第四話 公安警察『ゼロ』
#1 急報、烏に乗せて
細川が教室で授業を受けていたときのこと。一羽の烏が、窓に衝突した。教室の中がにわかに騒がしくなる。生徒たちの反応は様々だ。中には、鳥恐怖症で縮こまっている少女もいる。細川はというと、
「ちょっと失礼」
と言うと、窓を開け、カラスを中に入れた。
パニックでも起こしたのか、カラスはじたばたと暴れている。やがて彼は、カラスを窓の外に出し、飛ばしてやった。
「大丈夫か? ずいぶんカラスが暴れたようだが」
授業を担当する、物理教師が声をかける。ただし授業は化学科、理科教師はときどき、本来の担当とは違う科目の授業をすることがある。人手不足故だろう、人材問題は、ことの他深刻であるらしい。
「すいません、ちょっと引っかかれたみたいです。保健室行ってきます」
カラスの脚から抜き取った紙を袖に隠し、細川は教室を出た。
廊下に出て、彼は左手を見下ろし、軽くため息をついた。
「必要だったとはいえ、なかなか容赦ないな、あの烏」
人目につかない物陰に隠れ、細川は紙を開いた。『白兎』からの急報である。読み終えた紙を消滅させ、細川は保健室へと足を向けた。
烏の爪に塗られていたらしい薬品のおかげで、細川は数分間だけ体調不良を起こした。それを言い訳に高校を早退し、しっかり元通りな体調を確認して学校を離れる。
学生服を鞄に詰め込み、代わりに潜伏用のローブとマスクを取りだして、荷物は仮想空間に放り込む。すっかりお馴染みの衣装となった暗躍服を身に纏い、彼はすぐそばに停車していた黒いスポーツ車──ホンダのS2000に乗り込んだ。
車が走り出してから、細川は口を開いた。
「それで、さっきの話はいつ発覚したんです?」
「つい一時間前だよ」
助手席からの質問に答えるのは、運転席の『白兎』だ。その間に、青い光が細川の傷を癒していく。
「今日の正午、悪魔の煽動と指導を受けた失業者たちが、銀行を襲う計画になっているらしい。組織に潜入している協力者が掴んだ。キミに頼みたいのは、その実行犯を捕える作業の手伝いだよ」
「うわ、また随分面倒くさそうな……」
「これも必要なことだよ。堕天使どもの居場所が、すぐに掴めたら楽なんだけどねーぇ」
「まあ、そうもいかんでしょう。ところで、第二世界空間に魔力使用者はいないと思うんですが、なんで『白兎』さんたちは堕天使の存在をご存知なんです?」
「悪魔の暗躍は、共和国や他の大国でも顕著でね。それと私個人の話をするなら、《禁忌》との関係もある」
「《禁忌》……?」
「キミも一度は会ったことがあるはずさ。《禁忌の魔王》──共和国と帝国で語られる『魔法師伝説』の三人目、転生と魔力使用者の管理者。訊かない限り名乗らないだろうし、知らなくても無理はないと思うけどね」
「魔力使用者を管理する、『魔王』──?」
当然、思い当たる節はある。ラザムと最初に会った謎めいた空間。そこで偉そうに喋る、『魔王』と呼ばれる丸いなにか。
答えは、出た。
「あの風船魔人のことだったのか……」
「ちなみに、『魔人』は別で存在したからね。特に、《禁忌》は好まないと思うよ、その呼び名」
「……つまりあれか。生命創造は禁忌だからではなく、名前の通りなら専売特許だから禁止って話か? ……というか、転生って」
「そのまんま、キミの思うもので間違いないと思うよ」
「なるほど、何となく分かりました。その話はまた今度聞きます」
「気になるかい?」
「あなたがボクの考えるとおりの人間なら、有益な話が聞けると思いましてね。さほど問題はないと思いますが」
しかし、ラザムたち天使があの風船に創られたというのは素直に信じ難い。いろいろと見方も変わってくる。なるほど、と思わないことが、ないでもないが。
「言い出すときりがないな……」
そう考えたときだ。突然、『白兎』が車のハンドルを大きく切った。慌てて細川は、片手でシートを掴んで遠心力に対応する。数多のドライバーが羨むようなスポーツ車は、急な方向転換に抗議するような鋭い音とともにタイヤを滑らせ、交差点を左折した。車の抗議には、細川も賛成したいところではある。
「何事です?」
しかし即座に冷静を取り戻し、細川が訊ねる。それに対する『白兎』の反応は、これまでになく暗い。
「悪いね、どうやら、つけられたらしい」
「は?」
後方を確認する。漆黒のセダンが一台。顔から見て、日産のスカイラインか。これまた数多のドライバーが羨むような、いい車である。
細川は即座に精霊を送り込み、スカイラインの車内を覗き見る。だが、そこにいるのは喪服のような黒いスーツを着た中年の男としか分からない。服の内側に拳銃を持っているようだから、ただの人間ではなさそうだが……。
スカイラインは瞬く間に距離を詰めてきた。素人目にも『白兎』の運転技能はそれなりのものだと分かる。だが、スカイラインの男はそれ以上だ。
「どうします?」
「目立ちたくはないけど、仕方ない。何かに掴まってて」
二車線の幹線道路に逃げ込み、『白兎』はS2000の速度を上げる。スカイラインはS2000の隣に並んだが──助手席の隣に来たのは間違いだ。
「追い払える?」
「やってみましょう」
細川は助手席の窓を開け、右手にマナを集中させる。それをスカイラインのボンネットにかざし、詠唱。
「アル・ミーナ」
ズン、と重い衝撃波が放たれ、スカイラインは縁石を撥ねてスリップした。要は、スカイラインの鼻面を殴りつけたのと同義だ。通行人が駆け寄り、反対に『白兎』たちはさっさとその場から走り去っていく。
まず一度目の敵は退けた。
「……遅いな」
正午を過ぎても、銀行に襲撃はなかった。銀行の横にある狭い通路に入り込んでいた細川の隣で、同じく建物に背を預けていた『白兎』が、時計を見て呟いた。
「おかしいわね、計画では、既に襲撃が起こっているはずなのに、何も起きない」
「何か想定外の事態が起きているようですね。ボクは、銀行内を見てきます」
細川が銀行に向かったので、通路には『白兎』一人が残された。
結果論を言えば、それは間違った選択だ。彼女は腰を落としてそっと脛の拳銃に触れた。そして、再度立ち上がろうとしたとき、それは訪れる。
ナイフの一閃。『白兎』はそれを間一髪のところで身体を反らせて回避する。続いて聞こえてきた声──。
「なぜ、お前が生きている?」
「──!!」
彼女は、その声に聞き覚えがあった。低く発せられた問いかけに、別の拳が飛来する。避け切れず、『白兎』は一度、その場に転がることになった。一瞬で体勢を立て直すが、遅い。彼女は既に、三人の男女に囲まれていた。
急速に、喉が渇くのを感じた。
「アナタたちは──」
一人には、見覚えがあった。
事務的な印象の強い、深緑色のスーツの男。懐かしいくらい会いたくなかった相手だ。彼は、懐から拳銃を取り出すと、『白兎』に照準を合わせる。
「そうだ。我々は──」
彼女は、同様の気配を別の二方向から感じた。細川のように全方位を視認することはできなくとも、”敵”の動きを知る術はある。
深緑の男が口にする名は、日本に身を潜めるスパイとして、最も聞きたくないものだ。即ち、
「──我々は警察庁警備企画課。コードネーム『ゼロ』」
日本最有力の防諜機関。
『幻影』は、公安警察と対峙していた。
#2 『ゼロ』
協力者は、あくまで協力者だ。知り得る情報などたかが知れている。
しかし、知ってはならない情報を知った場合、どうなるか。
口外を防ぐため、殺されるしかない。
彼女はプレス機に放り込まれ、海に沈み、からがら生き延びたところを爆殺された。死体が残らなかったのは、どうやら幸運に属することらしい。
(うーん、公安警察が来ちゃったかー……)
『白兎』は、三つの銃口に囲まれて思案する。
(にしても見事だね。一人で来れば逃げられる。……まあ、私なら勝ち目はあるけどそう考えるのは不思議じゃない。二人で来れば、挟み撃ちになれば負ける。身体をちょっとずらせば相打ちにできるからむしろ都合がいい。三人はちょっとどうかな……)
三人が同心円状に並び、拳銃を発砲すれば、標的の逃走経路を塞ぐとともに、仲間の被弾を避けることができる。一体一も二対一も悪手、最も有利になるのは三人で一人を倒す場合だ。つまり、『白兎』が『一』の側に置かれているこの状況。形成は、かなり厳しい。
(更に厄介なのは、私が日本にいた頃協力者やってた組織だってことなんだよね……顔は割れてるか……)
『白兎』は元々、共和国の生まれではない。かつては日本で生活し、コンビニバイトを転々としながら『ゼロ』の協力者として情報収集をしていた身だ。転生者にはいくらかの条件があるが、歳が若いこと、死体が判別不可能なほど細かくなっている、或いは残っていないことは、その一部だ。協力者は本来、役目を終えると開放されるが、『白兎』は先天的にスパイとしての能力が高かったため、不要に情報に深入りし、公安警察に消されることになった。死亡が悟られればその後に影響するため、細心の注意を払って事故に偽装されたらしい。死体も残らないような殺害方法が採られたのはそのためだ。今も行方不明者として扱われているようだが、今回それが、大きく裏目に出たようである。まさか転生して生きているなど思いもしまい。逃れようもない猛火だった。
『白兎』が意識を現実に戻すと同時、消音器を通した鈍い発砲音が三発。三方向から銃弾が飛来し、『白兎』が一瞬前までいた場所で交差した。彼女自身は、高く跳躍している。そして誰にともなく言った。
「コードネーム『白兎』、跳ね抉る者よ」
それは本気を出すスイッチのようなものだ。
何代か入れ替わりが起きているらしい『幻影』の、伝統のような宣言。
──かつての雇い主が、二度目の死を突きつける。
仲間の支援も、任務の内である。
『白兎』と同じく日本に来ている『幻影』の工作員『冷鳴』は、とあるショッピングモールの屋上から銀行を見ていた。人が滅多に入らない、林立する屋上換気扇。その巨大な装置の隙間に潜り込み、結界を張って光による擬似的な透明化を行う。注意してみるとやや歪んで見えるかもしれないが、共和国にでは多くのスパイを欺くことができた。
そんな、ほとんど視認できない彼に、一人の清掃員が声をかける。
「そこの人、こんなところで何を?」
「………」
只者ではない。細川が『冷鳴』に気づいたのは、あくまでそこに来ると分かっていて、なおかつ精霊の目があったからだ。『冷鳴』は結界を解かずに対応してみる。
「少々外の空気を吸いに」
「これだけ空気の悪い場所で?」
なるほど、確かにその通りだ。結界の中にいると気づかない。
「すぐ戻りますよ」
言ったはものの、結果は予想通りだ。
──清掃員は、帽子を目深に被ったままその場から動かない。
結界の中で、短く詠唱する。
「アル・リーシア」
鉄の長針が射出されるが、清掃員はモップを振って跳ね除ける。そして流れるような所作で、モップの柄から強力な光が発せられ、結界を覆う光に直撃。『冷鳴』の姿を、一瞬だが晒すことになった。
「この国の、秘密警察か?」
「秘密警察ではない」
清掃員風の男は帽子と作業着の上着を脱ぎ捨てた。上着を着ていては分からない、引き締まった体躯が風に晒される。
『冷鳴』も結界を解除する。左右色違いの髪と、作業着のような服装が現れる。どちらかというと、こちらの方が清掃員に見えてくるものだ。
「公安警察だ。防諜機関『ゼロ』として、お前を拘束する」
「やってみろ」
『冷鳴』は高く飛び上がり、煙幕を放つ。
「コードネーム『冷鳴』、冴え響く時だ」
図らずもそれは、『白兎』が跳躍し宣言したのと同じ瞬間だ。
──屋上のスパイ戦闘が、幕を開ける。
銀行に向かう細川は、既に背後の気配に気づいていた。一定の距離を保ってついてくる、不審な人影。彼は、その姿を目にしていた。『白兎』のS2000に同乗しているとき、横に並んだスカイラインのドライバーだ。まだ諦めていなかったか。
わざとらしく振り返ってやれば、それとなく携帯電話を触りだして、あくまでも悟られたくない様子。
(馬鹿馬鹿しい。何も知らないんだろうな、俺の情報は)
銀行内部は、特に変わった様子もない。細川は普段から銀行に通う人間ではないが、それでも店内が平和であることは疑いない風景だ。襲撃の予兆どころか、その残渣すらなかった。
(とすると、予定が変わったのか? 仲間割れ? 堕天使か悪魔がグループを抹殺でもしたのか? それとも……)
彼の意識は、ベンチの男に向く。
(……こいつがなにか関係あるのか?)
今すぐ『白兎』の元へ帰るのは、少々危険だろう。細川は銀行を出ると、来た道とは逆の方向に歩き出した。ややあって、黒スーツも後をついてくる。やがて解体待ちの雑居ビルが現れ、細川はその中に入り込んだ。どうやらまだなにかに使うのだろう。メーターが動いているところを見ると、電気は止まっていないらしい。
七メートル四方程度の広さがある部屋を見つけた。声が掛けられたのは、ちょうど細川がその部屋の中心に立ったときだ。
「君、ここは立ち入り禁止だよ。早く出なさい」
足を止め、気のない返事を返す。馬鹿だろうか、わざわざ声をかけてくるとは。
細川は改めて、男を観察する。中肉中背、喪服と見紛うような黒スーツの上下に黒ネクタイ。やはりあのスカイラインは敵だったか。
「ねえおじさん、さっきからずっとボクの後ろをついてきてるみたいだけど、何か用? もしかしてだけど銀行の襲撃がなかったのと関係ある?」
振り返ることなく告げる。
「困るんだよ、ボクはあいつらに用があったのに。勝手なことしないでくれるかなあ?」
「君……その情報をどこで……」
「言うとでも思ってるの? あと、こっちが持ってる情報だと、あいつらが本当のこと吐いても理解できるとは思えないんだけど」
「……少年、取引をしないか」
「は?」
スーツの男は、振り返らないままの細川にそんなことを言った。
滑稽なことだ。彼が数日前、襲撃に来た中学生に対して言ったことと一致する。細川の場合は断られることをある程度予測した上で、あえて投げかけた。それをこの男は、本気で持ちかけている。笑止の極みと言うべきだった。
「情報を吐いて、我々公安警察の協力者になれ。君は何やら、良からぬ集団と関わりがあるらしい」
「小説家にでもなれば?」
無理かもしれないけど、と余計な一言を付け加えておいて、細川は、初めてスーツの男に向き直った。彼自身は精霊たちの目で全方位が見えているので、別ににそんな必要もないのだが。
本来必要ないのに振り返った彼の顔には、冷笑が浮かんでいた。そして前髪に隠れていない左目ですっとスーツの男を眺め──。
「断るよ」
断言した。
「やっぱ公安か。日本の防諜機関とか聞いたことあるけど、思った以上に無能だったりする? 確かにこの国、スパイに弱いとかよく言われるみたいだけど、さもありなんって感じ? ボクたちは、あんたらに手出しできる相手じゃないよ。潔く退いたら?」
挑発は効いたようだ。スーツの男は、拳銃を抜いて細川に向けた。ワルサーPPK、実際に各国の諜報機関でも使用されている、スパイ向きな小型の拳銃だ。
「まあ、そっちがその気ならやってやるのも吝かじゃない。ちょっとストレス溜まってるんだ、憂さ晴らしにでも付き合ってもらうとしようか」
「すぐ側で、君の仲間が俺の仲間に包囲されているが、それを聴いてなお、やり合う気か?」
「手回しのいいことだね。でもそれこそ杞憂だよ。あの人は、ボクと相対するときほど弱くないはずだ。脅しにもならないね」
「あれは我々の最優先抹殺対象だ。君も降伏するなら早めにするのを勧める。国民を無駄に傷つけたくはない」
「ふん、よく言うよ」
──解体直前のビル三階。薄暗い部屋で銃声が響き、音速の弾丸が細川の肩を掠めた。策謀と魂胆を披露し、公安警察が牙を剥く。
『魔眼』、『白兎』、『冷鳴』──三者三様の危機に陥っていた。
或いは、そのように思われた。
#3 影の縮図
『白兎』を襲った三発の銃弾は、間一髪で標的を外し、路地裏の闇に消えていった。高く跳躍した彼女は袖口に隠していたワイヤーフックを射出し、ビルの壁を蹴りながら高所に達する。エアコンの室外機二台を足場にし、銃撃を試みるも、公安の射撃の方が早い。結局、『白兎』はそのまま室外機の上を退去せざるをえなかった。
公安たちは『白兎』を三方から観察し、彼女を包囲から逃さない。せめて一人でも背後を取れれば、勝機はあるのだが──。
三メートル以上の高さを一気に飛び降り、髪を肩口で切りそろえた女に発砲。しかし弾は避けられ、『白兎』が二発目を撃つ前に赤シャツの男が狙撃する。ギリギリで回避し、女を再び狙い、腹を蹴り上げる。彼女はまたも寸前で後ろに跳び、ナイフを振るう。後方に回避を試みるも緑スーツの男が控えていて、銃弾の回避にも意を用いねばならなかった。横跳び、しかし完全には回避に成功せず、結果ナイフが左腕を掠め、浅い傷を作ることになった。まだましな怪我と言えるだろう、脚が使えるだけ。『白兎』は再度ワイヤーを使い、高所に引っ掛けて跳躍する。空中ブランコのように跳んで赤シャツの背後に回り込み、彼が振り向くより早く首の後ろに指を二本突き立てた。直後、電流が発生する。青白い閃光とともにスタンガンのような音がして、赤シャツは崩れ落ちた。
一名脱落。意識不明だ。
するとそこへ、第三者の声が響く。
「へえ、いいな、それ。今度からボクも使おうかな」
先程は『白兎』が立ったエアコンの室外機の上に、細川が座っていた。手には長い氷剣を持ち、脚をぶらぶらと揺らしている。彼には分かったのだ。『白兎』が使ったのは魔術魔法の基礎技能、手で発生させる電流をスタンガンのように利用しただけのものだと。応用と呼ぶにすら怪しいレベルのものだが、何しろ日本には魔法の縁がないし、単純な攻撃であるだけに対処の余裕もなかったのだろう。
『白兎』が問いかけた。
「キミの方に、公安は行かなかったのかい?」
細川は、いかにもわざとらしく答えた。
「ああ、あの中年オヤジのこと? 廃ビルを爆破したら寝てましたよ。死んではいないと思いますけど」
でも記憶は死んでるかもね、と言って、細川は笑った。彼の素性を知らない公安警察は、ただ困惑するしかない。目の前の最重要抹殺対象も忘れ、呆然と細川を見上げている。彼の存在は、イレギュラーでしかなかった。ともかく、最初に我に返ったのは、緑スーツだったようである。彼はようやく拳銃を持ち直すと、細川に向かって問うた。
「君は、一体何者だ?」
細川は、んー、と数秒間考え込んだ。やがて口を開いたとき、公安警察と決定的に決裂する一言を口にした。曰く、
「自国が嫌いになりそうな、ただの日本国民さ」
『白兎』との関係は、一切言及しなかった。
時はやや遡り、細川の戦闘である。
音速の銃弾を回避すると、細川は『コード』を読み上げた。
「【コード『ι』、風切の即時結界】。【外に音を漏らすな】。続いて【コード『θ』、鏡面結界】。【壁を守りなさい】。次は……」
全て言い切ることはできなかった。三つ目の発動を指示する前に、ナイフを持って接近する黒スーツの男を避ける必要があったためだ。
「ミル・シューマ」
氷塊を放って牽制しつつ、細川の脳は回転を始める。距離を取り、黒スーツがナイフを拳銃に持ち替える前に細川が銃を握る。ただし、それは普段から使っているマナ・リボルバーではない。型は全く同じ──しかし発射するのは体力吸収のレーザーで、対応するコードは『κ』。狙撃されると、五百メートルを全力で走ったのと同等の疲労を感じる。
さすがの公安でも五百メートル全力疾走は応えるのか、表情を歪め、明らかに息を荒くした。構わず、三連射。常人相手ならまず撃たない数だ。
「貴様、そいつは──」
「効いてくれたようで良かったよ」
細川は右手に白色の粉を握った。氷点下百度にもなる、マナ製の氷だ。それを、黒スーツに向かって投げつける。スタンガンを持って迫る黒スーツは、氷に足を取られて体勢を大きく崩し、両手を床に突いたままの無様な格好で縫い止められた。
「ただの人間のくせに、ボクに勝てると一瞬でも思った? 笑止の極みだ、そんな程度じゃ束になっても返り討ちにできる」
「これは、一体……」
「安心しなよ、腐り落ちる前に解放してやる」
細川は、黒スーツを見下ろしながら言い放った。『θ』の結界を解き、今度はマナ・リボルバーを扉に向けて引き金を引く。爆煙が扉を破壊し、衝撃によって黒スーツは凍りついた床から剥がれて吹き飛び、壁に全身を打ち付ける。辛うじて保っていた意識も、
「アル・ドレイン」
体力を吸い取られては仕方がない。肩に触れた細川の手が、ゆっくりと活動力を奪い取っていく。なぜ肩なのかというと、これが中枢神経のある頭や背では重大な後遺症を残すためだ。やがて逆らいがたい睡魔に意識を譲渡した黒スーツを眺めやり、細川は炎上する扉に手をかざす。詠唱するのは、
「アル・フロードルマ」
冷却の精霊術魔法。炎は勢いを弱め、細川が通り抜けるだけの空間を空けた。
残る『ι』を解除し、管理室に踏み込む。
そこにある大量の配線にも爆炎を撃ち込み、偽装工作を行う。屋上を渡って『白兎』のいる地点に戻り、エアコンの室外機に座って眼下の闘いを眺めた。そして、『白兎』が赤シャツを倒したときにようやく口を開いたのだ。
「へえ、いいな、それ。今度からボクも使おうかな」
煙幕を放った『冷鳴』は、空中で身を返す際、銀行の方面で爆発音が響くのを聞いた。
(『魔眼』や『白兎』も公安警察を相手にしているだろう。オレもこいつを早々に掃討せねばな)
着地すると、排気口に身を潜めて両手にマナを集中する。清掃員──の服装をした公安警察──もモップを使い、『冷鳴』の真上に飛び出した。
行動は同時だ。
「アル・シリエスタ」
「眠れ」
結界による拘束が『冷鳴』の右手から飛ぶ。公安はナイフを投擲する。拘束は公安の右腕と胴を捕らえ、ナイフは『冷鳴』が袖に仕込んだ鉄板に弾かれて服を浅く切っただけに留まる。そして、
「ミル・フリエンジ」
『冷鳴』の左手から複数本の鉄杭が射出され、空中にいた公安は両肩に各一本、左手に一本、右の腰に一本、右脚に一本の計六本を受けることになった。そのまま落下し出血が起こるが、『冷鳴』は顔色ひとつ変えない。地面に落下したものを、つまらなそうに眺めるだけである。
「さて、尋問を始めよう。公安警察とやらがオレたちの居場所を掴んだ方法について吐いてもらおうか」
場合によっては生かしておけんな、と付け加え、公安の顔を大いに引き攣らせた。
つまるところ、公安警察にとって『幻影』は過剰戦力もいいところな相手だったらしい。最も簡単に事を片付けたのは『冷鳴』であり、彼は公安警察に拷問を行って情報を引き出すことさえやってのけた。反対に最も苦戦を強いられたのは『白兎』であっただろうが、彼女の場合、三対一という圧倒的に不利な形勢で闘い、結果的に全ての公安警察を退けるに至っている。細川裕は余計な会話に尺を使いすぎたところでもある。戦力だけで言えば、公安警察の黒スーツなど敵ではなかった。殺すつもりであれば、あっさりと死んでいたこと疑いない。
『冷鳴』が拷問によって得た情報は、次のようなものであった。
公安警察が強盗グループを検挙した際、潜り込んでいた『幻影』の協力者までもが逃げ損ねて一緒に捕まってしまった。協力者は公安警察の取調べにおいて『幻影』の存在を喋ってしまい、そこからかつて公安警察の協力者であった『白兎』の存在が露呈してしまったのだという。そのため『幻影』は公安警察と相見え、とくに『白兎』は三人の公安警察を相手取らなくてはならなかったのだそうだ。
「道理で。その協力者、どうするんです?」
「見殺しにもできまい。既に解放した公安警察に、『組織を潰されたくなければ協力者を解放しろ』と言っておいた」
「本当に大丈夫かなーぁ」
「問題ないだろう。あれだけ震えていたのだし」
「一体、何やったんです?」
「身体に杭を突き刺して、時折電流を流してやった。共和国ではもう少し痛めつけないと、大抵のスパイは情報を吐かないんだが」
細川は、スパイになんぞなってたまるかと決意を固めた。
公安警察のトップ機関、『サクラ』とか『チヨダ』とか名前出てきたんですが、なんとなく『ゼロ』の方が格好いいかなと思いました。現在の名前は知りません。あと公安警察の名誉のために付け加えておくと、本来はめちゃくちゃ強い組織らしいです。




