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バイオレント・ピーク  作者: 夏人
第一章 餌食の本懐
1/47



 ダメだ。血が止まらない。

 俺は左の二の腕を握りしめた。親指と人差し指で締め付けるように。動脈の血の流れを止めるために渾身の力で挟み込む。

 だが、握りしめている数センチ下の傷口からは止めどなく血液が流れ出ていた。傷口を直接押さえ込みたかったが、そうはしなかった。したくても物理的に出来ないのだ。

 俺の左腕には矢が突き刺さっていた。

 カーボン製のその黒く軽い矢は、いとも簡単に俺の左の二の腕を貫通していた。その傷口からは早鐘のような俺の鼓動の動きに合わせてドクドクと血が湧き出し、肘を伝ってポタポタと落ちていく。その血が吸い込まれていく地面を踏みつけるようにして、俺は走った。

 見渡す限り、木しかなかった。走る地面はその木々の間を縫うような細い獣道。そんなあるかないかのあまりに細い隙間を、俺は全力で駆け抜けた。木々の間から差し込む夕日も頼りなく、足下はあまり見えない。

 木の根に足が取られる。

 石に躓く。

 遮るように飛び出した木の枝に額をぶつける。

 そうやって何度も転びそうになる身体を、俺は力尽くで立て直し、走り続けた。

 体勢を崩す度に背中のリュックがガチャガチャと音を立てる。中には小さな救急バッグが入っていたはずだった。だが、取り出す暇など無い。

 木の幹に矢の先がぶつかりそうになり、慌てて身をよじった。そのついでに後ろを振り返る。

 大丈夫。追ってきていない。

 唐突に視界が開けた。木の密集する地帯を抜けたのだ。とは言え、森が終わった訳では無かった。林道に合流しただけだ。走ってきた獣道よりは幾分かましな小道がフタマタに別れて伸びていた。分岐点なのだろう。恐らくそれぞれの小道の行き着く先を示すための看板が置かれていたが、あまりに古いために折れて朽ちて、根元の柱しか残っていなかった。

 道なき道をかき分けていたのが、これまた寂れた小道にたどり着いた。ただそれだけの話であったが、道は道だ。朽ちた看板にさえ文明の息遣いを感じた。

 俺は喜び勇んで林道に踏み出そうとした。その結果、目の前にある膝ほどもあろうかという一際大きな岩に気が付かず、足を取られて前のめりに転倒した。

 とっさの判断で身体をひねって右肩から地面に転がった。しかし、完全には左腕をかばえず、腕から生えた矢の先が地面にぶつかり、傷口の中で暴れた。激痛に叫び出しそうになる口を歯を食いしばって押さえ込む。叫びになり損なった悲鳴がうめき声として引き締めた唇から漏れ出た。視界が涙でぼやけた。

 長いこと整備されていないだろう林道の上で、俺は悶絶した。

 地面に額をこすりつける。その地面は橙色に染まろうとしていた。日没が近い。

 大丈夫。痛いだけだ。大丈夫。

 俺は震える膝を血だらけの拳で殴りつけた。

 立て。立つんだ。こんなところで止まっちゃ行けない。

 逃げるんだ。

 道を踏み固めるかのように足の裏を地面に押しつけ、俺はひと思いに立ち上がった。大きく息を吸い、吐いて、荒れた呼吸を無理矢理整える。

 目の前にある折れた看板と、その両側に広がる二つの小道を睨み付ける。さあ、どちらに進むべきか。

「思ったより気骨があるやつじゃな」

 背後からの突然の声に俺は叫び声を上げた。慌てて振り向く。

 老人が座っていた。

 さっき俺が躓いた膝ほどの高さの岩にちょこんと腰掛けていた。老人は黒なのかカーキなのかいまいちわからない暗い色の雨ガッパをまるでポンチョのように身にまとっていた。しわだらけの顔はニコニコとした笑みを浮かべ、なんの覇気も迫力も感じられない。まるで庭先に座って七輪で餅でも焼いているかのようだ。まるで数時間前からそこに腰掛けて俺を待っていたかのような感覚にさえ襲われた。

 だが、数秒前まで、確実にそこにはいなかったのだ。

「今時の、不抜けたガキじゃ。どうせ子ネズミぐらいのもんじゃろうと思っていたが、ところがどっこい。矢を生やした身体でこんな所まで逃げてきよったか」

 老人はしわの一つに見間違うような細い目をすっとわずかに開いた。

「狐ぐらいには、なれるかのう」

 その瞬間、俺は戦慄した。

 老人は何も持っていなかった。節くれ立った指は膝の間で軽く組み合わされているだけだ。だが、先ほどまで何でもなかった老人から、突如として膝が震えそうになるほどの脅威を感じた。真っ赤な夕日が、老人の骨と皮だけで出来たような横顔を不気味に照らしていた。

 その静謐なまでの静かな威圧感に腰が抜けそうになる。だから俺は叫んだ。

「し、死んでたまるかああ!」

 俺は尻ポケットに手を伸ばし、折りたたみナイフを取り出した。

 片手で刃を取り出そうとするが、自らの血で指が滑って開かない。焦って爪を立てようとすると、ぬるりと手からこぼれ落ち、ナイフはぼとりと地面に落ちた。

 目の前に落ちたナイフを老人が愉快そうに眺める。

 そのナイフに向けて、俺は倒れ込んだ。端から見ればまるでゴロに飛びつく野球少年のようだっただろう。無様に腹を地面にこすりつけながら、俺はナイフを再び握りしめた。足をばたつかせながら、必死に立ち上がる。

「がんばるのう」

 自分の血液を小道にまき散らしながらもようやく立ち上がった俺は、手にしたナイフの突起に噛みつき、無理矢理に刃を引き出した。それを老人に向ける。

 老人は座ったまま、手を打って笑った。

「そうか! いいぞいいぞ! 角を向ける気概ぐらいはあったのか。よいのうよいのう。元気な牡鹿じゃ」

 さっきから何を言っているんだこいつは。

 俺は思考がまとまらなかった。視界もぐにゃぐにゃと歪んでいた。動悸が激しい。気持ち悪い。吐き気がする。まるで極限まで酒を飲まされたようだった。

 それはそうだろう。ただ森を歩いていたら、突然に矢で射られ、追いかけ回され、どこからともなく現れた老人に狐だの鹿だの揶揄されているのだ。混乱しない方がおかしい。

「な、なんでこんなことするんだよ! なんなんだよ!」

 老人はすっと笑みを引っ込めて俺を見据えた。

「それはなあ。お前が気にすることではない。狩られる側が狩る側の事情なんて気にするものではない。お前はただ、自分のためだけに抗っておればよいのだ」

 意味がわからない。

 沈んで行く夕日の中、老人の姿も闇に飲まれていくようだった。

「安心せい。儂は半矢の獲物を追いかけ回す趣味はもっとらん。そんなちんけな角を振りかざさんでも、なんにもせんわい」

 敵ではない・・・・・・ ということか?

 だが、味方でもない。確実に。それぐらいは俺にもわかった。

「だがなあ。いいのか。さっきから大声を上げて騒いで、呑気にしとるが。いいのか?」

「え?」

「追いつかれるぞい」

 次の瞬間、背中に衝撃が走った。一瞬、体勢を崩してたたらを踏む。何事かと振り向いて俺は目を見張った。

 リュックサックの側面に、新しい矢が貫通していた。あと十センチもずれれば肩や首に突き刺さっていただろう。

 慌てて背後に向き直る。

 十数メートル先だろうか。雑木林がガサガサと揺れている。

「それ見たことか」

 俺は走り出した。とっさの判断で二つの林道のどちらにも進まず、脇の雑木林に飛び込んだ。

「そうじゃそうじゃ! 走れ牡鹿! ほれほれ!」

 老人の笑い声が背後から響く。

 日がほとんど没し、木々の間はもうほとんど視界が通らない。そんな中、俺は手探りで、進んだ。

 まだだ。まだ死ねない。

 鋭い風音とともに顔のすぐ側を矢が通り過ぎたのを感じた。目の前の木に突き刺さった矢がビイィンと音を立てて振動しているのを横目に走り抜ける。

 状況は飲み込めない。絶望的なことだけはわかる。

 でも、まだ死ねない。俺は、ここで、こんな風に死ぬわけにはいかないんだ。

 腕に刺さった矢の先が何度も木の幹にぶつかる。その度に激痛が走る。

 俺は、生き残るんだ。

 右の太ももに衝撃が走った。手で探ってすぐに悟る。新たな矢が我が身に突き刺さっているのを。

 俺は悲鳴をかみ殺して、目の前にある太い木にしがみついた。崩れそうになる身体を必死に持ち上げ、体勢を立て直す。俺はうなり声を上げた。そして、右足を引きずりながら、それでも暗闇を進み続けた。 

 俺は生きるんだ。生き残るんだ。生きて家に帰るんだ。


 誰が、あきらめるものか。


 



 1


 食べ物の味がしなくなった。

 神城あずさは昔、部活の先輩から言われたことがある。

「お腹がすいて、飯がうまいうちは、人は大丈夫だよ。身体が生きたがってるってことだから。聞いたことない? 食べることは生きることだ」

 漫画で見つけたのであろう、適当な格言めいたことを適当なタイミングで言う人ではあったけれど、もしその言葉が正しいのだだとすると、もう、私の身体は生きることが嫌になったのかしら。そう、あずさは他人事のように思った。

 最後に味がしたごはんは何だっただろうか。

 あずさはバスの窓ガラスに頭をもたれさせながら記憶を探った。

 あれかなあ。あのチャーシュー麺だ。

 取引先とのリモート会議があった夜。職場の朱美先輩が寿退社することとなり、急に引き継がれた仕事の打ち合わせというか、挨拶というか、顔合わせというか。そんな一対一のオンラインミーティングだった。

 こっちは会社の会議室のパソコンからつないでいるのに、相手方は家からつないでいて、それもあからさまな室内着で、正直うらやましかった。

 URLの添付方法もわからならいようなおじさんで、データのやりとりもままならなかったし、20時頃から始まった会議の後半は無駄話にずっと付き合わされた。最近の若い部下はどうこうみたいな。あずさちゃんも上司にはちゃんとしなきゃだめだよみたいな。そんな聞いているだけで地味にメンタルにくるありがたいご高説を延々、延々と。そっちはもう家で寝るだけだから良いんだろうけど、こっちはまだ会社でスーツ着てるんだから、気を遣って欲しいって思ったけど、もちろんそれは口に出せなかった。いっそのこと、しばらく音声をミュートしてやろうかと思ったけど、当然それも思っただけだった。

 結局、その日の晩ご飯は終電間際に駅前のラーメン屋さんに駆け込む羽目になった。いつもは高くて頼まないチャーシュー麺。自分へのご褒美のつもりで、折角奮発して餃子まで付けたのに、いざ器を前にするとなんだか胃が縮んじゃって全然食べられなかった。店長さんに謝ったっけ。店長さんも疲れた顔で「はいはい」って感じで、私の目の前で餃子をゴミ箱に捨てて。なんだか怒られるよりも心にずんときたなあ。でも、ちゃんと食べたかったんです。それは本当。

 その日の電車の中だった。高校の部活の知り合いから数年ぶりにラインが来た。名前も顔もおぼろげで、辛うじてラインアドレスだけ知っているような。本当にただの「知り合い」だった。

『三島先輩、失踪したんだって』

 終電のくせに、まあ終電だからなんだろうけど、ぎゅうぎゅうに鮨詰めになった車両の中でなんとか覗き見たスマホの画面はなんだか霞んでいた。

 返信しようとキーボード画面出したけど、なんて打って良いかわからなくて、指だけが画面の前で右往左往してた。返信が無いのに知り合いはポンポンとメッセージを連打してきた。別にあずさと話したいわけではないのだろう。ただ、誰かに自分の仕入れた情報を言いたかっただけなのだろう。

『借金、いっぱいあったみたいだからね』

『首が回らなくなって、逃げたみたい。奥さん置いて』

『かわいそうだけど、ちょっとひどいよね』

『奥さん、必死に探し回ってるらしいよ』

『妊娠したところだったらしいのに』

 事業に失敗したとは噂に聞いていたけど、そんなことになってたんだ。知らなかった。

 あずさは「そうなんだ」と返信を送った。続けて、「きっといろいろあったんだよ」とキーボードを打ち込む。それを送信した瞬間に、電車がトンネル入った。

 長いトンネルだった。トーク場面はしばらく粘った後に、あずさのメッセージの横に「送信失敗」のマークを出した。やれやれ。送り直しだ。

 トンネルを電車がようやく抜けた。再送信のボタンを押そうとした矢先に、またポンと相手側から吹き出しが飛んできた。

『多分、自殺したって。みんな言ってる』

 

 次の日の朝、大好きだった卵かけご飯には、味が無くなっていた。

 どれだけ醤油をかけても何の味もしなかった。買いだめしていたヨーグルトも、フレークも。コーヒーでさえ、香りすらもせず、ただのお湯のようだった。あずさの人生から、完全に味が失われた。

 まるで「味覚ボタン」を誰かに勝手にミュートにされたみたいだと、あずさは思った。




 バスが本格的な山道を登り始めた。2車線分あるかないかの細い道路の両脇は生い茂る木々でうっそうとしていた。十一月の中旬。秋も終わろうかという季節で、随分と落ち葉が散乱していた。常緑樹の杉や檜ですら寒い冬を予感しているのだろう。葉の色が心なしかくすんで見えた。

「お客さん、起きてる?」

 急にバスの前方から声がして、あずさは窓から目を離し、車内を見回した。初めは数人いた乗客が、いつの間にかあずさ一人になっていた。

「お客さん?」

 運転手に再度声をかけられ、あずさは慌てて「はい」と声を出した。長時間口を開いていなかったせいか、痰が絡んだようなか細い声になった。

 車内を見渡せるらしい大きなバックミラー越しに、運転手があずさを見る。おばあちゃんとおばさんの間ぐらいの、中高年の女性運転手だった。あずさのことを心配そうに見ている。

「もうすぐ、終点だよ」

「あ、はい」

「何にも無いところだよ。降りるの?」

「・・・・・・えっと」

 あずさはくたびれたリクルートスーツのパンツに手を伸ばした。ポケットに手を入れ、一枚のコインを指でなぞる。

 表。

「降ります」

 運転手は鏡越しにあずさを見つめ、少しの沈黙の後に「はい」とだけ言って目線を前に戻した。あずさも窓に目を戻す。もう、木々以外の物は視界に入らないほど、山が深まっていた。最寄り駅のバス停からこのバスに乗り込んで、もう数時間が経過していた。

 ふと、スーツのジャケットの方のポケットが振動していることに気が付いた。習慣で取り出して画面を見る。そしてすぐに見たことを後悔した。上司の成田課長の名で着信が来ている。

 出たくない。でも、拒否の方向にスワイプする勇気も無く、じっと、画面を見つめた。たっぷり30秒は振動を続けたスマホは、あきらめたようにまた沈黙する。あずさは窓ガラスにゴッと額を押しつけた。背中まで伸ばした黒髪がするりと肩を抜けて顔の前にはらりと落ちる。

 何をやっているんだろう。私は。

 きっと、今頃職場では課長が大声で自分の悪口を言っているに違いない。「雑用ぐらいしかできないくせに」「社会人としての最低限のことも」「人としてどうなんだ」「あれか、Z世代ってやつか」面と向かっても何度も言われたからリアルに脳裏に浮かんでしまう。ちらりとスマホの通知を見ると、留守電メッセージが三件。全て課長からだった。聞かなくても内容はわかった。

 あずさはぎゅっとスーツのジャケットの裾を握りしめた。度重なる就活で何度も袖を通したリクルートスーツ。就職したらかっこいいビジネススーツに買い替えようと思っていたが、いざ就職したらスーツ屋さんに赴く時間は無かった。平日は服屋さんが開いている時間に帰れる訳がないし、週一で取れるか取れないかの休みは疲労で一日中ベッドの中で過ごしてしまう。

 金銭面もある。少ない手取りの中から光熱費、家賃、奨学金の返済、育て親への仕送りを引き落としてしまうと、手元にはほとんど残らなかった。夕食は毎日外食やコンビニ弁当に頼らざるを得ないため、食費もかさむ。せめて昼食だけはとおにぎりを握ってみたりしているが、焼け石に水である。昨今、声高に叫ばれている貯蓄やら投資など、あずさには夢のまた夢であった。スーツ一着数万円を捻出するほどの余裕も、あずさには無かった。

 結局、就活のために用意した二着のリクルートスーツを半年間もの間、毎日のように着回すことになり、ヨレヨレでくたびれた生地は所々擦り切れ始めている。そんなあずさの姿に「身だしなみの整えられないのか」と上司は嫌味を言い、同僚には嗤われる。あずさの会社は売り上げの歩合が給金の大きな割合を占めるので、言ってしまえばあずさの力不足だ。だから、あずさは言い返すことも出来ず、「すみません」と小さくなることしか出来ない。

 みじめだ。

 上司には馬鹿にされ、同僚には見下され、売り上げも出せない。挙げ句の果てに、衝動的にバスに飛び乗って逃避行だ。

『死ぬんだったら、やっぱ、自然の中がよくね? 誰も来ないような静かなところ。山とか、森とかさ』

 三島先輩の声が耳の奥で聞こえた気がした。もう何年も前にした他愛もない会話。ずっと忘れていたやりとりが唐突に昨日のことのように思い出された。いや、きっと無意識下でずっと覚えてはいたのだろう。

 ああ、だから、私はこんな所まできたのだろうか。

 バスが止まった。終点だ。


「ねえ。お客さん」

 通勤用のリュックから財布を取り出して料金を支払おうとしたところで、運転手が言った。目線を上げると、彼女はあずさの顔をじっと見つめていた。

「料金はいいからさ。このまま乗っときなよ。そうすれば初めのバス停までそのうち戻るからさ」

 運転手はそう言うと、ちらりと外に目をやった。あずさもつられて振り返る。寂れたバス停があった。待合室も何も無く、ただ時刻表があるだけだ。その横に、さりげなく、でも確実に目につくように古びた看板が設置されていた。

『命はかけがえのないものです。あなたがいなくなると悲しむ人がいます。一人で悩まずに相談してみてください』

 この山は自殺の名所として知られている。そんなところにくたびれたスーツを着た顔色の悪い女が降りようとすれば、そりゃあ、そう思うだろう。

「ね。考え直してごらん」

 女性運転手はやさしく言った。まるですがるような目をしてあずさを見つめていた。

 事務的に見て見ぬ振りも出来るだろうに。いい人なんだなあ。

 私はお金を機械に流し込むと、ぺこりと頭を下げた。

「降りちゃダメ。戻っておいで」

 あずさはリュックを背負い直すと、黙ってバスを降りた。アスファルトの上に降り立ち、振り返ると、もう一度、深々と礼をした。

 数秒間たって、頭を上げると、彼女は泣きそうな顔をしていた。だが、自分の領分を心得ているのだろう。すっと前を向くと、ボタンを押して扉を閉めた。ゆっくりとバスが動き始め、あずさの前でユーターンをして山を下って行った。

 あずさは一人になった。


 バス停の時刻表を眺める。バスが来るのは日に二度だけのようだ。今のが午前の十時の便だから、次に来るのは夕方の十六時だ。6時間後である。

 まあ、帰りのバスに乗るなら、だけど。そう独りごちて、隣の自殺防止の看板を見つめる。

『あなたがいなくなると悲しむ人がいます』

 そんな人はいない。

 あずさがいなくなったとして、きっと面倒くさがる人はいるだろう。会社の上司は管理責任を問われるだろう。一方的に雑務を押しつけてくる同僚たちは、きっとあずさが肩代わりしていた業務が突然に返ってきて閉口することだろう。何度言っても立て付けの悪い網戸を直してくれないアパートの管理人も、契約者が急に消えたらいい迷惑だろうな。でも、それぐらいだ。

 あずさの両親は、あずさが物心つく前に死去している。代わりに育ててくれた祖母も小学校の途中で亡くなった。その後にあずさを引き取った遠縁の親戚も別にあずさが好きなわけではない。就職からは会っていない。とはいえ、仕送りは毎月要求してくるので、それが途絶えたら憤慨するかもしれない。いや、あの仕送りも別に家計を支えているわけでも何でも無く、あずさへの嫌がらせみたいなものだから、もしかしたら気づきもしないかも知れない。

 自分がいなくなったところで、悲しむ人は誰もいない。

 そう改めて思うと、寂しくなるどころか、どことなく胸がすっとした。ある意味、あずさは自由と言えた。たとえ自分が死のうが悲しむ者がいないと言うことは、この世界に何の責任もないということだ。現代社会ではむしろ珍しいのではないだろうか。

 あずさは少しだけ気分をよくして、車道を伝って山を登り始めた。大股で車道の際を進んでいく。でも、ふと、気が付いてしまった。

 私、22年も生きてきて、持っているものは自分自身の生殺与奪の権利だけなんだ。

 あずさは立ち止まって空を見上げた。晴れている。秋にしては暑いぐらいの日差しだ。でも、視界の隅にはどす黒い雲がうごめいていた。

 そして、そのたった一つの権利を、私は今日、行使しようとしているのだろうか。

 あずさはしばらく上を見ながら呆けていたが、ふと、車道の両脇の電柱に山中にそぐわない機器を見つけた。

 防犯カメラ?

 見回すと、電柱数本おきに設置されている。それもどうやら比較的に最近設置されたようで、経年劣化もさほど見られない。街中では珍しくない代物だったが、こんな山奥で誰を見張るというのだろう。あずさはしばらく考えたところで、ふっと失笑した。

 決まってるじゃないか。私みたいなのが来ようとするからだ。

 あからさまにカメラを設置することで威嚇しているのだろう。

 そうだよね。勝手に来て、身勝手に死んでいかれたら、自治体もたまったものじゃないよね。

 結局、誰かの迷惑にはなってしまうのだ。あずさ足下に視線を戻し、歩みを再開した。アスファルトは随分風化が進んでおり、かなり凹凸がひどかった。ヒビの隙間から所々雑草が生えている。外回り用の運動靴を履いていてよかった。

 微かに水音がした。耳をすますと、確かに水が流れる音がする。近くに川があるようだ。

 試しに車道をそれて、水音の方に進んでみる。木々を縫うようにしばらく進むと、遠目に渓流が見えた。岩がごつごつとせり出しその間を水が流れている。鮎でも釣れそうだ。だが、水は濁っているし、水位が高く、流れも速いように思える。

 そういえば、ここ数日雨だった。

 あずさは数日前の朝を思い出した。


 アパートの窓に当たる雨の音。

 低気圧のせいで頭が痛い。ベッドの脇のスマホのアラームが鳴り響いているのに、一向に手が伸びない。やがてアラームは自動的に止まり、あずさは布団の中で息を吐いた。うとうとと再び意識が遠のくタイミングで、見計らったようにまたスヌーズ機能でアラームが再び鳴り出す。

 行きたくない。

 起きたくない。

 会社なんて行きたくない。

 あずさは耳を塞いで、アラームを無視した。身体を丸める。

 ポロリと、一粒の涙が目尻から流れ、布団に吸い込まれた。

 何で毎朝、目が覚めるんだろう。

 昨日、あれだけ頑張ったんだから。

 昨日、あれだけ我慢したんだから。

 昨日、あれだけ死にそうになりながら生きたんだから。

 今日なんて、来ないでよ。


 さあ明日なんて、言わないでよ。


 何度目のアラームだっただろう。あずさはようやくスマホをスワイプすることに成功した。

 よし。起きるぞ。

 そう思った瞬間、唐突に吐き気が込みあげてきて、あずさは飛び起きるとトイレに駆け込んだ。便器を掴んで嘔吐する。胃液の酸っぱい味を感じないのが今は救いだった。しばらくうめいた後、手探りでレバーを引いて、水を流す。

 大丈夫。いつものことだ。大丈夫。

 今日もがんばれる。

 あずさはふらふらとトイレを出て、いつものささやかな儀式をすることにした。枕元に置いた一枚のコインをつまむ。

 表が出たら、会社に行こう。裏が出たら、会社を休もう。

 ローテーブルの上でコインを指でひねり、縦にくるりと回した。コインはコマのようにくるくる回転する。やがてパタリと倒れた。

 表。

 あずさは雨音が微かに響く中、薄暗いワンルームでテーブルの上のコインをしばらくじっと見つめた。いつもこうすれば、決心がつくのだ。

 さあ、顔を洗って着替えよう。昼食のおにぎりを握って、化粧をして、スーツに着替えて、それから・・・・・・

 しかし、その日に限ってあずさの身体は動かなかった。立ち上がるどころかぺたりと床に座り込んでぼうっとコインを見つめる。女の人の横顔が掘られている。どれだけ見ても表だ。あずさは無意識コインをつまみ上げた。再びテーブルの上で回転させる。

 パタン。

 表。

 パタン。

 表。

 パタン。

 表。表。表。

 あずさは力任せにローテーブルをひっくり返した。

 安物の軽いテーブルは間の抜けた音を立ててフローリングを転がった。コインもコロコロと円を描くように床を彷徨い、そしてパタンと倒れた。

 表。


『はい。もしもし。課長の成田です。あ、あずさちゃん? 遅いよ何してんの? え? 休む? なんで。はあ? いや、体調管理も社会人のさあ。わかるじゃん。ちゃんとしてよ。頼むよもう。そりゃさあ、女の子だから色々あるとは思うけどさあ。君の先輩の朱美ちゃんはこんな風に突然休んだりしたことなんて一度も無かったからね。前から思ってたけど、あずさちゃんて大学生気分、ほんとに抜けてないよね。いや、ごめんなさいじゃなくてさ。俺ら、チームなわけ。わかる? ろくな仕事任されてないからって休まれたら困るわけ。今日、全員に迷惑かけるんだからね。俺だけじゃないんだよ。全員だよ。わかってる? いやだからごめんなさいじゃなくてさ。それしか言えないの? 謝られたって仕方ないんだよこっちは。わかってんの? ねえ。わかってんのかって聞いてるんだけど。ごめんなさいじゃなくてさ』 


 あれから、結局三日も休んじゃったな。

 それで、今日は死んでも出社すると約束させられて、家を出るまでは出来たけど、結局今は森の中だ。

 川をしばらく眺めた後、あずさは車道に戻った。とりあえず奥に進んでみる。

 5分も歩いていないところで、車道沿いに唐突に建造物が出てきて、あずさはぎょっとした。こんなところに人の気配を感じる者があるとは思わなかったのだ。

 それは民家のような倉庫のような、一戸建ての古びた平屋だった。車が数台泊められるぐらいの駐車場が用意されていることから、どうやら商店らしい。

 近づけば近づくほど、建物の傷みが目立った。木製の壁は塗装が剥がれ、カビのようなコケのようなものが目立つし、所々蔓が這っている。砂利が敷き詰められていただろう駐車場も雑草が生い茂っていた。

 こういうのを寂れているって言うんだろうな。

 当然、廃墟だろうと思ったが、店の入り口らしき正面の引き戸は堂々と開かれていた。驚くことに営業中らしい。妙にそこだけ真新しい立て看板も出ていた。「タケル百貨店」。

 こんなところにお客なんて来るのだろうか。

 怖い物見たさで入ってみたい気もしたが、正直、不気味さの方が勝ってしまった。店の外見が痛んでいるだけでなく、なんだか全体としてそこはかとない違和感をあずさは感じた。それが何なのかは明確にはわからなかったが。とりあえず、入店するのはよそう。店の入り口の前をさっと通り過ぎる。

 するとそこで、店のすぐ脇に「森・登山道 入り口」と書かれた看板を見つけた。林をかき分けたような小さな小道が覗いている。ここから車道を離れ、本格的な森と山が始まるのだろう。

 行きのバスの中で見たウェブサイトの情報では、大きくそり立つ山の周りをそれこそ富士の樹海のようにうっそうとした森が囲んでいるらしい。あずさはここまで進んできた車道を振り返った。バスで随分上まで来たつもりでいたが、まだ森の入り口に到達したところらしい。今度は車道の続く先に目をやる。どこまでも続く車道の先に、確かに大きな山が見えた。あの切り立った山は地元では霊山とされているとサイトには載っていた。

 山登りは、したくないな。

 子どもの頃、祖母と幾度となく登った記憶があるが、正直なところ良い思い出ではない。

 ただ、森には入ってみようと思った。アスファルトも、電柱も、監視カメラもない、人の気配が全くない世界に逃げ込んでみたかった。

 林道に進もうとしたとき、入り口を知らせる立ち看板の側に、小さな机が置かれているのに気が付いた。机の上にはポストのような木箱が設置されている。消えかけた文字で「登山者カード入れ」そう書いてあった。

 投函するための穴が箱の上部にあったが、側面の取り出し口には鍵もかかっていなかった。誰も盗る人などいないということか。試しにカパリと開いて中を覗いてみる。

 下の仕切りには記入用の用紙の束とボールペンが置かれている。住所氏名、メンバー、簡単な登山計画を書く枠がある。上の仕切りにはこれまで投函されたカードがたまっていた。どうせ誰も回収しないのだろう。興味本位で上の段を覗く。差し込み口から日光が入るのだろう。どの用紙も部分的に日焼けで変色していた。そんな中、一番上の用紙は比較的に痛みが少なく見えた。最近投函されたのだろうか。

あずさはなんとなしにその一枚を取り出し、名前を見た。

『三島明』

 どくんと自分の鼓動が跳ね上がるのを感じた。

 三島先輩だ。

 用紙を手に持ったまま固まったあずさは、目線だけを用紙の上に滑らせていく。日付はちょうど一ヶ月前。登山メンバーの枠にも、登山計画には何も書かれてはいない。ピタリと、あずさの視線が止まった。カードの最下部、小さな備考欄。そこに一言だけ。

『今から死にます』

 先輩の癖のある字で、そう書かれていた。



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