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【改稿版有】気まぐれ魔法店  作者: 春井涼(中口徹)
Ⅲ期 The Magical Life

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第一話 追悼の花束

#1 現在(前)

 平井零火は、ほとんど虚無の空間に建てられた屋敷に飛び込んだ。日本人なのだが、日本人離れした外見の少女だ。雪のような銀白色の髪に、氷のような水色の瞳。肌は血の気のない白色をしているが、これは血流がないのが原因だ。全ては彼女が雪女であるための特異点。後天的なものだが、今更気にする彼女ではない。それは、他の人物に関してもそうであった。

 仮想空間、と呼ばれる、国境も生命もないこの空間では、そもそも人種について語ること自体、間が抜けて見えることだろう。それに、屋敷の広間でオセロをしている少女たち──零火の妹である幽儺ともう一人、大天使のラザムに至っては、そもそも人間でも、地球の生命体ですらなかった。

戦意も高く、氷剣を握って屋敷に乗り込んだ零火は、その光景を見て首を傾げた。目的の人物が、見当たらなかったからである。彼女は、この屋敷を拠点としている少女たちに問いかけた。

「先輩は、どこに行ったの?」

 先に答えたのは、幽儺の方である。

「そういえば、今朝から見てない」

 今朝、と言っても、まだ午前の十時なのだ。何の予定もなければ、彼はまだ、部屋でのんびりと寝ている可能性もある。もしそうなら、寝ているところを氷漬けにしてやろうか、という作戦を零火が考え始めたとき、ラザムが口を開いた。

「細川さんなら、七時頃に出かけていきましたよ」

 爆弾である。あの男に限って、そんなことが有り得るのだろうか? 零火は疑問に思い、実際に声に出してそう言った。ラザムは苦笑した。

「普段の細川さんからは考えられないかもしれませんが、事実ですよ。小さな花束を持っていきました」

「花束? 何かのお祝い?」

 剣を消し、零火も広間のソファに腰を下ろす。零火と幽儺が揃って首を傾げ、顔を見合わせる中、ラザムはゆるゆると頭を横に振った。

「違いますよ。聞いたのではありませんが、今朝早くから出かけたのは、追悼のためだと思います」

「「追悼?」」

「今日は八月七日、彼女の命日ですから」


 花束を抱えた細川裕は、ある崖の上にいた。水力発電用の人造湖だ。初夏から後頭部で束ねている長い髪が、風に揺られている。感情の読めない表情はいつも通りだが、この日は意図的にそうしているらしかった。

 瞼を閉じ、精霊たちの視界さえも今は取り去って、精神を暗黒世界に送り込む。そうすることで、一年前の光景を、明確に思い出すことができた。


#2 過去一年前

 仁科功一、と名乗る青年が、細川の魔法店に現れた。人探しの依頼がしたいという。

「僕の彼女が、一昨日から行方不明なんです」

 スマートフォンに連絡しても、一向に返事がないのだという。彼女、緒幸花は仁科と同棲していて、連絡なしに姿を消すことは、これまでなかったようだ。仁科が細川に見せた緒の写真は、予告なく不意打ちで撮影されたものらしく、明るめの茶髪が緩やかな曲線を描く女性が、驚いた顔でこちらを見ていた。

「他の写真はありませんか? 特徴や癖の分かるものがあれば、捜しやすくなります」

 細川に言われて仁科が出した写真は、それぞれ服装が違ったり、姿勢が違ったりしていて、そこから少しずつ特徴が見えてきた。身長は約一五十センチメートル、全体的に身体は細く、女性らしい起伏に富んでおり、髪は腰に届きそうなほど長い。主な服装は、暖色系の落ち着いた色調のもので、ハイヒールを履くことはなく、ローファーかスニーカーを使用している。多用するのはスニーカーのようだ。

 そこまでの情報を頭に入れると、細川は隣に座るラザムに声をかけた。

「君は、この件をどう見る?」

「そうですね、予告なく姿を消す理由は、能動的なものと受動的なものに分けられると思います」

 能動──つまり、自らの意思で姿を消す場合。生活に嫌気が差した、仁科に会うことができなくなるようなことを始めた、などだろうか。隠れて心配させたところに飛び出して驚かせる計画、というのも考えられるが、数日経過していることから、その可能性は低いだろう。

 受動──つまり、何らかの外的要因により、自らの意思ではない失踪を強いられている場合。これをさらに二分すると、事故的なものと事件的なものがあるだろう。前者は交通事故や自然災害、後者は拉致や監禁、暴行、傷害などの犯罪に巻き込まれ、帰宅できない状況にある可能性だ。

 しかし、能動にしろ受動にしろ、可能性の分岐が多すぎる。今原因を絞り込むのは時期尚早だ──。

 以上のことをラザムが述べると、一瞬の静寂が魔法店に降りた。一点の可能性が含まれていないことを除けば、概ね細川の解釈と一致する。

 まずは、直近の行動から洗っていくべきだろう。姿を消す前、何か変わった様子はなかったか、という、テレビを見ていれば一度は耳にするであろう台詞を、細川は使った。仁科は少し言い淀んだ後、部屋の私物が少なくなっていた、と述べた。

「これまではなかったような隙間が、棚にできていたんです。それと、ごみ袋の数も普段より多いようでした」

「どれくらい?」

「いつもは一週間で二袋のところを、このところは四、五袋」

 遅かっただろうか。細川は、ある可能性に気付いていないふりをして言った。

「まずは住居の周辺から捜しましょう」

 徒労だろうな、とは、顔にも口にも出さなかった。


 仁科と緒が住んでいるアパートで、細川がまず仁科に頼んだのは、緒のDNAが採れるものを貸してほしい、ということだった。細川ではなく、ラザムが使うのである。この時の細川にはその理由は分からなかったが、ラザムはこう言ったのだ。

「一定範囲内に同じDNAが存在すれば、私はその場所を特定することができます」

 仁科は不思議そうにしていたが、言われた通り、緒が使っていたヘアブラシを持ってきた。魔法を使うはずなのに、科学寄りのことを言われたので疑問に思ったのかもしれない。細川の方は、彼に言わせれば魔法とは超自然的に物理現象を起こす手段でしかないので、特に何も思わなかった。

 ラザムはヘアブラシに手をかざしてしばらく目を閉じていたが、やがてヘアブラシを仁科に返した。もう必要ないらしい。しかし、今調べた範囲に緒はいなかったようだ。収穫は、ないでもない。

「DNAは発見できました。足取りを追えるかもしれません」

 そこからはラザムの力が頼りだった。彼女の能力で緒のDNAを追い、途切れれば手分けして聞き込み、情報を照合し、新たな進路を決定する。

捜索は、思いの外難航した。DNAが見つからないのではなく、寄り道があまりにも多いのだ。西へ行ったかと思えば、北へ進む。南へ歩いたかと思えば東に向かう。明らかに異常だ。分岐したかと思って一方へ進めば、片一方から帰ってくることもある。

──計画性がない。進路が歪すぎる。しかも、一貫性や規則性がない。辿り着く先々で心当たりを問われ、仁科は毎回首を振る。恋人であろうと他人のことをすべて理解できようはずもないが、それにしても何かがおかしい。

仁科の焦燥感が増していく。細川は細川で、初期の予測と現在の状況を符号させ、いくらか食い違う部分があることに違和感を持っていた。

疑心が強まる。まだ間に合うのかもしれない。しかし、何かがおかしい。まるで自らを囮にして動き回り、仁科を右往左往させて時間稼ぎしているような……。

しかしその時、彼はその違和感を口には出さなかった。


 日が傾き始めた。捜索は相変わらず、四方八方を駆け回る状況が続いている。十四時に遅い昼食を摂ったのみで、ラザムを除き、生身の人間である細川と仁科には、疲労が溜まり始めていた。

「少し休みましょう」

 ラザムの提案で、三人は近くに見つけた公園に入り、ベンチに腰を下ろした。

「悪いな、任せっきりにして」

 分けたビスケットを口に放り、細川が苦笑する。魔法店の店主でありながら、彼は未だに魔法を使っていないのだ。労われるラザムには、しかしそれよりも気になることがあるらしかった。

「細川さん、本当は、緒幸花さんの行方が分かっているんじゃありませんか?」

「………」

 仁科が驚いて細川に振り返った。ラザムはそれを一瞥し、根拠を述べる。

「少しずつ足取りを掴んで寄り道した先を知っても、細川さんは、あまり驚いていないように見えました」

「そう見せているだけかもしれないよ。根拠と言うには弱いな」

「違います」

「………」

 きっぱりと否定するラザムは、真っ直ぐに細川を見つめている。

「そうなんですか?」

 恐る恐る、仁科も細川に問いかけた。

「答えてください。あなたは、幸花の居場所を知っているのですか?」

「……いや、知りませんよ」

 細川は否定した。確かに、嘘ではない。しかし驚いていなかったのも事実だ。彼は続けて、

「ただ、失踪の理由については何となく察している。彼女の行動は、あまり俺の想定と離れていない、というのが事実です」

「どこまで?」

 そろそろ頃合だろう。これ以上隠すのは、制限時間を縮めることになりかねない。

「可能性の話です。仁科さん、あなたは緒さんの無事を願うあまり、最悪の可能性から無意識に目を逸らしている」

「最悪の可能性……?」

「自殺です」

 いくらか覚悟していたらしいラザムと違い、仁科はこれ以上ないほど目を見開き、表情を凍りつかせた。恐らく本当に心当たりはなかったのだろう。彼にとっては、それだけ、緒の存在が当然のように傍にあったのだ。突然いなくなったとしても、どこかで生きていると盲目的に信じようとするのは、有り得る話である。

「信じたくなかったために、意識できる範囲に可能性が上がってこなかったのでしょう。あなたは自殺どころか、死を連想させる言葉すら口にしていない。しかし、状況を整合させれば、想定できる。何度も連絡したと言いますが、自宅で鳴らなかったのなら、携帯電話は所持している可能性が高い。ならば事故の線は消えるでしょう。もし交通事故に巻き込まれていれば、携帯電話から身元が割り出され、警察から彼女の家族やあなたへ連絡が行くはず。であれば、警察の感知する事故ではない。自然災害による事故も、気象庁の発表を見る限り、可能性はほぼ排除していいでしょう。とすれば失踪は能動的なものです。私物が減ったのは死に支度のため、死に支度をしていたということは、死期は近く確定しているということ、あなたに話していなかったのであれば、自然死を望んではいないでしょう。残る選択肢は、自殺。これが、俺の推測です」

 一息に話し、細川は水を飲んで仁科に向き直った。

「今度は、あなたが答える番ですよ」

「僕が……?」

 彼は、震える手を押さえつけ、真っ白になるほど強く握っている。細川とて鬼ではないが、さすがに気にしている場合ではない。最悪の事態が発生する前に、止めなければならない。細川の哲学は関係ない。行方不明の緒を探し出すことが、今回の依頼だ。依頼を受けた細川には、それを完遂する義務がある。彼は、非情なほど冷静な声で尋ねた。

「事は既に、好みで左右できる範囲を超えています。緒さんが自殺するとして、最後に選びそうな場所はどこですか?」


 ある山の頂上に造られた、人造湖がある。流入する河川はなく、流出する河川もない。カルデラ湖でもないそれは、揚水式水力発電を採用するためだけに造られた、小さな人工物である。不自然なく環境に馴染んだ湖は、周囲には遊歩道が整備され、ハイキングコースとしても名高かった。春には桜が咲き、夏には緑が繁り、秋には紅葉が舞い、冬には雪と氷が自然の芸術で飾りつける。四季折々の表情を見せる、感情豊かな人工物。それが、この湖であった。


 彼女──緒幸花は、痛む左胸を右手で抑え、鳴動するスマートフォンを左手に握っていた。もう十分以上、着信状態が続いている。自宅を抜け出してから、ずっと電源は切っていたのだが、死の淵に立って、ふと電源を入れてみる気になったのだ。結果はこのとおり、彼氏に愛されすぎて困っている、などという冗談は、泣き笑いになってとても言えない。

 かつて同棲を始める前、付き合い始めたばかりの頃、仁科と緒も、この人造湖に遊びに来たことがあった。愛した恋人と過ごした地を選んだのは、恋人に絶望して死ぬためではない。自死を選んだ理由は、病だった。

 二ヶ月ほど前、ステージ四の癌が発見された。発生部位は、正確には覚えていない。不調がさすがに無視できなくなり、診察を受けた頃には既に全身に転移が進んでおり、治癒は難しいと言われた。病に侵されベッドの上で息絶えるなら、思い出のある場所で一息に死にたい──。それが彼女の最期の望みだった。残念ながら時間切れだ、散々捜索を試みているだろうが、彼はついに、緒の死に目に間に合わなかった。

 ハンドバッグを降ろす。いつか仁科がプレゼントしてくれたものだった。

 スマートフォンを置く。通話やメールの履歴は、仁科とのものが最も多く残っている。

 指輪をはめ直す。何十万円もする、高価な婚約指輪ではない。遊園地でデートしたとき、のりと勢いで買った、数百円の安物だ。これだけは、最期まで持っておく。

 低いロープを超え、歩道の淵に立つ。呼吸を落ち着かせ、目を閉じる。あとは体の力を抜くだけだ。それだけで、彼女は命を捨てることができる。病から自由になれる。

 ──だから、邪魔をしないで欲しかったのに。


「ようやく見つけましたよ、こんなところにいましたか」

 今まさに落下しようとしていた緒の身体を、細川は白銀色の蔓で捕まえた。距離はおよそ五メートルといったところか。物理的にはなかなか頭の悪い角度だが、それを本来非力な彼にも可能にするのが、この初級的な魔術の利点である。

 緒は、首だけで振り返った。ラザムと仁科が、先を争うように呼びかける。呼びかけられた方は、驚愕の表情に顔面を支配されていた。

「どうして、ここが分かったの?」

 その問いは、さて誰に向けて投げかけられたものであったか。仁科は恋人の自殺現場を見て以後の言葉が続かず、答えられたのは細川の方である。

「彼に依頼を受けたのですよ、あなたが予告なく失踪したので探してくれ、とね」

 細川は、ゆっくりと緒をロープの内側に降ろす。解放した彼女が再度身を投げないか、隣で警戒するラザムの頭を、彼は空いた片手で撫でて労う。

「状況説明を受けた時点で、自殺願望には気付いていましたよ。ただ、証拠がない。失踪の原因はその時点では絞りきれなかったので、我々はひとまず、あなたの行動を追うことにしました。あなたと同棲している仁科さんから、うちの優秀な天使があなたのDNAを入手、それを元に、あなたの行動を追跡。しかしあまりにも一貫性がない。事故や事件に巻き込まれた可能性はこの時点でほぼ消えていましたから、彼に認識を伝え、この場所を推測、そして寸前で確保。これが現在の状況です」

 つらつらと全て説明すると、彼はラザムに向けて、「お手柄だった」と笑いかけた。蔓を引っ込め、肩の力を抜いた細川が、今度は緒に笑いかける。ただし、ラザムのときと違って友好的な笑みではない。有無を言わせぬ圧力の籠った笑みだ。

「では、諦めてください。まさか、現場を押さえられていながら自殺強行なんてしませんよね」

 緒が黙っていると、今度は仁科が彼女に歩み寄った。

「幸花、どうして自殺なんかしようと……」

 責めるような口調ではない。決壊寸前の感情を、理性で無理やりねじ伏せているような不安定な声音。恋人が目の前で自殺しそうになっていたのだ、動揺しない方が不思議である。対して、緒が見せたのは、自嘲だった。

「今死ななくても、わたしはあと一ヶ月で死ぬ予定なの。病気でね」

「病気だって?」

「全身に転移した、ステージ四の癌。治療はできないと言われた」

「じゃあ、最近無理をしているように見えたのは……」

「隠してて、ごめん。思ったより進行が早かった」

「なるほどね」

 それを聞くと、細川はため息をついて首を振った。自殺の動機まで推測していた訳ではないが、分からなくもない話である。死期は初めから確定していたらしい。苦しむ時間を短く、単に早めようとしていただけだったようだ。寄り道が多かったのは、覚悟のための時間稼ぎか。全て繋がり、腑に落ちる。

「病の苦痛に殺されるくらいなら、いっそ一思いに、という訳ですか。ステージ四の癌なんて、日常生活すら不便でしょうに」

「それで、苦しみから逃れるために、緒さんは自殺を選んだんですね」

 ラザムも多少の同情をもって呟いた。容易ならざる事情に、様々な反応を見せる一同。数秒の静寂を破ったのは、ラザムだった。

「ステージ四の癌は、本当に治療できないんですか?」

「一般的には不可能だと言われている。成功例も僅かながらに存在するが、基本的に、全身に転移した癌細胞の除去は非常に困難だ。癌細胞は転移先の生命機能を奪う。取り除いたと思っても、再発のリスクがある。ステージ四まで進行した場合、快癒よりも、延命や苦痛を和らげ楽に死ねるような治療をすることが多いと聞く」

 細川が答えると、緒が口を開く。

「その通りなの。だから……」

 死なせて欲しい、と続けることはできなかった。ラザムが発言を遮ったからだ。

「つまり、全身の癌細胞を取り除き、生命機能を取り戻せば、治療が成功したことになるんですね?」

「それは、そうだが……」

「でも、現代の医療ではとても……」

 細川が唸り、仁科が苦しそうに呻く。しかし、ラザムはそれを正面から受け取らない。つまり、科学ではだめなのだ。

「魔法的手段なら、可能性はあります」

 驚いて細川はラザムを見つめ、仁科と緒は顔を見合せた。細川も気付かなかった可能性だ。まだ魔法に触れて日が浅い、という言い訳は後に回す。今は事実を確認するのが先だ。

「ラザム、それは本当か?」

「はい、不可能な治療を可能にできる存在を知っています。私も実際に会ったことはまだありませんけど、でも希望はあるんです。緒さん、自殺はまだ早いと思います」

 その訴えは、緒の決断を動かした。閉ざされた暗闇に、ラザムは一筋のひかりを差し込むことに成功したのである。細川が使った魔術の蔓によって、魔法の存在は緒にも伝わっていた。そうして一行は、彼女の治療をラザムに任せてみることにしたのである。


 ──そう言って終わることができれば、どれだけ良かっただろうか。残念ながら現実とは、そう都合よく喜劇で区切れるようにはできていなかった。その直後に起きた事態を、細川は神々の悪意と考えている。

 まず、緒が胸を抑えて体勢を崩した。彼女はステージ四の癌に侵されている。本来立っているだけでも、体に莫大な負担がかかるはずだ。仁科がそれを支えようと手を伸ばすより早く、突風が吹き、緒の身体を湖に投げ出した。強風の多い場所なのだ。捜索対象を発見して安心した細川は、緒をロープの傍に立たせていた。あるまじき失態だ。

──間に合わない。一拍の後、重い音が崖の下から響く。仁科が絶叫して飛び出そうとするのを、細川とラザムが抑えた。

「放せ! 放してくれ! 幸花を見捨てろというのか!?」

「あなたまで死ぬつもりですか!」

 今世一の失態を犯したばかりの身で何を言っているのか、と自嘲しながら、細川は珍しく怒声を張り上げる。

「もう間に合いませんよ」

「嘘だ! この下は湖だ! 人が落ちて直ぐに死ぬはずはないんだ!」

「その手前に斜面があります。しかも、岩肌の。落下した体制を考えると、恐らく即死でしょう」

 思えば、この時からだったのかもしれない。事実を事実として認識し、助からないものを切り捨てる非情さが身に付いたのは。

 救えなかった。結果的に、消えた恋人を捜索する依頼と、その死の願望を完遂する役を果たしてしまった。希望が芽生えた瞬間に潰えることの残酷さは誰よりも理解しているというのに、それを他者に強いてしまった。

 悔恨の念は、一年経っても、細川の精神に重く残っている。罪なき者を、殺したのだ。


#3 現在(後)

 足音に気付き、細川が振り返ると、背後には仁科が立っていた。「あなたも来ていたんですね」と声をかけられ、細川は向き直る。

「命日ですからね。一年前のあのことを、忘れた日はありませんよ」

「お一人なんですね」

 仁科が言ったのは、ラザムのことだろうか。細川は、ラザムには外出の理由を伝えていない。仁科はラザムがいることを望んでいたのだろうか。それはほぼ無意識のうちに、言語化されて零れていた。

「あの子も来ていたら、幸花は喜んだでしょうか」

 細川は穏やかに、しかし強く否定した。

「死者の言い分は、誰にも分かりませんよ」

 脳裏にあったのは、幽儺の話だった。彼女と初めて会った日に聞いた、父親の身勝手で残酷な発言。決して生者に語ることは許されない、へどろに塗れた綺麗事。

 何人もの人間を殺した細川に言えることではないが、それでもあえて、口に出す。

「俺は、実の父親に裏切られた少女を知っています。事故で命を落とした少女の葬式で、父親はなんと言ったと思います?」

「……なんと言ったんですか?」

「彼は、少女の友人たちに向かって、こう言ったそうです。『参列してくれて、あの子も喜ぶだろう』しかし多くの未練を残して死んだ少女は、幽霊となってそれを見ていた。その目の前で、心を捏造したんですよ」

 細川は、再度湖に向き直った。朝日が湖面に反射し、彼の顔を強く照らす。

「生きていようと死んでいようと、他者の考えることは理解できない。喜ぶどころか、恨んでいるかもしれない。生者が死者の代弁をするのは、先の父親とか同じ裏切り。生者の傲慢に過ぎません」

 強い風が吹く。足元に置かれた花束から、花弁が吹き散らされて湖に吸い込まれて行った。

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