたのに。

 今は、「どうしよう」という雰囲気だった。

 あずさへの声援やかけ声は予想通りどこか事務的で、義務的で、よそよそしかった。正直、みんなどこの馬の骨かわからないような一年生のあずさより、弓道界のアイドル、三ツ矢葉月に勝ってほしいのだろうな。ひしひしとそう感じられた。

 葉月への声援は流石に盛大だったが、明らかにみんな不安を感じている様子だった。

 葉月の様子は横目でうっすら見える程度で、正直、音で判断するしかないのだが、明らかに葉月は焦っていた。三島の言ったとおり、試合初出場のぽっと出の弱小校の一年に負ける訳にはいかないと気負っているのだろう。

 弓は、精神的な要素が非常に大きい競技である。メンタル一つで、実力差などいとも簡単にひっくり返る。葉月にとって、非常に厳しい戦いになっているにちがいない。

 しかし、あずさには何のプレッシャーも無かった。だって、いつも通り弓を引いて、手から矢が離れるのを待つだけなのだから。

 十射目。両者的中。

 よく考えてみれば、あずさは弓を引くときに不安になったり、焦ったりしたことがなかった。同級生に無視され、上級生に嗤われて、どれだけ傷ついても、逆に弓を引いた瞬間、全ての雑念が消え去っていった。

 十一射目。両者的中。

 的を射るだけ。やることが決まっているのだ。それはあずさにとって心から安心できることだった。人の顔色を伺ったり、謝ったり、お願いしたり、お金をやりくりしたり、将来を心配したり、明日のことを考えたり。そんなことは何一つしなくても良いのだ。的を射るだけ。それだけに集中すれば良いのだ。

 十二射目。両者的中。

 弓は、張り詰めた緊張に勝つことが最も難しいとみんな言う。しかし、あずさにはなぜ緊張するのか、それがわからなかった。だって、的に中てる。ただそれだけをすればいいのだから。その技術は、あずさはもう身につけているのだから。あとはいつも通りの動きをすれば、勝手に矢は的にあたるものだから。

 え? みんなは違うの?

 十三射目。両者的中。

 観客がざわめき始めた。「いつまで続くんだよこれ」「競射ってこんな長引くことある?」とつぶやきが聞こえた。

 十四射目。両者的中。

 隣から葉月の乱れ始めた息遣いが聞こえる。疲労だろうか。確かにここまで連続で弓を引くことになるとは予想していなかったに違いない。しかし、あずさは夏の間、バイト以外の全ての時間を使って限界まで弓を引き続けた。まだ何本だろうと射れる自身があった。

 十五射目。

 どうしよう。これは、本当に勝ってしまう。

 ここで、初めて、人生で初めて、的前に立った状態であずさの中で迷いが生じた。

 葉月が限界だ。さっきの射も、力尽くで無理矢理に中てているようだった。

 観客たちも勝負が見えてしまったのだろう。すでに落胆の空気が漂い始めていた。「空気読めよな」そう呟いた誰かの声が聞こえた。

 ふと、あずさの中で一つの選択肢が芽生えた。

 これ、外そうかな。

 あずさに期待をしている人なんて誰もいない。あずさが勝っても、弓道アイドル葉月のブランド価値を著しく下げるだけなのだから。それは弓道界全体の損失だろう。

 わざと外す。その選択肢はみるみるうちに大きくなった。

 私が勝ったら、みんなが悲しむ。

 私が負けたら、みんなは喜ぶ。

 よし。外そう。それがいい。

「あずさああ!」

 いきなり弓道場に大声が響いた。マナー違反もいいところだ。思わず観客席を見る。

 三島が、叫んでいた。

「かましてやれえええ!」

 そしてにかっと笑った。得意げに。あとは任せたとでも言うように。

 あずさはもらった弓をぎゅっと握った。

 わかった。わかりましたよ。

 あずさはゆっくりと弓を引き分けた。

 かましてやりますとも。

 十五射目。両者的中。

 十六射目。両者的中。

 十七射目。


 あずさは、優勝した。



「あずさ、食わないのか?」

 あずさは目の前に出されたお肉ゴロゴロボロネーゼ・温玉トッピングを前にして、げっそりとしていた。食欲がわかない。

 おなじみのファミレスチェーンだが、今日はいつもの行きつけの店ではなく、大会の会場からほど近い場所にある別店舗だった。チェーン店なので当然のごとく店構えはほとんど変わらない。二人なのでテーブル席に案内されるかと思ったが、二人が弓を持っていたので店員さんは気を遣ってくれたのだろう。久しぶりのボックス席へと通された。布にくるんだ弦を外した弓は2メートル以上になるので、角に立てかけられるボックス席はありがたかった。

 周りのボックスに目をやると、近くのどの仕切りからも布に包まれた弓が飛び出ていた。他校の弓道部員たちが同じように大会の疲れを癒やそうと押しかけているのだろう。

 

 決勝後は、散々だった。

 葉月は十七射目を外した。体力の限界で会の姿勢が保てず、狙いが定まる前に矢が飛んでいってしまったようだった。あずさは「かわいそうに」と思いながらも、淡々と自分の矢を放って的のど真ん中に的中させ、そこでようやく葉月の方を向いた。葉月はその場で泣き崩れてしまっていた。

 試合後、カメラマンたちは泣きじゃくる葉月を遠慮なく撮影し、一通りの慰めの言葉をかけたと思うと、すぐにあずさを取り囲んだ。

「女王を倒したご感想は?」「まだ1年生ですよね」「弓を始めてまだ半年って本当ですか」

 あずさは訳も間わからずインタビューに答え、いつのまにかトロフィーを握らされていた。

さっきまで弓道界のアイドルだったのに、あっという間に没落した女王になってしまった葉月は、友人たちに連れられて会場を去って行った。

 あずさの部の雰囲気はさらに最悪だった。

 男子部員や三島は大はしゃぎであずさを迎えてくれ、顧問の先生も「我が校の誇りだよ」と言ってくれた。しかし、女子部員は一様に生ぬるい目であずさを見ていた。女子団体が本戦に出たことも、あずさ一人の手柄のような扱いになってしまったにだから、興を削がれたところもあったに違いない。

 大会が終了し、部員たちも解散した今、女子部員たち、男子部員たちはそれぞれ打ち上げに赴いている。女子はカラオケ、男子は焼き肉だったか。当然のように女子チームに誘われなかったあずさを見て、三島は気を利かせて男子チームを抜けてあずさをここに連れてきてくれた。

「あずさ、食えって。香織・・・・・・香織先輩があずさはそれが食べたいだろうって言ってたから頼んだんだぞ」

 あずさは目の前のボロネーゼを改めて見た。香織はきっとあずさが物欲しそうにメニューを眺めているのに気がついていたのだろう。なんでもお見通しだな。香織先輩は。

 その香織は今日は来ることができなかった。大事な模試と被ってしまったらしい。仕方のないことだ。受験生なのだから。

 あずさはフォークでパスタを一巻きすると、無理矢理口に押し込んだ。

「・・・・・・おいしい」

 よく考えれば、あれだけ活動したのだ。お腹が減っていないわけがなかった。疲労した身体に塩味がたまらなかった。あずさはスイッチが入ったようにボロネーゼを次々と口に運んだ。

 それを見て、三島は満足したように自分の特製マルゲリータポテトにかぶりついた。

「うまいだろ? お腹がすいて、飯がうまいうちは、人は大丈夫だよ。身体が生きたがってるってことだから。聞いたことない? 食べることは生きることだ」

 あずさは温玉をフォークで潰しながら、「また、漫画のセリフですか」と返した。

「いいだろ。元ネタはなんでも。いい言葉はどんどん使っていかないと」

 三島はそう言って笑うと、ふと、真剣な表情で言った。夏休み、何度も言ってくれた言葉を。

「あずさ。よくがんばったな」

 あずさはゴクリとパスタを飲み込んだ。三島は沢山の適当な格言めいたものを適当なタイミングで言う先輩だった。でも、正直、その言葉が、一番あずさのささくれだった胸の内を暖かくしてくれた。

 あずさは妙に照れくさくなって、話題を変えた。

「あ、そういえば、三島先輩も男子個人戦、四位おめでとうございます」

「それだよ!」

 三島がマルゲリータにかぶりついたまま叫んだ。チーズが飛んできそうで、あずさはちょっと身を引いた。

「普通に快挙なんだぜ! それが、あずさがマジで優勝なんかしちまうから、誰も俺の戦績に気がつきもしない!」

「まあ、三島先輩にしては頑張ったと思いますよ」

「おいお前! 調子のってるだろ!」

「まあ、私、優勝してるんで」

 二人でぎゃあぎゃあふざけ合いながら夕食を済ましたところで、あずさが三島の前に小箱を一つ置いた。

「え? なにこれ」

「弓のお礼です。ささやかですが」

「まじか!」

 三島はまるでクリスマスのプレゼントを開ける子どものようにラッピングを破ろうとした。そこで少し考え直したように動きを止め、今度はゆっくりと裏側のテープを外し、剥がしたラッピングシートも丁寧に畳んでテーブルの上に置いた。別に破ってくれていいのに。

「うお! ボールペンだ」

 黒と銀のボールペンを箱から取り出し、三島は目を丸くする。

「先輩、使い捨てのものばかり使ってらっしゃったので」

「へえー。俺、こういうの使ったことねえや。もしかして、芯、代えられたりするの?」

 あずさは「勿論です。一生使えますよ」と頷くと、三島からボールペンを受け取った。

「ここのところを押すと、ワンタッチで外れます」

 あずさはカチャリとボールペンを分解した。ボールペンの先端の方を刀の鞘のように引き抜いて見せる。

「簡単でしょ? これなら面倒くさがりやの先輩でも・・・・・・先輩?」

 あずさは三島が真顔になっているのに気がついて、説明を止めた。

「それ、高かったんじゃないのか?」

「え? いや、いただいた弓に比べたら全然ですよ」

 そう言ってあずさは微笑んだ。事実、一般的に見たら高級品ではない。むしろこの種のボールペンの中では一番安価な部類だろう。が、確かにあずさにとってはかなり高い買い物だった。店頭で小一時間逡巡する程度には。

「・・・・・・大事にする」

 真顔でまっすぐ見つめられながらそんなことを言われて、あずさは恥ずかしくなった。

「えと、じゃあ、これ! 香織先輩に渡しといてください」

 あずさはもう一つ小箱を取り出すと、三島に渡した。

「香織先輩の分です。色違いなんですけど」

 香織のボールペンは藍色のものにした。

「え? 俺が渡すの?」

「はい。夏の特訓が終わったので、次にいつ会えるかわかりませんし」

「それは俺だって・・・・・・」

 あずさはため息をついた。しばらく手元の小箱を見つめ、それから笑顔を作って言った。

「お二人、お付き合いされてるんでしょ」

 三島は驚いた表情であずさを見て、それから照れくさそうに笑った。

「なんだ。知ってたのか」

 その三島の笑顔に胸の奥がぎゅうっと握りしめられるようだったが、あずさはその感覚を無理矢理押さえ込んだ。そして、「ばればれですよ」と笑った。

「とにかく、ちゃんと渡してくださいね」

 押しつけられた小箱を三島は「わかった。わかった」と照れ笑いしながら箱を受け取った。

「てか、色違いのペアグッズになるじゃねえか。恥ずかしいな」

「気が利く後輩でしょ」

「うるせえ」

 三島はまた笑った。


「随分、楽しそうね」

 その一言で和やかな気分が吹き飛んだ。

 あずさの左側。すぐ隣のボックス席に座っていた少女が立ち上がって、あずさを睨み付けていた。三ツ矢葉月だ。仕切り一枚の距離だ。全然気がつかなかった。いつからいたのだろう。

 見ると、葉月のボックス席には葉月の学校の生徒が集まっていた。というか、近くのボックス席の客は大体が葉月と同じ制服を着ている。袴姿しか見ていなかったから気がつかなかった。

「優勝を祝して、彼氏と二人で打ち上げ? いいご身分ね」

 葉月はまた小馬鹿にしたような半笑いを浮かべた。散々泣きはらしたのだろう。目の周りが赤くなっていた。

「いや、あの・・・・・・ごめんなさ・・・・・・」

 またしどろもどろになったあずさは、反射的に謝ろうとした。それを遮るように三島が言った。

「ほっとけよ」

 ガタリと、隣のボックス席の男子生徒が数人立ち上がった。あずさの席の周りをゆっくりと囲う。

 あずさは「ひっ」と肩をすくめた。

 大丈夫。大丈夫。

 確かに部のマドンナがあれだけ泣かされたら部員が殺気立つのもおかしくない。でもここは店の中だ。流石に手荒なまねはしてこない。はず。

「これ見た? めっちゃバズってるんだけど」

 ついたてにもたれるように葉月がスマホ画面を見せてきた。SNSの投稿だった。

 添えられたコメントは「女王の交代」。

 あずさが自分の射を終えて振り向いた際の一瞬を捉えた写真だった。泣き崩れる葉月に振り向き、無表情で見下ろすあずさ。どこからどう見てもあずさが一方的に美少女をなぶっているように見える。

「あんたのインタビュー動画も流れてるわよ。弓を持ってまだ数ヶ月なんてすごいわね。私なんか10歳の頃からやってるのに。とんだ恥さらしよね。弓引くとき、緊張したことないんですって? すごいわね。私なんて最近雑誌の取材で緊張への向き合い方のコラム載せたばっかりなのに」

 まくし立てる葉月の瞳からは今にも涙がこぼれ落ちそうだった。

 あずさはいたたまれなくなって下を向き、制服のスカートを握りしめた。

「あずさ。もう出よう」

 三島が立ち上がった。ボールペンを箱に戻し、丁寧に梱包し直す。

「あら。プレゼント? ラブラブじゃん」

 三島は無視して、鞄にボールペンの箱を大事そうに入れた。

「あずさ。行くぞ」

 あずさも立ち上がった。立てかけていた弓を持つ。しかし、弓を包んでいるカバーの紐が座席の隙間に引っかかってしまった。引っ張ってみたが、うまいことかみ合ってしまったようでなかなか外れない。三島は敵愾心むき出しの男子部員たちに囲まれながらも、静かにあずさを待っている。焦ったあずさが力任せに引っ張るとビッと音をたてて紐ははずれたものの、勢い余って布がずれ落ち、クロスファイバー製の愛弓が露わになる。

 あずさはカバーが半分ずれ落ちた弓を抱え、ようやくボックス席を出た。出ようとした。

「・・・・・・安そうな弓」

 相手にされなかったことがよほど屈辱だったのだろう。葉月は顔をゆがめて、吐き捨てるように言った。

 ボックス席を出ようとしていたあずさの動きがピタリと止まる。

「・・・・・・今、なんて言いました?」

 あずさはゆっくりと振り向いた。一瞬、視界が蜃気楼のように揺らいだ。耳の奥が熱くなる。それが頭に血が上るという現象だと自覚したときには、あずさは仕切り一枚を隔てて、葉月に限界まで詰め寄っていた。

「え?」と返す葉月にあずさはできるだけ静かな口調で繰り返した。しかし、自然と怒りがにじみ出ていたのだろう。葉月は顔を強ばらせて後ずさった。

「この弓、先輩方にいただいたものなんです」

 あずさは葉月の顔をまっすぐ見つめた。葉月の大きく開かれた、少し茶色かかった大きな瞳を見つめた。

 人の目をまっすぐ見るのなんて何年ぶりだろう。

「あやまってください」

 葉月がぽかんと口を開ける。三島が「おい。あずさ。構うな」と背後から声をかけてきている。その声がどうにも遠くに感じ、思考に混ざってこなかった。

 葉月はあずさの態度の急変に戸惑っていたが、しばらくして初めて相手にダメージを与えられたことに気がついたのだろう。にやりと笑って繰り返した。

「安そうな、しょぼい弓ねってそう言ったのよ。まるで中学生が初めて買った弓みたい。どうせ数万円もしないでしょ」

 あずさはにやついている葉月が自分の席に立てかけている弓を見た。今は布が巻かれているが、竹弓であったことは覚えている。きっと十万円は下らない。

「あなた、自分でお金稼いだことあるんですか?」

「え、なに? 意味不明なんだけど」

「その弓は、自分のお金で買ったんですかって聞いてるんですよ」

 葉月は鼻で笑った。

「当たり前でしょ。がんばって貯金したのよ」

「頑張って・・・・・・ですか」

 あずさは自分の口角が自然と上がっていくのを感じた。それを見て、葉月が表情を変える。

「は? なに笑ってんの」

 あずさは自分がにやついているのに気がつき、手で口を押さえた。その仕草がより葉月の神経を逆なでしたのだろう。葉月は目を剥いて後ずさっていた身体を前に出す。あずさと葉月はついたて一枚越しに目と鼻の先にまでにじり寄る形となった。

 あずさは葉月の全身を眺めた。着崩してはいるが、名門私立の制服。髪留め、化粧、時計、そんなさりげない小物のどれもがあずさには縁の無い上等なものだった。10歳から弓道をやっているくらいだ。家柄も良いのだろう。

「あなたの頑張ってる貯金っていうのは、お家の方からお小遣いもらって。それを一旦、貯金箱に入れて、それだけで自分のお金みたいな感覚になって、わがもの顔で使ってるだけのことなんじゃないんですか」

 葉月の頬にさっと赤みが走った。図星なんだろう。葉月はそれでもきっとにらみ返してくる。

「いいですよね。弓道の道具も、文房具も、制服も、普段着ですら、買ってもらえるんですもんね」

「・・・・・・何言ってんのよ。そんなの」

 あたり前。

 その当たり前が当たり前のようにない人間のこと、あなた、考えたことありますか?

 ないですよね。

 あずさは葉月と始めに話した時のことを思い出した。高圧的な、自信過剰な、あの態度。

 きっと愛されて育ってきたのだろう。

 プライドが、自尊心が、自然と育つように。堂々と胸を張って自分の成果を威張れるように。自分にちゃんと自信を持てるように。それが許されることが当然であると当然に思えるように。

 大事に、大事に、宝物のように大切にしてきてもらったのだろう。

 いいなあ。

 うらやましいなあ。

 あずさは笑っていた。嘲るように。

 あずさは笑っていた。卑下するように。

 でも、それは葉月に向けた笑みではなかった。葉月を責めるような口ぶりをしながらも、結局の所、ただ恵まれた相手に対して妬みをぶつけているだけの自身に対する嘲笑。

 自らを嘲ると書いて「自嘲」とは、よく言ったものだな。

 だが、当然葉月はそうは思えない。大衆の面前で箱入り娘であると馬鹿にされたと感じ、顔が真っ赤になっている。まわりの部員たちの視線にもあずさに対しての怒気を感じる。三島ですら、「あずさ、そのへんにしとけ。帰ろうぜ」とあずさに呼び掛けている。だが、あずさは言葉を止めなかった。

「いいですね。とってもよくがんばった葉月ちゃんのために、がんばったけど負けちゃって傷ついいた葉月ちゃんのために、きっとご家族は温かく迎える準備をして、帰りを待ってくれてますよ」

 葉月が下唇を噛む。ふわふわのよく手入れされた茶髪が上気した頬にはらりとかかる。

 いいじゃないか。これくらい。

 どうせ家に帰ったら、きっと美味しいご飯があなたのためにちゃんと一人前、用意されてるんでしょ。

 きっと温かいお風呂に一番に入らせてもらえるんでしょう。

 だったら、これくらい、言ってもいいじゃないか。

 言わせてくれたっていいじゃないか。

「さあ、こんな風に自分が負けた相手に絡むのなんかやめて」

 あずさは、自分でも驚く大声で叫んだ。

「家に帰って、好きなだけ慰めてもらいなさいよ!」

 殴られるかもな。そう覚悟はしていた。ただでさえ業腹な相手にこんなことを言われれば逆上しない方がおかしい。その時は、平手うち一発ぐらい食らおう。それで終わりにしよう。

 しかし、予想外だったのは、動いたのが葉月ではなく、後ろの男子部員だったことだ。一番近くまで詰め寄っていた大柄のスポーツ刈りの男子。もしかしたら葉月の彼氏かなにかだったのかもしれない。

彼は「お前、いい加減にしろ!」とあずさの背中を手の平で突いた。

 背後からの攻撃を想定していなかったあずさはバランスを崩してついたてにぶつかり、ボックス席の隅にへたり込んだ。あずさは事態が把握できずに呆然と男子部員を見上げた。きっと本気の力ではなかったのだろう。当のスポーツ刈りの彼も倒れたあずさを見て慌てた表情を浮かべていた。

 そして、もう一つ予想外だったのは、あの、いつも冷静に正論ばかりを吐く三島先輩が怒声を上げてその男子生徒の殴りかかったことだ。

 三島がイライラしているところは見たことがある。むっとすることもたびたびある。

 でも、こんな風に本気の怒りをむき出しにする三島は初めて見た。

「てめえ!」と叫びながら振るったその拳は、いやに素直に男子部員の鼻の頭に吸い込まれていき、彼は悶絶しながら倒れ込んだ。

 それと同時に、ボックス席を囲んでいた違う男子部員の一人が三島の横顔を殴りつけた。

 三島はついたてにぶつかりながらもその男子に即座に殴り返した。的確に顎を狙った三島の拳はクリーンヒットしたらしく、男子部員は後方に崩れ落ちた。他の部員も声を上げる。

 乱闘になった。

 他の部員も相当なフラストレーションがたまっていたのだろう。周りにいた男子生徒が一斉に三島に襲いかかった。三島を手当たり次第になぐり、蹴る。三島は負けじと殴り返し、蹴り返すが、分が悪すぎる。ボックスの押し込まれ、滅多打ちにされる。

 あずさは自分の弓を抱えたままボックス席の対面で縮こまった。

 三島の抵抗する動きが鈍くなっていく。だが、相手側の攻撃の手はさらにヒートアップしていくようだった。

 このままじゃ。このままじゃ先輩が殺される。あずさはそう思った。

 

『やらなきゃいけないときはある。その時はためらうな。あずさ』

 記憶の底の方から、祖母の声が聞こえた。


「あああああああ!」

 あずさは持っていた弓を振り回した。2メートルを超える、グラスファイバー製の弓。

 あずさは三島を殴り続ける男たちをビシバシと弓で叩く。力はそこまでではなかっただろうが、突然のあずさの参戦に男たちは驚いた様子で身を引いた。よし。いける。

「先輩から離れろ!」

 あずさは叫びながら一際大きく弓を振りかぶった。

「きゃああ!」

 悲鳴が聞こえた。反対側から。

「え?」

 あずさは振り返った。

 ついたての向こう側で、三ツ矢葉月が、顔を押さえて床に座り込んでいた。

 何事かと場の全員が注目する中、顔の左側を押さえた葉月の指の間から血がだらだらと流れ始める。

 あずさは呆然とそれを見つめ、無意識に自分の弓をたぐり寄せた。弓の黒い先端が濡れている。

 あずさは弓の先端を指で撫でた。あずさの手が血で染まった。

 あずさは弓を取り落とした。

 周りの女子部員が悲鳴を上げた。

 葉月も叫んでいた。

 周りの部員が葉月を取り囲む。三島を囲んでいた男たちも叫び声を上げて葉月のもとに向かう。

 テーブルの向かい側で、三島が机に掴まるようにして起き上がった。

 鼻からも口からも血が出ていたが、そんなことには気がつかない様子で、目を見開いてあずさを見る。

「あずさ。なにがあった」

 あずさはふるふると首を振った。

「・・・・・・ちがう」

 葉月の泣き声が聞こえる。

「違うんです。先輩」

 三島は繰り返した。

「あずさ。なにがあった」

 テーブルに掴まるようにして、起き上がれそうもない三島は繰り返した。すがるように。

「あずさ。お前、なにをしたんだ」

 あずさは口をぱくぱくと動かした。でも、言葉がでない。

 そんな。そんなつもりじゃ。

「あずさ!」

 あずさは耳を押さえた。目をつぶって、ボックス席の座席の角で小さくなる。

 でも、三島の叫びは聞こえ続けた。

 男子の怒声も、女子の悲鳴も。

 左目が潰れた少女の叫び声も。

 全部、聞こえ続けた。



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