第八話 終戦記念日
#1 虚実混合
朝の八時、高校のあまり人通りが多くない区画で、ある重要な会話がされていた。
「今日一日、お前は成瀬七実に近付かないでくれ」
立花に向かって細川が告げたのには、当然理由がある。重要なことで、なにも声高に「リア充爆発しろ!」と叫んでいる人間と同類になった訳ではない。そもそも彼は、その手のことにいたって淡白だったから、べたべたとくっつく恋人たちを眺めても、特に何も思わなかった。言われた方は一瞬反発しかけたが、ふざけているのではないとすぐに察したようだ。しかも、かなり深刻な事情があるとみえる。
「一年前、俺たちが大磯の海水浴場で堕天使に遭遇したのは覚えているな?」
「忘れやしねえよ。あいつには肉を食われた恨みがある」
食べ物の恨みは強いと言うが、野球部のエースにもそれは通ずるようだ。
「そう、その堕天使だ。殴ってやりたいかもしれないが、立花、はっきり言って、お前では何の役にも立たん」
「いきなり何を言うんだ?」
「一年前はどうだったか知らないが、少なくとも、今のお前は色仕掛けに容易に引っかかる土壌がある」
「おい待て、お前それは俺が浮気性だって言いたいのか」
「逆だ。お前だけが引っかかる」
激発を制し、細川は首を振った。
約一年前、大磯の海水浴場で遭遇した堕天使のルシャルカは、立花が投げつけた骨によって追い払われた。その当時では、むしろ細川よりも立花の方が、対ルシャルカにおいて、有用だったとも言える。しかし、精霊と契約を交わして以降、細川の能力は爆発的に開花し、戦闘において負ける要素はどこにも見られないほどであった。そもそも一年前に、骨でルシャルカを追い払うことができた理由が不明である以上、いつまでもその戦法に依存しているわけにもいかないのである。不意打ちだったから通じた可能性の方が高い。彼女を殺すためには、現在の細川の能力が、必要不可欠なのであった。
「俺が七実に近付いてはいけない理由は?」
「今はまだ話せん。明日には伝えられるだろうから、少し待っていてくれ。それと……」
「なんだ?」
少し考え込むような素振りをし、細川は言った。
「今日はできるだけ、屋内にいてくれ」
立花にとっては意味不明であったが、無意味に言ったとも思えないので、従うしかなかった。
細川は普段、魔道具を持ち歩いてはいなかった。マナ・リボルバーとレーザー・リボルバーはコードに登録して精霊に預けていたし、水晶拳銃と全自動拳銃は、どちらも屋敷に保管している改造コートに仕舞い込んでいる。魔法系の銃はそんなものだったし、他の魔道具といえば、あとはこたつやら冷暖房やらなので、持ち歩くようなものがないのである。しかし、この日ばかりは、制服の上にカーディガンを着用し、胸ポケットに拳銃を仕込んで隠し持っていた。ちなみに、威力的には銃刀法違反である。
放課後、東棟二階──。特別教室がほとんどなく、人通りが少ない空間だ。何に使われているのか分からない部屋がいくつかあり、喧嘩向きの場所でもある。以前、細川と同学年の生徒四名が、ここで殴りあって生徒指導を受けたと聞いたこともある。細川は、ここにラザムを呼んでおき、誰が使うとも知れないベンチに腰掛けて、メモ帳に魔法陣を書き込んでいた。そして、待っていた人影が現れると、顔を上げる。
「なんだ、こんなところにいたんだ。探したんだからね」
「そうか、人気のない場所にいた甲斐があったな」
細川は、メモ帳とボールペンを、手元に開いた仮想空間への魔法陣に無造作に放り込んだ。ラザムの姿には、まだ気付いていないらしい。天使本来の身体なら、細川の影に隠れることができる。
「それで、なんのために俺を探した? 新しい指示でも来ているか?」
「ええ、『白兎』さんからの新しい命令」
ゆっくりとした歩調で、細川に歩み寄る。そして、制服のポケットから、一枚の紙を取り出し、細川に差し出した。その紙に、彼は指を近付けると──、
「下らんな」
紙に火をつけ、一瞬のうちに焼却した。彼女の手には、僅かな灰が残る。
「ちょっと、何するの!」
「甘いな。堕天するような奴は、所詮この程度か」
細川は、彼のすぐ目の前で成瀬七実のふりをしている人型に拳銃を突きつけた。
「なんのつもり?」
「見ての通りだ」
人型の後方に、ラザムの魔法陣が張られる。彼女にしかできない、結界の魔法陣だ。細川の人差し指が、引き金にかかる。
「俺は、この日を待っていた。貴様が再び俺の前に出てくる日を。一年ぶりだな、ルシャルカ」
引き金が引かれ、八発の銃弾が連射された。水晶拳銃の弾倉に、水晶弾を詰めた、全自動拳銃だ。水晶拳銃と全自動拳銃は構造が近く、弾倉と銃弾には互換性がある。つまり、全自動拳銃で水晶拳銃の弾倉を使用することができるのだ。普通の人間なら、水晶弾を撃たれれば二発で即死する。念には念を入れて、という考えで細川は八発の水晶弾すべてを撃ち込んだが、一瞬の後にその場に残っていたのは、成瀬七実の偽物が着ていた、制服の複製品だった。中身の方はといえば、堕天使の姿──身長約六十センチメートルの身体──になって、細川の背後に回り込んでいる。荒い息をついているが、つまりは、
「水晶弾では仕留めきれなかったか!」
恐らくは発射し始めてすぐに回避したのだろう。でなければ、ラザムですら避けたがる水晶弾を受けて健在である理由がない。
細川が氷剣を振るい、ラザムは対悪魔専用の光線で援護射撃する。しかし、ルシャルカは小さい身体で素早く切っ先を逃れ、空中に複数の魔法陣を置いて熱線を撃ち込んできた。
ルシャルカの熱線は、氷を防御に使うことで一応は抑えることができた。しかし、厄介なのがルシャルカの能力──彼女は、身体を自在に伸縮させることができ、なおかつ硬さを変えることができる。言ってしまえばパトリックとオリヴィアの能力はルシャルカの能力を一部分けたものなのだが、これが組み合わさった上、一度は大天使に抜擢される魔術能力もある。細川とラザムが単純な魔法を使っても、倒しきることができない。
戦闘が一度区切られたところで、ルシャルカの方から細川に話しかけた。
「よくあたしだと気付いたわね」
「本物の成瀬七実は、今日は体調を崩したと言って自宅にいるはずだ。そういうことに、予めしてあったからな」
「ふん、もともと決めてあったって訳か」
つまらなそうに言うと、ルシャルカの足元に魔法陣が浮かんだ。細川とラザムは、その意図を一瞬で悟る。
「本気で鬱陶しいな、お前らは。パトリック、フィリス、オリヴィア、他にも何人か部下を作ってたのに、全部音信不通だ。何人かはお前らのせいだろ?」
「【コード『ω』】!」
細川が魔法陣の破壊を試みるが、それはルシャルカの手によって阻まれた。その間にも、彼女は喋り続ける。
「今回は失敗だ。お前らは、もう少しましなやり方で潰してやるよ」
彼女が言い終えると、そこには結果が残された。
細川とラザムが危惧していた結果──ルシャルカを、取り逃したのである。
#2 少女たちの異議
「先輩、死ぬ気なんですか?」
平井零火は、細川裕の発言に耳を疑った。発言、というのは、彼がルシャルカとの決戦において、自由な行動を許されたと前置きした上で、ラザムと話し合った内容を、一応零火にも伝えた、その件である。
「俺がルシャルカを誘い出し、これをラザムとともに、二人分の戦力で叩き潰す」
という、一見粗雑なような囮作戦だ。ラザムは細川が囮になることに最後まで反対したが、結局はいつにも増して頑固な細川に、ラザムが折れた形である。彼女は挙句には半泣きで危険を訴えたが、多少の危険は計算のうちなので、反対を押し切ったのだ。しかし、その作業をもう一度行う必要があるらしい。零火もまた、細川が自らを危険に晒す案に難色を示していた。
「先輩、さっき学校でルシャルカを取り逃したって言ってたじゃないっすか。それなのに、仮想空間で撃破できるんですか?」
「心配いらないよ。仮想空間なら手加減が要らない。生還して、二時間後には紅茶とケーキでも味わっているだろうさ。ようやく平和になる」
「そういうこと言ってると、死にますよ」
「なんだ、心配しているのか?」
「そうですよ、心配しているんです」
細川の勘が働かないとはいえ、少々正直すぎるようだ。
「先輩を倒すのは私です。どこの誰とも知らない堕天使なんかに、殺されたら許さないっすよ。私は、先輩が勝って疲れたところを襲撃して降伏させるつもりなんですから」
言ってること自体は一般社会においてかなりとんでもないことなのだが、零火は真剣そのものだ。彼女は細川を正面から見据えて宣言する。そんな後輩の姿が、彼には快い。
「待っていてください。これまで一度も届かなかったけど、今度こそ私は先輩を超えてみせますから」
そう言われてみれば、零火の勝ちそうな余地はある。実力を全て発揮できれば、彼女の能力は既に、細川を超える可能性がほぼ確実なのだ。未だに届かないのは、零火の無意識下での自制のせいだろう。少なくとも、彼はそう見ている。しかしそれも、いつまでもつか。細川には、いっそそれが楽しみですらある。今生最大の願いともいえた。
いっぽう、作戦の決定後も、ラザムは細川に、安全策の採用を説いて止まない。
「細川さん自身が危険な役目を追う必要はないはずです。できるだけ安全に、ルシャルカを倒す方法はないものでしょうか」
これが反抗心から来るものであれば、彼としては、むしろその方が気は楽だっただろう。無論、彼女の提言はそんな動機からではなく、本心から細川の身を案じてのことだったから、却下する度に、細川の良心は痛むのである。
断る理由は、ないでもない。細川の説明するところは、次のようなものだ。
自分の安全を最優先すれば、その分ルシャルカを野放しにすることになり、被害は正比例して拡大するだろう。彼女は『白兎』が対処しているとしても、完全にとはいかないものだ。『白兎』は対ルシャルカの切り札を持っておらず、倒し切るには至らない。であれば、ルシャルカを撃破する能力のある超戦力──細川、ラザム、ライなどが、早期に抹殺しなければならない。多少の危険を顧みず、ルシャルカを倒す必要があるのだ。
もっとも、その「多少の危険」こそが、ラザムの咎めるところなのだが。再三話し、再四納得させたことなのだが、結局、ラザムの苦言は決戦当日まで続いた。
#3 変事
一人の男が、人気ない通りに立っていた。ある交渉を行うためである。目の前に現れたのは長身の女──シャルロット・ルッカと名乗る、ヨーロッパ出身の武器商人だ。平和ボケした日本にもこんなのがいるのか、などと初めのうちは驚いたが、最近では、むしろ平和ボケした日本だからこそ、こういった人間が現れるのだろう、と考えるようになっている。スパイ防止法もない弱小国なのだ、武器商人の百人くらい、探せばいるのかもしれない。
男はこの日、たったの二万五千円で、拳銃──ベレッタM92と、弾倉を五セット手に入れた。重い銃の具合を触って確かめつつ、男はシャルロットに尋ねる。
「本当にいいのか? こんな程度の金で」
「気にしないで」
得をした、とは思いつつ、何か拭いきれない不安が男を締め上げている。女の方は平然としたものだ。
「あたしにも、この取引は意義がある」
……三日後のことだ。男は警視庁公安部から流された情報により、警視庁刑事部によって、銃刀法違反の容疑で逮捕された。武器商人の女は逃げおおせた。公安でもまだ掴めていないのだ。当然と言えば当然かもしれない。
シャルロット・ルッカの本名はルシャルカ──日本に潜伏する、堕天使である。
「ここ最近、市内で摘発される人間が多いな。銃刀法違反か、馬鹿なことを」
どの口がそれを、と言われかねないことを平然と言ったのは、誰であろう、細川裕である。彼は、「ルシャルカが自分やラザムを狙うなら近所で何かしでかすはずだ」と当たりをつけ、ここ数日、特に地域のニュースを注視していたのだ。その結果、どうも最近、市内では男が拳銃を所持したとして摘発される事件が相次ぎ、捜査の結果、同一人物から格安で提供されたらしいということが、分かってきているようだ。またあるときなど、飲食店内で拳銃を発砲し、強盗致傷の現行犯で取り押さえられた者もいた。銃の使い心地を試したかったのだろうが、もう少しましな思考をしなかったのだろうか。
ただ、いくら拳銃所持者を摘発しても、出処が判明しなかった。証言を取っても、銃の提供者が見つからない。このままでは埒が明かないと判断した刑事部は、ついに被疑者の証言に基づく、複数枚の似顔絵と名前、拳銃の種類の公開に踏み切った。
ベレッタM92の幽霊銃。弾薬五セットを付けて二万五千円。提供者はヨーロッパ出身の女で、名前はシャルロット・ルッカという。特徴を捉えることを優先する似顔絵は、そっくりそのまま本人の顔とはならない。しかしその顔は、間違いなく細川がつい先日相対したルシャルカだった。
第一、シャルロット・ルッカという名前自体、ルシャルカによく響きが似ている。ラザムに言わせると、天使の名前というのは大体そんなもので、多少のひねりが加えられているのは、リリーナ──リリィ・ローズバーグくらいのものなのだという。ほとんどはレイラ──レイ・ラブレーとか、クリーシス──クリスティーネ・クルーザのように、天使名を姓名に分割したり、天使名に似た響きの姓名を取ることが多いようだ。ルシャルカの場合は前者の命名である。無論、ラザムのように、人間の名前を使わない天使も多いのだが。
情勢が動いたのは、梅雨が終わる頃だった。シャルロットに銃の供与を受けた者の摘発が、後を絶った。市民は平和を取り戻したかのように胸をなで下ろしたが、公安の目を逃れるものは、なお存在した。嵐の前の静けさ、というやつで、鍋の中には、今にも沸き立ちそうな熱湯が、音もなく対流していたのである。
七月に入った頃、熱湯はついに沸点を超え、鍋の蓋を跳ね除けて噴き上がった。異変を察知したのは、仮想空間の屋敷を守護する将来の龍──ウィアであった。
#4 仮想空間の最終決戦
滅霊僧侶団の活動が活発化していた頃、屋敷で保護している幽儺に危険が及ばないよう、『白兎』の指示で、細川は契約精霊であり幽儺と仲の良いトカゲ(傍目にはそうとしか見えないのだ)を屋敷の警備に配置していた。トカゲというよりヤモリのようだが、とにかくもこのトカゲこそが、最初に襲撃者の気配に気付いたのである。普段の襲撃者といえば、細川を倒さんとする零火くらいのものだが、今回はどうやら様子が違うらしい。平井零火は屋敷の中に初めからいて、一日一回の襲撃権を、既に使ったあとだった。
それでは、この襲撃者たちは何なのか。屋敷は玄関を南にして建っているが、襲撃者たちは北側から屋敷に向かってきており、その数は「数名」と呼べる規模ではない。ウィアは予め指示されていた通り、襲撃者たちのいる方角に巨大な氷の花を打ち上げ、三秒後に砕いた。敵襲を確認した合図だ。同じ頃、ライの監視する西側にも敵襲があり、氷の花が散った。屋根の上に陣取って南東方面を見ていた細川は、正面の地面が蠢くのを確認すると、微精霊に伝言を託し、ウィアとライの元に向かわせる。内容は、
「お前たちにそっちの対処を任せる。殺さないように氷を撃ち込んで、動けなくしておくように」
仮想空間は地球上どの国家の権力も及ばないため、殺人があっても被疑者になることはない。しかし、細川はある事情があって、襲撃者を殺さない決断をしていた。
「ラザム」
細川は、隣に座っている腹心の名を呼んだ。
「二方向から来ている連中を使って、君がこの屋敷を襲うなら、どんな戦法を取る?」
「日本で集められたということは、どれだけ訓練しても、彼らは魔法を使うことはないでしょう。とすれば、ルシャルカ以外はほとんど、細川さんに対する攻撃能力はないと見なせます。魔法を用いた攻撃能力を持つ自分だけが別行動で接近し、他の戦力は陽動として、別の方角から屋敷に向かわせるのが有効ではないでしょうか」
「そう、その通りだ。つまり、北と西から来ている集団に、ルシャルカはいない。どちらでもない方角──南東に、奴はいる」
細川は頷いて、ライフルを取り出した。接近戦が多く、思ったよりも今回の戦争で活躍の場面がなかった熱魔石ライフル。弾倉部に仕込まれた魔石にマナが流入されることで火炎弾を射出する仕組みで、弾速はゆうに、秒速千メートルを超える。細川はこのライフルの魔石に、今回は呪榴弾に使用した呪術魔法を付与していた。
呪榴弾は呪術魔法を使用した強力な手榴弾だが、細川が投げると自分まで爆発に巻き込まれ、うっかり死ぬ可能性がある。そのため、気が遠くなるような速度で物体を撃ち出すレールキャノンも同時に作ったのだが、こちらはこちらであまりにも危険だったので、零火に「絶対二度と作っちゃだめっすよ」と言われていた。細川としては、対処法を思いつかない以上、当面の間は従う構えである。
どこかに狙いを定めた細川がライフルの引き金を引くと、遠くの地面で爆炎が噴き上がり、三秒程度経ってから轟音が響いた。
屋敷で細川に保護されている幽霊の少女、平井幽儺は、その爆発の音で夕方の読書を中断した。カーテンを開けて窓の外を覗くと、強烈な赤い光が差し込んでくる。思わず、幽儺は窓から目を背けた。それにしても、この物騒な光は一体なんだろうか。細川は何も教えてくれなかったので、幽儺にはさっぱり事情が分からない。もっとも、聞いたところで教えてくれるとも思えないのだが……。
幽儺は、屋敷の中で誰かが走る足音を聞いた。泊まりに来ている姉の零火か、屋敷の持ち主である細川のどちらかだろう。細川が仮想空間に魔法を放ち、大きな音を立てたので、零火が怒って殴り込みに行ったのかもしれない。止めた方がいいのだろうか、と思い、ひとまずは部屋の外に出ようとして、幽儺は寝室のドアノブに手をかけた。
足音が迫ってくる。しかし、それが妙に重い。零火ではない。彼女は体重があまりにも軽いので、床に響くような足音は、たとえ走っていても鳴らないのだ。細川でもない。彼は走るときの足音が軽く、ほとんど音を立てない。体重の問題ではなく、意識してそうしているようだ。だとすれば、この足音は何なのか。よく聞けば足音はひとつではなく、複数あって、他の部屋のドアを次々と開けていく音も聞こえるのだが……。
怖くなった幽儺は、咄嗟にドアノブから手を引いた。手を離したドアノブが、微かな音を立てる。その瞬間、部屋の外から聞こえていたドアの開閉音が聞こえなくなった。どれだけ耳がいいのか、今の音が聞こえてしまったらしい。反対に、今度は窓の外から何かが破裂するような音が連続して響いてきた。屋敷の壁に何かがぶつかる音も聞こえ、窓が割れる音も、隣の部屋や下の階から聞こえてくる。屋敷の中にいるらしい謎の人物たちも、その音を契機にドアの開閉を再開した。幽儺がドアの前で固まっていると、音は次第に近付いてくる。そしてついに、幽儺の寝室のドアが開かれた。立っていたのは、見た事のある格好の、坊主頭の男だった。
(滅霊僧侶団──!)
零火や細川の話から、どうやら消えたらしいと考えられた集団だ。しかしそれは誤解だったようで、幽儺を目の前にして嬉しそうな顔をする仏教徒など、変態でもなければ滅霊僧侶団に他ならない。幽霊の天敵だ。逃げ場がどこにもない。細川は滅霊僧侶団から保護すると言ったが、肝心なところで保護できていないではないか。幽霊を見つけた、と呼びかけた男は、手に紙切れのようなものを持って、ゆっくりと部屋に入ってきた。ここまでらしい。結局、現世に残した未練のほとんどを解消できないまま、強制的に死後の世界とやらに送り込まれる運命だったようだ。そう覚悟したとき、ふと幽儺は、背後に別の気配を感じた。滅霊僧侶団の男が、異様な敏捷性をもって回り込んだのではない。その男は目の前にいる。聞きなれた声が、後方から聞こえてきた。
「幽儺、伏せて」
言われた通りに幽儺が身を屈めると、頭の上を何かが高速で飛び、部屋に入ってきた男は後ろに吹っ飛んで廊下に叩き出された。
「全く、真っ先に妹の元に駆けつけないで、あいつは何をやっているんだ」
姉ではなかったが、この屋敷の持ち主である、細川が助けに来たらしい。一瞬のことで何が起きたのかは分からないが、目の前に倒れた滅霊僧侶団の男は、しばらく動く気配はないようだ。
「何とか間に合ったようだな」
「それより店主、どこから入ってきたの?」
「そこだよ」
細川が指さしたのは、何の変哲もない天井だった。どうやら、魔法陣か何かで入り込んできたらしい。相変わらず規格外な魔法使いだ。
「もう察しているかもしれないが、どうやら今夜のどさくさで、滅霊僧侶団が屋敷に侵入したらしい。適当に追い出すから、君はしばらく俺から離れるな」
細川に連れられて廊下に出ると、突き当たりには、すでに気絶させられたと思われる滅霊僧侶団の男たちが集められ捕まっていた。銀色の簡易的な魔法のロープで縛られているらしい。零火の襲撃に対して細川がよく使うものだから、幽儺も知っている。あれを解くのは、使用した細川か、ラザムでなければ不可能だ。滅霊僧侶団たちは何やらもぞもぞと動いているが、半分くらいは無意味さを悟っているらしい。途中、隠れていたらしい僧侶が現れたが、
「まだいたのか」
と、細川が面倒くさそうに呟いた次の瞬間にはひっくり返っている。何が起きたのかは分からないが、さしあたり、幽儺が心配することもないようだ。廊下を歩いていると、何やら部屋の方から硝子の割れる音が響いてくるが、細川は幽儺に部屋の方を歩かせず、ごく自然に彼女を守っていた。
やがて幽儺が連れてこられたのは、一階の空倉庫だった。彼女は首を捻ったが、元々は魔石類を大量に収納するつもりで作った部屋らしい。爆発が起きても周りに被害が出にくいよう、頑丈な造りになっているが、あまり大量の魔石を保持していることはなく、少量であれば爆発事故も自然発生しないので、魔石は細川の実験室で保管されている。結局、取り壊すのも面倒なので、この頑丈な倉庫だけが孤立したというわけのようだ。よく見ると、閂らしいものが付いていたあとがある。しかし、それは何故か壊されていた。細川が扉を開くと、中にはラザムがおり、幽儺にも入るよう指示された。
「今最も安全なのはこの中だ。しばらくラザムと一緒に待っていてくれ。すぐに屋敷の安全を確保して戻る」
ラザムが何も言い返さないところを見ると、どうやら既に色々言い合った後らしい。彼女の顔は明らかに「諦め」と言っている。これくらいは、半年も一緒に屋敷に住んでいれば読めるようになっていた。細川は、ラザムに向かって「あとは手筈通りに」と言い残して倉庫を閉めた。ラザムは、細川が消えると扉を内側から魔法陣で固定した。
幽儺の保護は、どちらかと言えば事後処理に類するものであった。南東の地面を派手に爆破した細川は、ラザムと共に爆発地点へ向かい、マナ・リボルバーを構えて警戒しつつ爆心地に接近する。未だ炎は上がっているが、元々魔法による火は燃料がないので消えやすく、この爆炎も、既に八割が消えかかっていた。
その消えかかった炎の中に、細川は蠢く影を発見した。仮想空間の地面と同化する農灰色の服を纏った長身の女。ルシャルカだ。瀕死のようにも見えるが、一応生き残っていたらしい。程なくして爆炎が全て消えると、ルシャルカはオリヴィアのように腕を伸ばし、細川に掴みかかった。細川はマナ・リボルバーの引き金を引き、爆炎でその腕を弾き返す。さらにそこへ、ラザムが水色の結晶体を撃ち込み、腕を切断する。氷とは違うようだが、斬れ味は絶対零度の氷剣にも劣らない。というか、この境地まで達してしまうと、物理法則的に能力が頭打ちになり、全て同等の斬れ味になってしまうようだ。しぶといルシャルカも、ここまで攻撃を受けると、さすがに耐えきれなくなったらしい。ふらりと揺れ、仮想空間に倒れ込んだ。
実は、ルシャルカが初めにラザムを襲ったのは、逆恨みにすらならない理由だった。彼女は天使として禁じられている生命創造を魔力使用者の補佐で行い、堕天した。当然、それによって大天使の座は一つ空位になり、代わりが必要となる。そこへ置かれたのが、ラザムという青二才だったのだ。ちなみに、契約違反によって生み出されたのが、中級悪魔オリヴィアである。
細川は、倒れ込んだルシャルカに、体力を魔力として吸い上げる呪術を付与した。これでもう、彼女は起き上がることができない。別の呪術の副産物として発見したものだったが、使い道はあるものだ。
禁術の類として、魔法に分類するかどうか度々議論されるらしい呪術魔法だが、実は呪術そのものには、まったく毒性はない。呪術の本来の性質は物質に対する高い吸着性で、応用が効きやすいため、改変して疫病や凶作などの、重大な被害をもたらすのである。有害な改変が多いのは、呪術を求める者たちの歪んだ執念の結果であり、細川が手を出したのは、単に本来の性質を求めたからである。最初の使用用途こそ禁術そのものだったが、そもそも彼が初めに考えていたのは、魔道具制作の効率化であった。
動けなくなったルシャルカを、絶対零度の氷剣を持った細川が見下ろす。彼の瞳は、右手に持った氷剣に匹敵するほど冷ややかで、先刻の爆炎とは対照的だ。
「遺言があったら聞いてやる。今度《禁忌》の奴に会ったときに話しておく」
戦場を仮想空間に移したためか、細川が考えていたより呆気なく片付いてしまった。
「遺言ってほどでもないけどね、一つだけ言っておくわよ」
掠れた声で、ルシャルカは言った。ラザムも水色の結晶体を用意して控えているので、今から時間稼ぎをしてもなんにもなりはしない。本当にただ言い残すだけのつもりなのだろう。しかし、その一言はそれなりの爆弾ではあった。
「堕天使があたしだけだと思わないことね。魔王が現れて、今三千年程度、その間無数の天使が創られ、死んでいった。中にはあたしと同じように、堕天したものも大勢いる。少なくとも、現存する堕天使はもう一人いるわ。名前は──イヴリーネ」
どうやら本当の終戦はまだ先のことになるらしい。どうやらほかに情報は吐きそうにないので、細川は氷剣を持ち直した。
「後は任せるわ、イヴリーネ。しっかりやんなさい」
その言葉を最後に、細川とラザムはそれぞれ氷剣と結晶体を振り下ろした。ルシャルカの身体は、粉々になって消滅し、仮想空間には静寂が残った。
#5 終結と解放
ライとウィアに任された戦場は、多少の撃ち漏らしが屋敷に到達したものの、ほとんど全ての敵を氷で貫いて制圧することに成功していた。ルシャルカとの決戦から舞い戻った細川は、幽儺を保護した後、屋敷に到達した滅霊僧侶団やその他の襲撃者を容赦なく叩きのめし、屋敷の内外は、このあと数日間、血の匂いが残ることとなる。ライが対処を担った西側には拳銃を持った男たちが大勢あり、戦場には無数の弾痕が残されている。屋敷の壁にも銃弾がめり込んでいて、これが細川側の、戦後のささやかな後遺症となった。
そして、初めから屋敷にいたにも関わらず、屋敷内の滅霊僧侶団に反応を見せなかった零火が何をしてたのかと言えば……。
「氷の壁を沢山置いて、銃弾を防いでたよ。派手な戦い方ではなかったけど」
戦場を回り、疲労で倒れ伏す零火を回収した細川に、ライが言った一言である。もっとも敵対視しそうな相手ではなかったものの、襲撃者に対し、細川の知らないところでしっかりと活躍していたようだ。
また、拳銃を持った襲撃者たちが屋敷に到達しなかった理由は、もうひとつあったらしい。ライ曰く、襲撃者たちの動きは、攻撃が始まって二分後には大きく崩れていたという。その原因は、彼らの後方に現れ、ワイヤーとナイフと拳銃を巧みに使い分けて襲撃者たちの制圧に貢献した、『白兎』であった。彼女は零火と細川の姿を見つけると、呼び止めて声をかけた。
「キミたちを、私の協力者から解放する。今回の任務によく貢献してくれた」
彼女は事後処理を済ませた後、共和国にある『幻影』本部に帰還し、任務の報告をするそうだ。新たに存在が浮上したイヴリーネのことも同時に報告し、次の任務に備えるのだ。
細川は別れ際、『白兎』に一つ頼み事をした。今回の襲撃者たち──滅霊僧侶団含む──を仮想空間から日本に送り返すので、居場所を公安警察に密告してほしい、ということだ。『白兎』は、
「それくらいなら再度ことを構えることもないだろう」
という形で快諾した。
「イヴリーネの件もあるなら、まだキミを連れ回したいところだけど」
「ここまでですよ。次は、また四ヶ月後に」
零火を連れて屋敷に戻ると、広間にはラザムが待っていた。零火が部屋に引っ込んだ後、ラザムは、お疲れ様でした、と言って細川を労い、戦いの手際を称賛した。
「いや、あれは君がいたからできたことだよ。ライやウィア、ほかの精霊たち、それに零火もよくやってくれた」
ラザムは、そう言ってソファに寝た細川を嬉しそうに眺めた。終わってみれば、後に残るのはその程度のことである。
Ⅲ期はできればのんびり平和に書きたいところだが、なにしろ主人公があれだからなあ……夢のまた夢かな。重い話もあるし。




